星子(夢1)
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星子(夢1)
星子(夢1)
カメ太郎
カメ太郎は体が硬直したようになって突っ立っていました。星子さんの葬式があっているのにカメ太郎は玄関の所で体が硬直してしまって受付のおばさんが『どうぞ』と促すのに全く動けないのでした。周りの人はこんなカメ太郎を奇妙な目で見て通り過ぎて行きます。中からお坊さんの読経の声が聞こえてきます。カメ太郎の足は地面に貼りついたまま少しも離れようとしないのでした。カメ太郎は思わず嗚咽を漏らしてしまいました。
カメ太郎は黒いアスファルトの道に立ちつくしたまま星子さんに別れを告げているのでした。いっそのことならカメ太郎も死にたかった。生きていてノドの病気や言語障害のことなどで辛い思いや苦しい思いをするよりも死んだ方がどんなに良いだろう。
星子さんは祭壇の写真の中で笑っているような気がする。死んで楽になった楽になったって喜んでいるような気がする。ちくしょう、一人で嬉しがってる。カメ太郎はまた盛んに泣けてきて道の上に立ちつくしたまま泣いているのでした。ちくしょう、一人で嬉しがっている。
そしてカメ太郎は両手を強く握りしめブルブルと震えていました。
カメ太郎は雨に濡れた星子さんの家の表札の前に黒い傘を手に挿したまま茫然と立ちすくんでいた。今日から学校へ行き始めた。学校が終わったあと水族館前でいつもは降りているのにそのまま乗り過ごし2つ先の終点の網場まで乗っていった。バスから降りるとき星子さんの車椅子を寂しく置いていた桟橋とそのまえのカメ太郎らを呑み込んだ海が今日はしんみりと雨に打たれつづけていた。海は罪滅ぼしのために雨に打たれているようだった。
カメ太郎は罪人のようにバスのタラップを降りた。しとしとと降っている雨はカメ太郎の星子さんへ対する罪を洗い落としてくれているのだろうか。カメ太郎の頬に降りかかってくる。罪に満ちたカメ太郎の頬に降りかかってくる。黒い傘をカメ太郎はあの夜、カメ太郎らを覆いつくしていた闇のように挿した。そして靴を濡らしながら星子さんの家へと向かった。
カメ太郎は今日、学校へ行っても星子さんへの罪悪感のためどうしても落ち着けなかった。自分は殺人者で刑務所へ入るべき人間なのだと思えて仕方がなかった。いたいけな少女の心を踏みにじったあげく自殺させた殺人者と同じような者だと思えてならなかった。
カメ太郎はひたひたと降る雨の中を黒い傘を片手に星子さんの家へと向かっていた。カメ太郎は途方もない大罪を犯したのに周囲の人は却ってカメ太郎をねぎらってくれるのが不思議だった。
あの夜、海水の中に沈みかけたカメ太郎を、ちょうど通りかかった会社帰りの人が飛び込んで助けてくれなかったら、カメ太郎も星子さんと一緒に霊界へ行けて、霊界で、夫婦のように、楽しく毎日が送れたのに。今こうして生きているのが、そして依然として今までのように学校のことでいろいろと苦しまねばならぬことが辛い。あの夜から3日休んだだけで再び学校へ行かなければならないようになった。
カメ太郎はあの夜、もしも助けて貰えずに死ねてたら、きっと霊界で星子さんのいう綺麗なお城にカメ太郎は王子として生まれ星子さんと一緒に暮らせたのに。そしたら楽だっただろうに。生きていて現界でこのようにあくせくと苦しまねばならないのが辛い。
明日もまた学校か。
(ある者の証言)
『ズボンッ』
と桟橋から海に何か大きいのが落ちる音が聞こえました。それは何か人魚か何かが月夜に浮かれ出て桟橋に上がり月見をしていたら人が来たのでやっぱり海の中に戻ったのだと私には思われました。何かが落ちたのではなく何かが海の中に戻ったのだと私には思われました。
春の夜の幻聴のようにも思われました。私は再び縁側からテレビのある部屋へと戻りました。テレビでは“プロゴルファー猿”があっていました。
やがて寝転がってテレビを見ていた私の耳に今度はかすかに再び桟橋あたりから『ボスッ』と海の中に飛び込む音が聞こえました。私は何気なく立ち上がり再び襖を開けて遥かに桟橋あたりの海を眺め始めました。海面を何か河童のようなのが泳いでいるようでした。私は再び夢見心地のような気分になりふらふらとしながら襖を跨ぎテレビの部屋に戻りました。そして再びごろっと横になりテレビを見始めました。
カメ太郎は一人淋しく日見の川縁を歩いていました。6月のことでした。もうすぐ梅雨に入るか入ったばかりの蒸し暑い土曜日の午後でした。カメ太郎はその日午前中で学校が終わったあと珍しくまっすぐに家に帰ってきてそしてなんだか家にいるといたたまれないような気分になって不意に家を飛び出したのでした。雨がしとしと降っていたようにも、雨上がりで太陽がカンカンと照りつけていたようにも思えますけどよく思い出せません。
カメ太郎はふと“星子さんの家に行こうかな?”と思いました。川の水は増水していて流れは激しくなっていていつも見える魚たちの姿が今日は見えません。カメ太郎はふらふらと星子さんの家の方角へと進んでいっていました。
位牌となった星子さんが額縁に入れられた大きな写真とともにカメ太郎を微笑んで迎えてくれるようにも思えます。星子さんのお母さんは初七日のとき以来来てなかったカメ太郎を喜んで迎えてくれることでしょう。きっと目を泣き腫らして。カメ太郎が幽霊のように玄関の前につっ立っているのをこのまえの初七日のときのように敏感に感じとって、ためらうカメ太郎をとても大事な客のように中へ通してくれるでしょう。星子さんの一番大切だった友だちとして。そして星子さん、大きな額縁の中から通されてきたカメ太郎の姿を見てにっこりと微笑むんだろう。このまえのように。
あの日、初七日のとき、カメ太郎は『星子さんの初七日に行く』と言って学校を休んだものの、11時ごろまで布団の上で転々としていた。“カメ太郎が殺したのだ。”という罪悪感のため。このまえ葬式のとき星子さんの両親はカメ太郎に泣いて感謝してくれたけど“やっぱりカメ太郎が殺したんだ”という罪悪感が強かった。そして今日行けばその恨みを言われ追い返されるようにも思えていて11時まで布団の上で転々としていた。
でも思い切って起き上がって顔を洗い歯を磨いたあと星子さんの家に出かけていくと星子さんの親や親戚の人たちはカメ太郎を暖かく迎えてくれた。星子さんの一番大切な友人として。
今日、あの初七日から一ヶ月あまりが過ぎ去った今日、星子さんの家に突然訪ねて行くのは何故だろう。カメ太郎は今日、試験前にも拘らず図書館へも行かずまっすぐ家に帰ってきたのは何故だろう。
カメ太郎は雨に濡れた道を踏みしめながら眼前に星子さんの微笑んだ顔が浮かんできて星子さんの家に行って、そうして星子さんの額縁の前に一ヶ月ぶりに行って星子さんに挨拶をするのがそんなに嬉しいのかな? 星子さん、そんなに嬉しいのかな?
