月子さん

@mmm82889

月子さん

              月子さん


                           カメ太郎


僕はこの予備校に居るとき、ある夕方、幻のような電話を受けたことがある。そのとき僕は夕方の勤行を地下の用務員さんのところでしたあと、地下から1階へと上がろうとしている階段でそれを聞いた。

『五〇七号室の三船敏郎君。五〇七号室の三船敏郎君。電話です。至急、事務室へ来て下さい。』

 ……幻聴ではなかった。大学へ落ちた失意の僕に、福岡の予備校に通っていた僕に、長崎にいるはずの月子さんから電話がかかってきた。

『いま福岡に来ているのよ。あなたの寮のすぐ近くに来ているの。出られる? 出られないのでしょ?』

 でも僕は今日ぐらい叔母から電話がかかってくる予定だったので『みっちゃん(叔母のこと)、みっちゃんね。』と言った。

 君は驚いてまた悔しそうに言った。『えっ、なんですって。』馬鹿な僕はまた言った。『みっちゃん、みっちゃんやろ。』君は叫び声をあげて電話を切った。

 初めて聞いたあなたの声が、あなたの甘えるような色っぽい声が、今も僕の耳朶にこだましている。 


あなたは叫び声をあげて電話を切った。それは僕の青春時代の、いや人生の終焉だったのかもしれない。

 僕は家の人に僕が予備校に行ったあと僕の行方を尋ねに電話してきた女の子がいなかったかと何度も聞こうと迷った。また、僕に女の人から電話がかかってきたと聞いたような気もする。でも僕はそのことを家の人に深く尋ねたりしなかった。


 僕は浪人の11月頃、お祈りを一時間ほどしたあと急に元気が涌いてきて月子さんの家に電話したことがある。

『はい、○○です。』

 女の子の声だった。月子さんの妹だった。

『あ、あ、あの、高校二年生の女の人呼んでもらいたいんですけど。』

『はい、ちょっとお待ち下さい。』

 そして受話器からいろんな声が聞こえてきた。妹と月子さんのおとうさんの声だ。

『高校二年生の人ってよ。男の人からよ。』

『男女交際は禁止されとるんだろう。』

 月子さんのおとうさんの声だった。

『そうよ、そうよ。男女交際は禁止されてるのよね。』妹が相槌を打っていた。

 妹のその声とあのとき福岡の予備校の寮で聞いた女の人の声がよく似ていた。僕はやっぱりあれは月子さんだったんだと思った。

 やがて月子さんが電話に出た。



  月子さんは休み時間毎に僕を見に来ていた。僕のクラスの廊下に月子さんはいつも来ていた。とても可愛い女の子の姿が、いつも僕のクラスの横の廊下にあっ た。彼女は教室の入口のところに立って、僕に微笑みを投げていた。いや、ずっと、ずっと、僕に微笑みを投げ続けていた。十分間も、いや、ときには昼休み じゅう、月子さんは僕のために、僕とお友達になろうと、そうしてくれた。

  でも僕は避けていた。徹底的に避けていた。僕は声帯がおかしかった。大きな声が出なかった。力を入れても、小さな声しか出なかった。だから僕は騒がしいと ころでは喋れなかった。男とは騒がしいところでも恥ずかしがらずに喋っていたが、女の子とは、僕は恥ずかしくて、騒がしいところでは喋るのを避けていた。

 やがて月子さんはあきらめたのか来なくなった。僕の徹底した無視にあきらめたのだ。

  月子さんはこういうこともした。僕がどうしても彼女に声をかけてくれないので彼女はこっちから積極的に話かけていかなければだめなのだろうと思ったのだろ う。彼女は花形さんという友達と、僕の席の横の窓(僕はそのとき廊下のすぐ横の席に変わっていた。月子さんが休み時間毎に来ていたのは、僕の席が運動場側 の席----つまり廊下側の反対側の席----であったときだった)を指で子ツン子ツンと----女の子らしい可愛い音がした----叩いた。僕とお友達になりたくてたまらなかったのだろう。彼女は明るい、積極的な性格の女の子だったようだ。

 僕はそれも無視した。代わりに僕の友達が窓を開けて二人に「こらー、なんばしよっとかー。」と言った。二人は苦笑いしながら帰っていった。その笑顔は寂しそうだった。

 その、窓を叩いた季節は、一月頃だったと思う。そうして、僕が卒業する直前、彼女はやっぱり僕を忘れてはいなかった。

 でも僕は無視していた。僕に喋りかけようと寄ってきても僕は逃げるように教室に入って行き彼女を避けていたのだ。

 まっ暗い暗雲が、あの美しい月子さんとともに思い出される。中学の終わり頃は楽しくて輝く季節だった。でも、月子さんとお友達になれなかったことが今でも大きな悔恨となって、僕の胸を時々たまらない寂しさで満たす。

