桃子さん(12年半・佐賀)

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桃子さん(12年半・佐賀)

    桃子さん(12年半・佐賀)


                カメ太郎



 桃子さんは長崎へ帰る途中に寄った僕の来訪に驚きながらもいつものように少し冷淡に僕の姿に見入っていた。そして商売柄か僕を案内し僕の横に座った。そしてウイスキーの水割りを注いでくれた。大きな大きな水割りだった。しかし大きな目の自分に向けられる冷たさはいつもと変わらなかった。半年前とも、12年半前とも変わらなかった。

 薄暗いキャバレーの中で僕は桃子さんと隣りに座った。太股と太股が触れ合う寸前だった。しかし触れ合わなかった。僕らは意識的にどちらからともなく避けていた。8月の始め、僕は早めのお盆休みをもらって長崎へと帰る途中で博多から佐賀へ来た。桃子さんと会うためだった。

『あれから5カ月あまりが経ちました。5カ月前、あれは僕がまだ佐賀にいる頃、2月の終わり頃だったと思います。今、8月になったばかりです。5カ月間、この間、僕にはいろいろありました。長崎大学の神経解剖学の大学院に入りながらも教授と衝突し、そして僕は佐賀にいる頃から誘いのあった長野県の大きな精神科の病院に来ました。長崎には1カ月も居なかったことになります。4月終わりの夕方、僕はその日、昼、教授と衝突し、長野に電話しました。僕はその日夕方、パソコンや布団などをクルマの後部座席や助手席などに乗せて長野へと旅立ちました。夕方の5時半頃、長崎を出て、朝の6時半に長野に着きました。高速道路を通って1250kmでした。途中で15分ほど仮眠をとりました。高速道路に乗ったばかりのところで眠くてたまらなくなり路肩で15分ほど眠ったと思います。それからはコカコーラの缶ジュースを8本飲んだりしてノンストップで長野まで来ました。途中、大阪のところで道を間違えたかと思ったこともありましたが間違えずに長野までやってきました。12時間半懸かりました。その間ずっと題目を唱え続けました。

 4月、僕は、大脳基底核の左右非対称性をパソコンによる画像処理で解明しようと思い立ち、自費で顕微鏡に取り付けるカメラやスキャナーを買ったりしました。友のためでした。分裂病で苦しむ友のためでした。そうやって分裂病など精神病の器質的特徴を解明しようと思ったのです。しかしそれが教授の逆鱗に触れました。今、疲れています。毎日の食べ物が粗末すぎるからかもしれません。毎日、パンと水しか食べていません。

 病院のすぐ近くの幽霊の出るような大きな古い家に今一人で住んでいます。ここには夜になると豚の啼き声がしてきます。そして豚の臭いもしてきます。でも昼間、朝方、外を見回しても豚は居ません。豚小屋はありません。でも夜になると必ず豚の啼き声がしてくるのです。それも大きな大きな啼き声です。

 またこの家は通路は電気が点かず、風呂は沸きません。

 こんなこともありました。その家は風呂が沸かないため銭湯に行かなければいけませんが、銭湯は遠く、行くのが面倒でした。またお金もかかります。自分は5月の始め、まだ長野は寒いとき、夜9時半頃、テンプレートを嵌めて家の周りを思いっきり走ってその家の水の風呂に飛び込みました。根性でした。その家は水はちゃんと出るのでした。でもガスが出ないのでした。そして電気給湯式になっているその家の大きな風呂は自分の衣服の置き場になっていました。佐賀の時と同じように風呂桶に汚れた衣類を漬けていると洗わずにそのまま着れるという方法を自分は採っていたのです。

 僕には創価学会の信心があります。僕は負けてはいません。朝、題目をいつも3時間近く唱えて病院に行っています。そうしないことには辛くてやっていけないからです。

 長崎から離れ遠く長野での一人暮らしは、でも信仰のためになんとかやってゆけてます。でもなんとかです。いつダウンするか解りません。ぎりぎりのところだと思います。

 この前まで毎日のようにスポーツプラザに行ってボクシングのサンドバックをふらふらになるまで打っていました。佐賀でのときのように歯にテンプレートというマウスピースのようなものを嵌めてできるだけ激しく運動することによって新しい噛み合わせに合った新しい筋肉系が造られ、そして身体中のバランスがとれ、自分のような自律神経失調症のような病気が治るという治療法をついこの前まで行っていました。しかしそれが今は鍼に変わっています。