『星子さん。カメ太郎の目指していることは立派なことなんだろう』
カメ太郎は6月の空にポカリと浮かび出た星子さんの笑顔にそう呟いた。
『星子さん。カメ太郎の目指していることは間違いないんだろう』
カメ太郎は再び空に浮かんでいる星子さんのあどけない笑顔に向かってそう呟いていた。『カメ太郎は自分の立身出世のために勉強するのではいけない。カメ太郎と同じような病気で苦しんでいる人たちのために』
カメ太郎はそんなことをポッカリと浮かんでいる星子さんに何度も確かめるように尋ね続けていた。カメ太郎は喋る相手がなかったから。カメ太郎は空間に向かってずっとそんなことを呟きながら星子さんの家の方角へと進んでいた。周囲には誰も居らずスズメやツバメだけがいて(ほかにのら犬もいた)カメ太郎と星子さんの会話を邪魔する者はなかった。カメ太郎は幸せに川縁の道をときどき水かさの増したちょっと泥色に濁った川面を見つめながら歩いていた。
川の傍の道を逸れ、網場の桟橋の方へ向かうまっすぐな道に出ると一ヶ月半まえ、夜星子さんを救うために走ったあのときの光景が蘇ってくるようだった。そしてあのときの星子さんの体感、始めて抱いた女の子の体だった。カメ太郎にあのときの暗い息苦しかった海での出来事がありありと蘇ってきていて不思議だった。
明るいこの道が5月8日のあの夜の道のようにまっ暗になってありありとあのときのことが蘇ってきていた。もしもあの日、図書館で遅くまで勉強していて星子さんが電話かけてきたときにカメ太郎が家にいなかったらどうなっていたのだろうかな、と思った。そうしたら星子さん、もしかするとそのまま淋しく家に帰っていたのかもしれない。死ぬ勇気がなくなって(死ぬ気力が湧いてこなくなって)死ななかったのかもしれない。
カメ太郎はそう思ってあの日、図書館に行っているか、あのとき電話のベルが鳴っていても起きなかったら良かったのに、と思って悔やんだ。あの日、図書館で勉強しているか電話のベルが鳴ってもそのまま寝ているかしていたら良かったのに。
そしてカメ太郎は首をガクリッと垂れながら歩きつづけていた。依然としてカメ太郎の前方斜め上には星子さんの笑顔が(カメ太郎には悲しい笑顔にしか思えないのだが)哀しげに朧ろな月のように懸かっていた。
カメ太郎はどこに向かっているんだろう。フラフラと、まるで死にに行っているようだ。 そしてカメ太郎にはふたたび一月半ほど前の夜8時カメ太郎が息を切らして走った夜の道の光景がありありと再び走馬燈のように蘇ってきていた。星子さんを救うために走ったあの夜の光景が。
暗い暗い暗黒の中をカメ太郎は悪魔の呼び声を聞きながら走ったのでした。あの夜、悪魔のまっ黒い体内をカメ太郎は走っているようでした。
『カメ太郎さん、寂しいの。一人きりなの。とても寂しいの』
『死んだんだろ。自殺したんだろ。自殺したらそうなるって本にも書いてあるよ。カメ太郎にはただ星子さんの冥福を祈ってやるしかないんだ。でもカメ太郎は一生懸命に祈っている。星子さんの幸せのため一生懸命に祈っている』
朝の勤行のときもカメ太郎は一生懸命に星子さんのことを祈っている。
……カメ太郎・走りながら……
カメ太郎も生きることに疑問を感じてきていた。でもカメ太郎は死ななかった。君はでも今死のうとしている。君はあんまり深く考え過ぎたのだと思う。幸せもほかのところにあるということを君は忘れていたのだと思う。
浜辺へ行こう
ゴロと一緒に
そうしたら星子さんが現れてくるかもしれない
霊界から星子さんが静かに現れて来るかもしれない
星子さんとの思い出の丘の上に立ちすくみ
カメ太郎は泣いていた
シクシクといつまでも
傍にゴロが立ちすくんでいた
菫の花になった星子さん。星子さん、生きていたときもちっちゃかったけど死んだらもっともっとちっちゃくなったんだね。カメ太郎の手のひらに乗るぐらいに。
菫の花になった星子さん。ちっちゃなちっちゃな星子さん。でも青紫色のとっても綺麗な星子さん。
そよ風に揺れてる星子さん。寂しげにカメ太郎を求めて手を振ってるようだ。
星子さん、そんなに寂しいのかい? 霊界ってそんなに寂しいのかい?