  その後、月子さんとの邂逅はあまりにも漠然としている。僕が高二の秋だったか高一の秋だったか……そうだ、高二の秋だった。月子さんたちは中三だろうに体 育館から出てきたのを見て、僕は少し不思議がったのだった。中三になってしかも秋なのにクラブをしていたのだろうかと不思議がったのだった。僕はその夕 方、中学の頃の友人である中島と二人で、中学校の運動場でサッカーをして遊んでいた。月子さんたち八人ほどが体育館から出てきたとき、僕は砂場の縁に座っ ていた。中島は一人でサッカー子ートにボールを蹴っていた。

  体育館から出てきた女の子は八人ほどだった。その一番先に歩いていた女の子が「あっ、三船クン」と叫んだのだ。とてもよく透る声だった。そうしてその女の 子は立ち止まって僕を見つめていた。後の女の子たちも立ち止まり、僕たちを見ていた。僕は砂場のへりに座ったままうずくまっていた。僕は砂をいじり、俯き つづけた。中島がサッカー子ートの前で一人でサッカーをしながら「おい、ハブ※」と言ってサッカーをしようと誘うけれど僕は女の子たちの視線に恥ずかしく て動かなかった。いや、動けなかった。女の子たちは砂場のへりに座っている僕をじっと見ていた。僕はこんなに見つめられるとますます体が硬直した。やがて ある女の子(前から五人目ぐらいのところに立っていた少女)が中島の方を見てこう言った。「あの人誰?」するともう一人の女の子が冷たく「誰かな?知らな いわ。」と言った。その会話を聞いた中島はいつもの剽軽さを出してクシャミするように「エヘン、エヘン」という声を出した。

 そうしてこういう会話も聞こえた。「どうしたのあの人?」「変ねえ。」そうして僕の名を呼んだ女の子が「いやらしかね」と怒ったように言った。

 女の子が「いやらしかね」と言い放つと女の子たちは帰っていった。三分か四分ほど、僕を見つめていたけど、僕は俯いて無視していたので……。秋の夕暮れだった。女の子たちの声と、サッカーボールの音が、夕焼けの空にこだましていた。

「ど うしたのあの人?」「変ねえ。」は中島に向かって言われたのではなかった。僕をじっと見つめて、非難するように放たれた言葉だった。そうして最後の「いや らしかね」という言葉は、無視してばかりいる僕への非難の言葉と思っていた。……でもこの頃その言葉は、その女の子を冷やかすか何かした女の子に言われた 言葉ではなかろうかと思っている。

  ……僕にはその女の子たちが誰だったかはっきりとは解らなかった。僕は恥ずかしくて俯いていたから。いちばん先頭を歩いていた女の子は月子さんではなかっ たろうか。しかし、そう叫んだ女の子は少しぽっちゃり型で目が大きかったように見えたと記憶している。月子さんは少しやせ型で目はあまり大きくない。


  それから、ああ、僕はもう一度月子さんと出会った。それはたしか月子さんが中三のとき、つまり僕が高二の頃だった。秋から冬に変わろうとしている季節だっ たと思う。中学校の運動場での出会いからあまり月日がたっていなかったはずだ。僕はその日、学校帰りにクラスメートの川上と、インベーダーゲームをするた めゲームセンターへ行った。学生服のままゲームセンターに行くのは良くなかったので川上の家へ行き川上の服を借りて着ていた。僕は川上の服が似合わず恥ず かしかった。僕はそういうみっともない格好で月子さんと出会った。

 僕たちが新大工町のバス停の前を通りかかった時だった。僕たちはゲームセンターでゲームをしてそれからどこかへ向かっていたのだろう。しかし、どこへ向かっていたのか憶えてない。玉屋だったのだろうか? 図書館だったのだろうか?

 新大工のバス停の前を通りかかったとき「あっ、三船君」。

 それは月子さんの友達の花形さんの声だった。新大工の大きな国道を行き過ぎるバスの中から発せられた声だった。僕は服が格好悪いと思っていて顔をあまり挙げることができなかった。でも僕は見た。花形さんだった。そして月子さんも乗っていた。



 空想は僕の過去を美しく彩り、それに沈潜しているはかない喜びは、はかないはかない幸せを僕に与えつづけていました。はかないはかない空想だと自分でも気付いていたのかもしれません。でもそれが単なる空想だと思うことは僕の過去――美しく彩られた過去を――僕 は幻でもよかった。幻でもいい。信じていたかった。僕に寄せられるあなたたちの切ない真心を少年の日の美しい思い出として胸に秘めつづけておきたかった。  過去とはそして幻とはいったい何なのでしょう。同じなのではないでしょうか。過去も幻も同じだということを、僕は信じていたのです。僕の美しい少女たち の真心に彩られた美しい過去。そしてそのことごとくを踏みにじってきた僕の罪。美しい思い出でした。



               完

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