 長野に来てある名人鍼師の話を聞きその鍼のところに毎日のように通い始めました。そしてその鍼が驚くほど効いて吃りがほとんど治りました。でも根本的には治ってはいないはずです。もう一度、もう一度、歯の噛み合わせで病気を治すというテンプレート療法に賭けてみようかとも思っています。

 早く治さなければ、早くすべての病気を治さなければ、と自分は焦っているのです。鍼とテンプレート療法の二つで治そうかと今思ってきました。鍼もいいし、テンプレート療法もいいし、しかしそれでも僕の病気は治らないのです。小さい頃からの病気です。幼い頃からの強い体のアンバランスはなかなか正常状態にはできにくいのです。

 早く治りたいです。早くみんなに恥ずかしくない自分になりたいです。今までのこの苦しみから早く逃れたいです。

 もう20年にもなると思います。またこの対人恐怖症は18の頃からですから15年にはなっています。早く治りたいです。でも今、この鍼が劇的に効いている今、鍼のみに賭けてもいいような気がします。どちらにするかは題目を唱えながら決めることです。

 精神科医ながら精神科のクスリを飲み続けている自分。情けないです。しかし現実は厳しいです。

 自分は今度から、つまり長崎に帰って低出力レーザーの、レーザーポインターのようなものです、それを持ってきて分裂病で苦しんでいる患者さんにそれで治療してやろうと思っています。

 しかし自分は長崎の精神科でそれを行い、そしてそのために追放されたのです。ほとんどそれが追放される原因となりました。その事件がなかったら自分は長崎の精神科にまだ居たと思います。住み慣れた長崎で親と一緒にまだ住んでいたと思います』

 僕はいつものように俯いて話していた。桃子さんは興味深そうに僕の話に聞き入っているようだった。しかし自分には思い出したくもない悲しい悔しい過去のことだった。

『話が脇道に逸れてしまいました。自分は長野でほとんどアルコールを飲んでなくてかなりアルコールに弱くなっているのだと思います。話は、ああ何だったのでしょうか? ただ自分が甘いこと、自分は今もっと勉強しなければいけないに、自分の、自分自身のこの病気を治すためにも、またたくさんの分裂病で苦しんでいる患者さんのためにも、もっともっと研究や勉強に励むべきなのです。甘いのです。今の自分は甘いのです』

『話は、そうでした、僕は4年前にバイクで事故を起こし、4日半意識を喪っていたことを話したでしょうか。4年前だと思います。いえ、5年前かもしれません。頭がぼーっとなって分かりません。僕は4日半、意識を喪い、死に瀕していました。頭蓋骨はぼろぼろで手術はされず放っておかれました。そして自分は三蔵法師の夢を見ていました。僕は中国やインドにいました。三蔵法師のお供として自分は歩いていたのです。

 4日半の昏睡の後、僕は『三船は死なず』と言って起き上がったのです。4日半後、自分はそうやって死なずに意識を取り戻したのです。でもそれから人の名前を覚えきれないとかいろんな後遺症に悩まされ続けています。でも、三船は死なない、のです。

 そして僕は今、“頭蓋骨レーザー鍼による精神病治療”というのを研究しています。実験台はもちろん自分の頭です。僕の頭はレーザー鍼による無数の、無数の。

 ——

『13年。もうあれから13年になろうとしています。今8月ですからあと5ヶ月近くで13年になります。それまでには自分はこの病気を治したい』


 ——桃子さんは聴いてはいなかった。いつの間にか、たぶんずっと前から、僕の傍を去り見知らぬ男と暗闇の中で抱き合っていた。僕は桃子さんは看護学校へ通っていたのだから興味があるものとばかり思っていた。僕の一人語りだった。僕は酒に酔ったまま、ずっと一人で語り続けていたのだった。僕の声は桃子さんの耳には届いてなくて空中に涙の叫び声のように溶けていっていたのだった。