カメ太郎も寂しいんだよ。カメ太郎も生きていてもとても寂しいんだよ。
『星子さん、カメ太郎らを呑み込んだあの黒い海がまたワーッと盛り上がってきて歩いているカメ太郎を星子さんのいる霊界に連れていってくれないかなってよく考えるよ。カメ太郎、星子さんの傍に行きたいな。二人で手を繋いで黄色い花の咲き乱れる花園を駆け回ってみたいな』
星子さんへ
あの日の夜の苦しみをカメ太郎は今でも憶えています。あのずぶ濡れになって走って帰って来た夜、カメ太郎はいつものようにすぐに風呂に入った。いつもは汗を流すために入るのに今夜のは塩水を流すために入った。そして海水で濡れたカメ太郎の服はすべて洗濯機の中へ荒々しく放り込まれた。
カメ太郎は半ば泣き被りながら風呂に入った。カメ太郎はまだ星子さんが死んだことが、それもカメ太郎のせいで死んだことが、まだ信じられなかった。まっ暗な道をひた走りに走って行ってそして海へ飛び込み、もう動かなくなった死骸の星子さんを岸まで連れ戻すときに感じたあの苦しさ。そしてその苦しみの果てに訪れたカメ太郎と星子さんが高原の花園で走り回っている幻想や結婚式を挙げている幻想。
そしていつの間にか気を喪っていて気が付いたときには桟橋の上で人に取り囲まれて横たわっていたこと。すべてすべて夢や幻のようにしか思い出されない。
そして夜、唸されたこと。とても奇怪な顔をしたお化けのようなのがカメ太郎を次々に襲ってくる夢を見たこと。とても怖しい夢だった。そうしてとっても何故か寒い夜だった。
(浜辺にて)
カメ太郎もこのまま消え果てて、星子さんのいる天国へ行きたい。もう夏になって、もうすぐ終業式だけど、補習があるし、
カメ太郎もこのまま消え果てて、現実の毎日の苦しさから解放されて、星子さんのいる天国へと、このままゴロを抱いて飛んでいきたい。このまますっとカメ太郎は消えてしまいたい。
星子さんへ
もう夏になりました。でも星子さんの居ない夏なんてカメ太郎には信じられません。いつもカメ太郎の心の片隅に居た、挫けそうになるカメ太郎を支えてくれていた(文通だけだったけれども)星子さんがもう居ないなんて。そうしてカメ太郎はたった一人でこの夏を迎えようとしています。
ゴロは相変わらず元気です。今日も中学校までだったけど散歩に連れていきました。
あさって終業式で、でも補習が8月の始めまであるから。
カメ太郎はなんだか本当に星子さんが死んでしまったのかな、ととても不思議です。なんだかカメ太郎にはとても不思議です。窓から見える景色は以前と全然変わらないのに。
星子さんへ
もう星子さんのいなくなった浜辺でゴロと今日戯れていたとき、浜辺の上に星子さんがパッ、と現れてカメ太郎とゴロはカメ太郎らに向かって微笑んでいる今にも消え入りそうな星子さんの姿にほんの少しだったけどすっかり見とれていました。
でもあれは幻だったんだなあ、と今思っています。でもゴロもカメ太郎と同じようにカメ太郎が見ている方角をポカンッと見ていたからやっぱりあれは幻ではなかったのかもしれません。
星子さんへ
星子さんはもう逝ってしまったのに今更こんな手紙を書くなんてちょっとおかしいですけど心が慰められるから。
星子さんが逝ってから半年、カメ太郎は今大きな不安に立たされている。とてつもない大きな波が押し寄せてきて浜辺に佇むカメ太郎を覆い込んでくれたら。そっちの方がいいや、と思ってしまいます。
カメ太郎の不安は大きく大きく、この浜辺じゅうを覆ってしまいそうです。この浜辺の砂や石ころの中にカメ太郎の不安が溶けていっても、まだ溶けきれない不安が浜辺をうろついていることでしょう。
もう星子さんの住んでいないオレンジ色の星子さんの家を見ていてもやはり以前と同じように心が少し和らぎます。もう星子さんは住んではいないにしても星子さんの面影が窓辺から星子さんの家を眺めているとあの悲しい夜の星子さんの電話での声と一緒にカメ太郎の目のまえにありありと蘇ってきます。
もう学校を休み始めて4日目です。
(カメ太郎もカモメになりたい)
もしもカメ太郎が青い海の上に浮かんでいる白いカモメになれたら、そうしたらカメ太郎はどんなに幸せだろう。青い海の上にプカプカと浮かんでいる白いカモメにカメ太郎がなれたらどんなにいいだろう。
でもカメ太郎は苦しみや不安でいっぱいになってこの浜辺に佇んでいる。厳しい現実がカメ太郎を襲ってきていてあさってから学校に行かなければならないことを考えるとカメ太郎は発狂しそうだ。
カメ太郎はカモメになりたい。青い海の上に暢気そうに浮かんでいる白いカモメにカメ太郎はなりたい。
カメ太郎の手に、もう4ヶ月以上も前になるあの日の星子さんの肌の感触が残っている。カメ太郎はそっとその手の平を見て『これが本当に人を救えるんだろうか? これが本当に人のためや世のためになるのだろうか?』と考え込んでカメ太郎はとても不安になった。
そしてカメ太郎の生きる価値って、本当にあるのだろうか、と訝りながらカメ太郎のサクッ、サクッと砂漠を岬の方へと歩いていた。
カメ太郎の手に人を救えるだけの力を下さい。どうかカメ太郎のノドの病気を治して下さい。
カメ太郎の生きる価値ってちっぽけなちっぽけなカメ太郎の生きる価値って。どこにあるのだろう。カメ太郎はそうしてじっと手の平を見つめた。
(カメ太郎の耳に聞こえてきている波の音。もう夏が終わろうとしている海辺の香り。星子さんが逝ってからもう4ヶ月が過ぎた淋しさと過去への憧憬めいた思い。懐かしいあの頃の日々。楽しかった文通。でも苦しいことをいっぱい書いてていつも星子さんを困らせていたっけ。
四ヶ月はあっという間に過ぎ去り、カメ太郎に残されているのはたった一人ぼっちの……もしくはゴロとの……なんだか未亡人のような心の状態で過ごさなければならない日々が続いていた。以前、あれだけカメ太郎の心を慰め励ましてきた星子さんとの文通ができなくなってから四ヶ月、カメ太郎は毎日を本当に妻に先立たれた夫のような心境で過ごしてきたっけ。
打ち寄せては引いてゆく波も星子さんの生きていた頃の波の音と少し違う気もする。カメ太郎の魂はだんだんと星子さんの待つ天国に引かれていっているような気がしていた。細い細い白い糸で。カメ太郎を霊界へ引っぱっているような星子さんの手。
(カメ太郎は歩いていた。岬の方へ。すっぽりと覆う淋しさと虚しさにカメ太郎はやりきれない気がしていた。
4ヶ月まえ、カメ太郎は死んでいたら、そうしたらこんなに苦しまずに済んだのに、と思ってカメ太郎はとてもやりきれなかった。ゴロはずっと後にカメ太郎に遠慮するように付いてきていた。
砂浜はやがて石ころに変わりカメ太郎はただうつむいて歩き続けていた。カメ太郎に付いてきているゴロは石ころの浜辺は嫌いなはずだった。でもゴロはカメ太郎から十mあまり後ろをクンクンと所々の臭いを嗅ぎながら付いてきていた。
カメ太郎は岬の先端に辿り着き、泣いていた。カメ太郎の生きる価値って。こんなノドの病気のカメ太郎の生きる価値って。
カメ太郎はそして中二のとき、そのときもノドの病気でこんなピンチになってそして岬の突端で声を限りに叫んだことを思い出していた。あれは大きな声が出るようにするためにそうしていた。
カメ太郎は膝を抱えて座り込み、学校をやめようかなあ、とか考えていた。でも医者になるには、カメ太郎はやっぱりやめられないのかなあ、と思っていた。
悲しくて涙が出そうになったとき、空を見上げよう。もう秋になろうとしている青い空を。
あのとき、まっ黒い海の中で星子さんの肌に触れたとき、『ああ、これが女の人の肌なんだなあ、これが女の人の体なんだなあ』とカメ太郎は思った。あの苦しい海の中で。冷たい冷たい海の中で。
カメ太郎は始めて女の人の体を抱いて岸辺の方へと泳いでいきながらその柔らかさと滑らかさに驚いた。カメ太郎が空想していた女の人の肌と体はこんなものではなかった。柔らかい柔らかい体を抱いてカメ太郎は岸辺の方へと泳いでいきながら苦しい息の中で、だんだんと薄れてゆく意識の中で、星子さんがカメ太郎の腋の下からマシュマロのように黒い夜の海の中に溶けてゆく夢を見た。小さかった頃、カメ太郎の家が貧しかった頃、あんなに大事に食べていた甘くおいしかったマシュマロのことをカメ太郎は久しぶりに思い出していた。
そのときもう過去の出来事が走馬燈のようにカメ太郎の頭の中で駆け回り始めていたのかもしれない。カメ太郎らはやがて海の底へと沈んでいき始めていた。そしてカメ太郎は大きなマシュマロのような星子さんを抱いたまま死んでいき始めていた。
マシュマロのような星子さんと、走り疲れ泳ぎ疲れていたカメ太郎は、大きな大きなマシュマロになった星子さんと一緒に、海底へ海底へと沈んでいき始めていた。カメ太郎らは海の底へ、と静かにブクブクと泡をたてながら抱きあいながら沈んでいっていた。カメ太郎らは静かに沈んでいっていた。
星子さん、呼んでるんでしょう、カメ太郎を呼んでるんでしょう。そうしてカメ太郎を臨時応援団に選ばせたのは星子さんのいたづらでしょう。それでカメ太郎の代わりにジャンケンした寺島が負けたのでしょう。
カメ太郎は知っているんだよ。寂しいからってこんないたずらは止めろよ。ボクはとっても苦しんでいるんだ。
あんまりいたずらがひどすぎるよ。
星子さんが地獄から呼んでいる。星子さん、天国へ行かれなくて地獄へ行っていてそこから呼んでる。
そこから呼んでいるからカメ太郎とっても苦しいんだろうな。
もしも天国から星子さんが呼んでたら、カメ太郎は今とても幸せな気持ちでいられたのだろうに。
体育祭の予行練習や準備を楽しく楽しくやれていたのだろうになあ。
星子さん、地獄へ落ちたんでしょう。カメ太郎、天使さまの星子さんの姿を見たことがないから。星子さんが天国へ行ったのじゃないってことがよく解るんだ。
星子さん、地獄へ落ちてるんでしょう。
まっ暗闇の孤独な地獄から(誰もいない孤独の地獄から)カメ太郎を呼んでいるんでしょ。カメ太郎には解っているんだよ。
カメ太郎はここまで書いてきてハッと『星子さんはもう死んでいるんだった。もういないんだった。』
ーーなんという錯覚だろうーー
カメ太郎はてっきり窓からの風景を星子さんが生きているときの光景と同じにしていた。星子さんは半年まえにもう死んだのだった。
ーーとするとカメ太郎はこの光景と一年前の風景とを錯覚して手紙を書いていたのだろうか。いやカメ太郎の現在の苦悩が、星子さんが生きていた頃と比べて全然変わってなかったからだろうか?
(カメ太郎はそして天界と現界の区別がつかなくなっていた自分にハッ、としました。カメ太郎の魂はもはや天国へ行きうカメ太郎は体だけ現界にいて手紙を書いていかたのようでした。
……自殺を決意していたカメ太郎はもうすでに明日死ぬことが決まっていてこの夕方すでにカメ太郎の魂は現界と天界の間を往復し始めていたのでしょうか。カメ太郎の魂は天界にいて、現界にあるカメ太郎の手を動かしていただけなのでしょうか。
カメ太郎は窓からの風景のなかの青い海が急に盛り上がって巨大な波となってカメ太郎をも呑み込もうとしているように錯覚されました。
今もまだ星子さんの生きていた頃と同じように佇んでいる海。
カメ太郎はワーッと声を限りに叫びながら自転車を駆けさしました。カメ太郎の『ワーッ!』という声が誰もいない浜辺に細く消え入るように響くだけでした。そしてカメ太郎はやっぱり自分の声はなんて小さいのだろうと落胆し始めました。
『星子さん。星子さんが亡くなってから半年。カメ太郎にとんでもない災難が降りかかってきた。やめようかな、学校を。そして中学の頃思っていたようにブラジルへ行こうかな。
でも星子さんを喜ばせた“医者になる”という決意はどうしたらいいのだろう。いったいカメ太郎は本当にどうしたらいいのだろう。
そしてカメ太郎は自転車を降りて一歩一歩と砂浜を海の方へと歩き始めました。
カメ太郎はいつの間にか水の中に入っていったようでした。もう冷たくなった9月の海の中へ。
海の中は暗く、藻が揺れていてボクは魂だけになり海中をさまよっているようでした。カメ太郎は無意識のうちに星子さんを捜していました。カメ太郎には星子さんしか居ないのだと。カメ太郎を慰めてくれるのは星子さんしかいないのだと。
星子さん、どこなんだい?
カメ太郎は藻を掻きわけ進みました。星子さん、どこなんだい?