 でも桃子さんは僕の傍にやって来た。何故だか解らなかった。商売柄からやって来たのかもしれなかった。

『12年半前。いえ、あれは僕が浪人していたときの冬の日のことでした。14年前半前になるのだと思います。

 僕が4回目のラブレターを出してやっと返事が来たのでした。2月の3日のことでした。今でもよく憶えています。

 あの日、もうそろそろ図書館に勉強しに行こうと思っていたときでした。郵便受けの音が鳴り、いつもの郵便配達の人のバイクの音がしたので、もしかしたら、と思ったのでした。そして玄関の郵便受けに向かいました。

 玄関の郵便受けの扉を開けると、女の子からのものとすぐ解る可愛い封筒がありました。でも軽かった。薄っぺらくて、一枚しか入っていないようでした。そして字が少し丁寧でなく走り書きめいていました。僕は良くない予感を覚えました。

 仏壇の前に行って正座し、題目を充分に唱えたあと、仏壇の前で思い切って封筒を開きました。今でも憶えています。悲しい手紙でした。

 でも僕はそれを僕を勉強に没頭させるための、つまり僕を浪人してまで目指している九医などへと行かせるための偽りの手紙ではないのかとも思ったのでした。仏壇の前で悲しみに耐えながらも、そう思いました。

 でも僕はその日、図書館へと向かうバイクの上で、ちょうど本河地の真っすぐな道のところで目を瞑りました。偽りの手紙と心の中で否定しながらも、本当のような気がしたからです。

 でも僕が目を瞑っていたのは何秒かのことでした。バイクは時速50キロぐらいで少し下りになった真っすぐな道を走っていました。対向車は幸いにも来てはなく、僕のバイクは中央線を少しはみ出していた程度でした。僕はゆっくりとバイクを元の車線へと戻しました。

 偽りの手紙なのか、真実の手紙なのか、僕は偽りの手紙と信じていようと思いました。悲しくなっても仏壇の前に行き、耐える日々がそれから始まりました。

それが偽りでなく、真実の手紙と知ったのが12年半前のクリスマスイブの夜のことでした。あの悲しい夜から12年半が経とうとしています』


『12年半はあっと言うまでした。幻のように過ぎた12年半。いえ、幻ではないのかもしれません。僕がこんなに頭を打って頭がボーッとしてしまうから幻のように思えるのかもしれません。思い出せません。12年半前の、そしてその前の、ずっと前の出来事も今の僕には幻としてしか思い出せません。

 でも僕は中学の頃の君の姿や、ああ君の水着姿やテニス姿、今も僕の目にはありありと思い出すことができます。美しかった。とても美しかった。

 今のように頭がぼんやりとなっていても君のあの頃の姿だけは思い出すことができます。昨日のことのように思い出すことができます』

 ——12年半前の時のようだった。桃子さんはいつの間にか去っていっていた。そして他の男のところに行っていた。そしてその男に抱きつくようにしていた。

 僕は側の他のホステスに話しかけた。

『人、人の人生とはこんなものなのでしょうか。幻のように過ぎてゆくのが人の人生なのでしょうか。悲しい過去も、そしてほんの少しの楽しい思い出も、幻なのでしょうか』

 桃子さんはそうして薄暗闇の向こうでクスクスと笑っていた。変わっていなかった。僕が大学2年目の時のタクシーの中での桃子さんと今ここでの桃子さんと変わっていなかった。僕の心も桃子さんの心も変わっていなかった。ただ時だけが過ぎていた。12年半の時だけが過ぎていた。


 空想は僕の過去を美しく彩り、それに沈潜しているはかない喜びは、はかないはかない幸せを僕に与えつづけていました。はかないはかない空想だと自分でも気付いていたのかもしれません。でもそれが単なる空想だと思うことは僕の過去——美しく彩られた過去を——僕は幻でもよかった。幻でもいい。信じていたかった。僕に寄せられるあなたたちの切ない真心を少年の日の美しい思い出として胸に秘めつづけておきたかった。

 過去とはそして幻とはいったい何なのでしょう。同じなのではないでしょうか。過去も幻も同じだということを、僕は信じていたのです。僕の美しい少女たちの真心に彩られた美しい過去。そしてそのことごとくを踏みにじってきた僕の罪。美しい思い出でした。



            完

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