カメ太郎はゴツンゴツンと海底の藻の生えた石に当たりながらなおも進んでいきました。
一度息をしに海面に出たカメ太郎ははかなく再び海の中へと沈み始めました。今度何か途方もなく巨大な津波がカメ太郎を海の中に押し込んだようでした。クルクルクルッとカメ太郎は海中を回りながら海底が不思議に波打っているのを感じていました。そしてカメ太郎は海底のゴツゴツした荒い岩に(ゴンッ)と当たって静止したようでした。
……
それから長年月がたつ。カメ太郎の心に次第にはっきりとなってきている橘湾に潜むデーモンという奴が全く動かないでもう長い年月を静止したままでいるカメ太郎の処へしばしば訪れる。星子さんは始終カメ太郎の傍にかすかな存在感としてちょこんと座っているがどこに座っているのか影も見えずカメ太郎に喋りかけようともしない。ただ寂しげにカメ太郎を見つめてチョコンと傍にいる……ということがかすかに解るだけだ。
カメ太郎も長い年月全く身動きもならないで無言だった。傍にたしかに存在していると思われる星子さんの意識にボンヤリと薄れゆく意識の中で喋りかけようとするが海水の壁はテレパシーを通しにくいのか伝わっていかないようである。
海辺の思い(体育祭)
カメ太郎はもうここに何時間座りつづけているのだろう。漣の音がカメ太郎を慰めてくれている。なぜか座り続けるだけでカメ太郎は動こうとはしなかった。周りには誰もいない。以前よくカメ太郎を慰めてくれていたゴロももう天国へと行っている。そして空の白い雲のようになっているんだろう。以前もカメ太郎はよく憂欝に打ちひしがれてこの浜辺を歩いた。歩き疲れて岸辺に座り、海を日が暮れるまでよく眺めた。あの頃はカメ太郎は元気だった。悲しいこと悔しいことがたくさん学校であっていたけどカメ太郎は挫けてはいなかった。そのときはいつもゴロが一緒だった。そしてゴロが憂欝に座り込むカメ太郎の周りを心配そうに回ってくれていた。
でもいまカメ太郎は一人だ。ゴロの代わりにいまは黒いロードマンがある。それが海辺の草叢に横たえて置かれてカメ太郎を待っている。
カメ太郎はもうみんなに会わせる顔がなかった。カメ太郎はもう何日も学校を休み続けていた。
今、カメ太郎は死ねない。父や母が生きている間は。今、カメ太郎は死ねない。今死ねばカメ太郎は人生の敗北者になってしまう。
星子さん。辛い毎日です。でもカメ太郎は今死ねば父や母がどんなに悲しみ淋しがるかを思うと死ねません。星子さんは半年前勝手に死んでいったけどあのときの星子さんの両親の悲しみの涙を知っているカメ太郎は、あの大粒の涙を見たカメ太郎は、もう決して自殺なんてできません。
孤独なカメ太郎は溶けてゆこう。この大空に。この大空いっぱいに。一人ぼっちのカメ太郎は溶けてゆこう。もう秋になった青い大空に。体育祭前のこの大空に。
星子さんが居なくなって始めて見る秋の空は、青くとても澄み渡っているのに、カメ太郎の心はとても淋しい。本当に星子さんが青い空の向こうからカメ太郎に手を振っているような気がして、カメ太郎はつい涙ぐんでしまいそうになります。とってもとっても美しい空なんだけど、カメ太郎の心は押し潰されそうで、この青い空の中に溶けていって、そうしてカメ太郎の孤独な心は癒されて、そうするときっと星子さんと明るくお喋りできるような気がして、カメ太郎はつい涙ぐんでしまう。こんなに美しい空なのにカメ太郎はつい涙ぐんでしまう。
星子さんへ
明日から学校へ行かなければならないことを思うと辛いけど、カメ太郎が学校に行かなくなったとしたら天国で星子さんが大粒の涙を流して泣くと思うからカメ太郎は明日歯を喰い縛って学校へ行くつもりです。
とっても辛いけど、明日一日さえ乗り越えればもう楽になると思うから。星子さん、天国から見守っていて下さい。明日カメ太郎があまり辛い思いをしないように天国から見守っていて下さい。
白い鳩が、天国にいる星子さんのもとへカメ太郎の思いを乗せて、今朝浜辺から飛び立っていった。
カメ太郎が打ちひしがれて浜辺で、うつむいて小石を拾って投げたりしていたら裏の林から、幾羽も幾羽も白い鳩が、天国へ居る星子さんのもとへカメ太郎の思いを伝えようと飛び立っていってくれたようです。カメ太郎は久しぶりに来たこの浜辺が、すっかり変わっているのに始めて気が付きました。この浜辺ももう秋の様相を呈してきていて、いつの間にか白い鳩が裏の林にたくさん居るのに気付きました。
いつの間にかたくさん、まるでカメ太郎や星子さんの純白の魂のように。
カメ太郎は泣けてきます。どうして星子さんは死んでしまったのかと。
カメ太郎は今朝、いつもより早く目が醒めてそれから眠れずいろいろなことを考えていましたが、今孤独感がひしひしとカメ太郎を襲ってきている。
星子さんがいればこんなにも孤独感にひたることもないのにと思うと残念というか悔しいというか。
そうしてカメ太郎も死んでしまおうか、という気持ちがどうしてでも離れません。あの体育祭のときカメ太郎も死んでいれば良かったような気がします。でもあとに残された父や母のことを思うと不憫で。
だからカメ太郎は昨日まで生きてきたし今日もまた生きるでしょう。この夜もそろそろ明けます。カメ太郎は今日もまた7時16分ごろにごはんを頬張りながら家を駆け出るでしょう。
そしていつもの悲しい一日が始まるのです。ノドの病気でなかったら、言語障害でなかったら楽しいはずの一日が。その一日がもう少ししたら始まるのです。もうすぐ始まるその一日は重く重くカメ太郎を押さえつけています。
ああ、もう夜が明けます。星子さん、さようなら。カメ太郎今日一日がんばらなければなりません。星子さんのことなんて忘れて勉強にがんばらなければ。
今日も夜の7時50分まで県立図書館で勉強するつもりです。そして帰ってきたら勤行しようかな。2時間も3時間も。そうして寝ようっと。そうやってカメ太郎の一日は終わってゆくんだ。
授業中はずっとカメ太郎は内職するんだ。先生の話聞いていても能率が悪いしいつもカメ太郎は授業中内職してるんだ。
それはとっても能率が良くて先生の話を聞くよりも2倍も3倍も能率がいいな。
(今日一日のいろいろな負担がカメ太郎を重く覆っている。重く重く覆っている。それは黒い雲で昼間もずーっとカメ太郎を苦しめつづけるだろう。
そしてカメ太郎はすーっと起き上がった。今日こそ朝の勤行をしなければならない。時刻はもう6時20分だった。
そしてカメ太郎は幽霊のように階段を下って行った。今日一日の苦労がずっしりとカメ太郎の両肩に乗っかっていた。
また暗い一日が始まる。また一日が)
星子さん、カメ太郎元気だよ。霊界からそんなに手を差し伸べてくれなくてもいいよ。星子さん、カメ太郎元気だよ。意外なほどカメ太郎元気だからそんなに心配しなくってもいいよ。
見えないはずの霊界から星子さんの白い手がカメ太郎を救い出してくれるようにソッと差し出されていました。『星子さん、カメ太郎元気だよ。星子さん、カメ太郎元気だから、そんなに心配しなくてもいいよ。カメ太郎、元気だよ』
『星子さん、カメ太郎元気だよ。元気だから霊界からそんなに手を差し伸べてくれなくてもいいよ。カメ太郎、元気だよ。意外なほど元気だから心配しなくてもいいよ』
見えないはずの霊界から星子さんの白い手がカメ太郎を救い出してくれるようにソッと差し出されていた。
『星子さん。カメ太郎、元気だよ。そんなに心配しなくていいよ。カメ太郎、元気だから』
夜空にポツンと流れ星のようなものが『ああっ、あれは星子さんの涙だったんだなあ』とカメ太郎を哀しく思わせました。寂しい夜の道をバスを降りて家までの僅かな距離をカメ太郎はもの憂げに歩いていました。
星子さん。泣いちゃダメだよ。今日もまた寂しく一日が暮れてゆこうとしているけど。星子さん、泣いちゃダメだよ。まだ生きているカメ太郎の方がもっと辛いんだよ。星子さん、泣いちゃダメだよ。
(北風に吹かれて)
北風に吹かれて飛んでゆこう。南の空へと、南の空へと、雪の降る長崎から、もう淋しいから、
(星子さんも逝き、ゴロも逝き、ボク一人だけ取り残されたから。カメ太郎はこの立山から飛んでゆこう。南の暖かい国へ。そして喋る必要のない国へ)
星子さんへ
真夏の海です。日が燦々と照りつけていて海はコバルトブルーに輝いて見えます。星子さんも逝きゴロも逝った海岸にカメ太郎は今一人佇みつづけています。高校3年なので昨日まで補習があっていました。今日はもう12日だというのに。そして19日からまた補習です。
カメ太郎はたった一人残されてこの浜辺に立っているけど、今のカメ太郎には燃えるような野望というか希望があります。できれば九医に行きたいです。そして長大の医学部はまず大丈夫です。
今度こそ学年で一番を取りたいな、と思っています。いつもいつも四番だから。あと平均点で四点ぐらい良ければ一番になれるのに。いつもいつも何故か際どいところで4番になっています。
でもよく考えてみると今のカメ太郎には星子さんと誓い合った『自分と同じ病気で苦しんでいる人たちのためカメ太郎は医者になる』というあの純粋な誓いはどこかへ消え失せていて今のカメ太郎にあるのは女の子にモテたいために勉強がもっとできるようになりたいという醜い野心だけのような気もします。
カメ太郎はそうして足元に落ちていた石ころを拾って青い…なんだかカメ太郎の心を映し出してそしてカメ太郎を非難しているような海へ向かって石ころを投げた。
カメ太郎は何故石ころを投げたのだろう。海がカメ太郎を非難しているように見えたからだろうか。たぶんそうだろう。海がいつか純粋な心を喪って野心ばかりに燃えるようになったカメ太郎を非難しているように見えたからだろう。
水面に広がってゆく円。ゆらゆらと揺れながら大きくなってゆく円。それを見ているとカメ太郎の心はなんだか哲学的煩悶みたいな罪悪感にとらわれてしまってカメ太郎は叫びだしたくなる。大声で海に向かって爆発しそうな自分の心を叫び出してしまいたくなる。
星子さんへ
僕には不安が、もう星子さんも逝きゴロも逝った今、夏の眩しい太陽に照らされながら窓辺に立っていると空に浮かぶあの雲がゴロに見えたり、そして僕と星子さんがゴロの背中に乗って夏の大空を旅することを空想したりなんかしています。
僕はもう高校三年生になりました。もう星子さんが死んでから1年以上も経ちました。でも僕の心は星子さんと文通していたあの頃とちっとも変わっていません。ただゴロが居なくなったことだけが、ゴロが人を噛んで保健所送りになったことだけが変わっただけです。
あの浜辺でゴロと戯れたり、星子さんの後ろ姿を裏の林の中からソッと覗き見していたことももう懐かしい思い出になりつつあります。僕は今年受験でそしてそれになんとなく漠然とした不安が……たぶん人生に対する不安なのだろうと思いますけど…淋しさみたいなものが僕をすっぽりと覆っています。
流れゆく時の速さが僕をこんなに感傷的にさせているのかもしれません。あまりにも速く流れてゆく時の流れが。
星子です。カメ太郎さんいらっしゃいますか?
……不思議な電話がかかってきた。
星子さんは死んで一年半近くになるのに。それなのになぜ星子さんから電話がかかってくるのだろうか。星子さんが生前カメ太郎にかけた電話が2年ぐらいも、いや3年か4年近くもカメ太郎と星子さんの家の間の空中を浮遊し続けていてやっと今カメ太郎の家の電話のベルを鳴らしたのだろうか。
カメ太郎は勉強しすぎて頭が変になったのだろうか。幻聴か、それとも星子さんの霊界通信という奴だろうか。
9月の青空が紅く染まりかけていた。
とても苦しい世界だとしか書いてない。
自殺したら駄目なんだ。自殺したら地獄なんだ、としか本には書いてない。全ての本にそう書いてある。自殺は最大の罪なのだと書いてある。
カメ太郎は死なない、カメ太郎は死なない、と言ってきた。でもカメ太郎は死のうとしている。現実の苦しさに死のうとしている。
もう君の逝った港も電灯が灯いて明るくなっている。五年前、君の姿を必死に捜した海面ももう明るくなっていて、そしてもう桟橋はなくなっている。
君が死んでからこの港にも灯台みたいな電灯が立ったし、桟橋もなくなって毎日夕方来ていた荷物や人をたくさん積んだ船も来なくなった。
(第1章おわり)
現実とは、夢とは、カメ太郎には解らない。夢と現実の混合をカメ太郎はよくしてしまう。現実と夢との接点はどこにあるのだろう。どちらが現実で、どちらが夢かという考えをカメ太郎はよく持つ。夢が現実でありたいときもあるし、現実がそのまま現実でありたいときもある。
カメ太郎はノドの病気のために青春をむちゃくちゃにされてきた。でもノドの病気のために、カメ太郎の欠点は隠されて、美しい思い出を、少しだけだったけど、ほんの少しだけだったけど、造れたのかもしれない。真珠のように輝いているカメ太郎の少年時代の美しい思い出を、カメ太郎はこれ故に造れたのかもしれない。
(28歳の誕生日を迎えたばかりのカメ太郎にて)
もし生きたなら、カメ太郎は君と一緒に暮らそう。
でも死んだなら、カメ太郎は一人で静かに暮らそう。
もし百年前があの日だったら、海は今よりとっても澄んでいて、底まですぐ見渡せて、そしてその日は寒くなくて、君を救いに泳ぐときも、君が海に飛び込むときも、そんなに冷たくなかったと思う。寒くなんてなかったと思う。
百年前、百年前だったら君はきっと、明るい月夜の夜に、暖かい夜に、幸せにあまり苦しまずに死んでいったと思う。もしも百年前だったら。
でも十年前だった。君が死んだのは十年前だった。十年前のあの寒いまっ暗な夜だった。
海の中で、君も苦しかっただろうし、カメ太郎も苦しかった。君はもうカメ太郎が海の中に飛び込んだとき、息絶えていたと思う。でもカメ太郎が君を救おうと飛び込んだ音を、きっと君は聴いたと思う。
君が死んだ日、何故あんなに寒かったのだろう。もう春だったのに、5月だったのに、君は一番寒い夜を選んで死んだ。それにもしあんなに寒くなかったらカメ太郎の喉の病気も血を吐いたりしないで良かったと思うのに。
あの日は3月下旬ぐらいの気温だったと後で知った。5月の上旬だったのに。
冷たい海の中に沈んでいきかけていた君は、苦しい息の中でカメ太郎の名を叫んだと思う。でもカメ太郎はノドや胸の痛さに耐えかねて倒れてばかりいた。君の方がもっと苦しいんだ、と思いながらもカメ太郎は一回、もう眠ってしまおう、と倒れながら思った。暗い草叢のなかに倒れ込みながらそう思った。
本田呉服屋の前で倒れ込むカメ太郎と、海面でカメ太郎の名を呼びながら必死に生きよう、としている君と、どちらが苦しかっただろう。
君は悲しい思いをカメ太郎に残して死んでいった。カメ太郎は今日、皮膚科の試験ができなくて落ち込んでいたとき、もう夕暮れだったから、カメ太郎らのあの浜辺から遠くだけど、でも今日は久しぶりにバイクで学校に来ていたから、思い出の浜辺まで、飛ぶように、帰っていこうかな、と思った。誰もカメ太郎を慰めてくれず、みんな明るい自信に満ちた顔で立ち去っていった。
バイクはとても寒くて、カメ太郎は家へ帰ってクルマに乗り換えてこの浜辺へやってきた。昼間あんなに暖かったのに、夕方になるととても寒くなって、学校から家まで25分のバイクの上で、寒くて、あのときの海の中のように寒くて、カメ太郎はものすごくスピードを出して帰って来た。寒くて、のんびりと走っていられなかった。楽しく走っていられなかった。
(この日、皮膚科の試験は午後3時から4時半まであった)
君は静かな夜を選んで死んでいった。なぜかあの日は静かで、カメ太郎が家から桟橋まで駆けている間、誰とも会わなかったし、みんな家の中で静かにしていたみたいだった。カメ太郎が走っているとき、本当に苦しかったあのとき、もしも誰かがカメ太郎を見つけてくれたなら、倒れ込んで血を吐いているカメ太郎を見つけてくれたなら、君が今、死のうとしていることをその人に告げて、君は助かったのかもしれない。
久しぶりにバイクに乗ったカメ太郎は、十一年前のあの苦しみを、あの寒さを思い出して、カメ太郎はバイクの上で、涙にくれてしまった。君の哀しみと苦しみを思って、カメ太郎は久しぶりに泣いてしまった。
一日の勉強で疲れきったカメ太郎の頭に北風は吹きつけてくる。あの桟橋はもうなくなったけど、それに網場の海は少し埋め立てられて狭くなったけど、まだ黒くそして青く光っている。君の心と魂がまだ溶けているような、そんな気がする。
君は冷たい夜を何故選んだのだろう。あのまっ暗な冷たい海に、君が一人で飛び落ちたとき……
もしもカメ太郎が死んだなら、この黒い海のなかへカメ太郎が死んでいったら、12年前のあの日と同じくらい寒い夜だけど、もしもカメ太郎がこの海のなかへ死んでゆけたら。
(北風がボーッ、ボーッとカメ太郎の背中に吹きつけていた。この冷たい海と北風はこれからのカメ太郎の人生のようだ。30歳になり、結婚もして、そうして生きていっている厳しいカメ太郎のその頃の日々を思わせるみたいだ。冷たい風とまっ暗な海が見えていて、少年の頃の思い出はもう……でも海のなかへ沈んでいくときに星子さんが発したと思われる声だけは今も残っている。今も少年の頃の残骸のようにカメ太郎の耳に懐かしく響いている)
君とのあの浜辺は、28歳になったカメ太郎には、もう涙ににじんでしか見えない。遠い遠い過去の思い出なのだろうけれど、カメ太郎には君との愛は昨日のことのようにしか思えない。
カメ太郎は笑っていた。風に吹かれながら、君が死んだことを笑っていた。
星子さんが言っていた。『私、寒い日に死ぬの。カメ太郎さんが今、風邪をこじらせて苦しんでいますけど、私、今日のような寒い寒い日に死んでゆくの』
……カメ太郎には
君には星空の下を必死に走って来るカメ太郎の姿に気付かなかったのだろうか。君を救おうと、桟橋まで必死に走っていたカメ太郎の足音が君には聞こえなかったのだろうか。……カメ太郎はそのことを思うと悲しい。あの苦しみと辛さに耐えて走っていたカメ太郎の真心に気付かなかった君が悲しい。
カメ太郎は今も生きている。君も、ゴロも居なくなってから十年も十何年も。カメ太郎は今も生きている。毎日、亡霊みたいに。
もう哀しい風が、冷たい風が、カメ太郎の耳元で吹いている。
『カメ太郎さん。カメ太郎さん』
遠い日の悲しい思い出と一緒に、カメ太郎の耳に響いてくる。
君はなぜカメ太郎を残して死んだのだろう。冷たい夜に。まっ暗な、そして波音一つしない夜に、君は桟橋から海へ沈んでいった。そうして永遠にもう帰って来なかった。
一人ぼっちのカメ太郎の耳元を、寂しげな風が吹き抜けてゆく。カメ太郎は一人ぼっちで何年生きてきたろう。高校の頃や、浪人、そうして大学一年の秋、創価学会をやめるまでは寂しくなかった。それに大学最後の年、夏の間創価学会をやっていたときも寂しくはなかった。でも今は寂しい。カメ太郎は○○教に入ろうと思っている。でもカメ太郎は今夜迷っている。
昨日も今日も死を考えた。毎日自殺の誘惑と戦っている日々だ。今日、本気で創価学会に戻ろう、と思った。でも○○先生など社会的圧迫というか恩を裏切ることを考えるとできなかった。
君はカメ太郎に電話をかけたあと、すぐに海の中に飛び込んだんだろ。少しためらったあと、涙を流しながら少し迷ったあとに。
冷たい海の中は辛かったんだろ。まっ暗で孤独で、息がとても苦しくて、とても寂しくて
君は冷たい夜に蛍のように死んでいった。きっと君は蛍のように死んでいったと思う。あの港の中に。大きな蛍のように。
君が落ちていったあと海面は、停留所のかすかな光に照らされながら、静かに波打っていただろう。いつもバスの終点になっているこの停留所の、20mぐらい離れたところにある電灯の光から、かすかに照らされていたと思う。
薄暗い電灯が君を照らしていたと思う。カメ太郎が必死に走ってきていたのに君は気づかなかったのだろうか。桟橋の上でためらっている君のもとへと、必死に走ってきているカメ太郎の足音を。
海の中に落ちたとき、君は哀しげな声をあげたと思う。それが走ってくるカメ太郎の耳に小鳥の囀りのように聴こえたように思う。それをカメ太郎は今も記憶している。今も夜道を歩くときカメ太郎は思い出してしまう。
このまま眠ってしまおうか、それとも立ち上がって星子さんの居る桟橋まで走り続けようかカメ太郎は草の葉を目の前にして煩悶した。このまま眠ってしまえば楽だった。でも走っていったら星子さんはまだ海の中に飛び込んでいないのかもしれない。桟橋で飛び込めなくて、泣いているかもしれない。でもきっと気の強い星子さんのことだからいくらかためらってもきっと飛び込んでしまうとカメ太郎は思った。
フラフラと血を吐きながら立ち上がったとき、
もう秋になってしまった。暑い夏の季節も終わってしまった。そうして寒い北風が吹いてきて、小鳥たちも居なくさせた。浜辺には何も見えなくて、ただ、ときどき打ち寄せる白波しか見えない。
幸せは、幸せはどこにあるの?
幸せは、雲仙岳が見えるだろ、天草の島々が見えるだろ、その向こうに阿蘇岳だと思うけど見えるだろ。あの阿蘇の山々の向こうに見えてくるんだ。幸せの国々が。みんなが幸せに仲良く暮らしている国々が。人を憎んだり、陥しめたり、いじめたりすることなんて全然ない国々がそこに在る、とカメ太郎は思う。
君は早く死にすぎた。またカメ太郎に一人ぼっちのクリスマスがやって来ようとしている。君は海の底で、小魚たちや小海老たちとささやかなクリスマスイブを送ると思う。カメ太郎は県立図書館で勉強しながら、悲しい一人ぼっちのクリスマスを迎えると思う。留年の恐怖と親への罪悪感と、いっそ死んでしまおう、という考えに満たされながら…。
君は小魚や小海老たちと、海藻に囲まれながら、楽しいクリスマスを迎えるのかもしれない。でもカメ太郎は君の居る所はとっても寒くて、君が幸せなのかどうかとても気懸りで心配だ。幸せであってくれればいいんだけど。海の底が暖かくて楽しい所だったらいいんだけど。
君は小魚たちに囲まれて幸せだろ。カメ太郎は県立図書館で毎日女子高校生なんかに囲まれているけれど、カメ太郎は孤独で、カメ太郎は叫び出しそうだ。
カメ太郎も素直すぎたし、君も素直すぎた。カメ太郎が16歳で君が14歳のあの頃、カメ太郎らの心はあんまり清らかすぎて、カメ太郎らは、
君は小魚に囲まれて幸せだろ。でもカメ太郎の周りには何もいない。ただステレオの音と、テレビしかない。
君は小魚たちに囲まれて幸せだろ。でもカメ太郎はステレオの音もテレビの音も、カメ太郎の孤独をずっと増すだけだ。テレビの音もステレオの音も、カメ太郎に話しかけてはくれない。
……高校の頃言ってたろ。カメ太郎は高校が厭だから南米へ行ってそうして農園を開くんだって。今、カメ太郎はもうあれからちょうど十年経つと思うけど、南米へ医療に恵まれない人たちのために行こうと思っている。医療に恵まれないで死んだり苦しんだりしている人たちのためカメ太郎は南米へ行こうと思っている。
突然君が死んだように、カメ太郎も今日突然死のうと思った。裏山へ駆け登って、柔道の帯で首を吊って。
突然君が居なくなったように、カメ太郎も今日突然居なくなろうと思った。暗いあの世に、カメ太郎も出かけてゆこうかと思った。
君とゴロが飛んでいる。何故ゴロは君が死んで一年ぐらい経って死んだんだろうと訝りながら、カメ太郎は君とゴロの姿を見つめている。
ーー真冬の青い空にてーー
君がゴロと遊んでいる。冬の空で、冬の海で、
カメ太郎は裏切り者としてこの浜辺に消えてゆくのかもしれない。夏の頃、選挙などで一生懸命戦った湯沢君や木村君を裏切って、カメ太郎はクリスチャンになって、卑怯にクリスチャンになって、カメ太郎はこれからうまく世の中を渡ってゆくのかもしれない。エゴイストとしてカメ太郎は。
カメ太郎は病気を治したかったし、治すためなら何でもするつもりでいた。自殺との誘惑と、病気が治れば病気が治りさえすれば……という思いとカメ太郎は戦っていた。
君に背中を最後に見たのは、3月の終わり頃だったと思う。そのときカメ太郎はゴロを散歩させていて、漁協の裏でカメ太郎は君を見た。
もしも君が健康な足を持っていたら、カメ太郎らはこの浜辺を手を繋いで散歩していたと思う。でも現実には君は車椅子で、そしてカメ太郎はこのようなノドの病気に罹っている。
あの日はお月さまが電燈のように光っていたっけ。まんまるいお月さまが君の瞳のように鏡のような海面を照らしてたっけ。
海に飛び込んだとき、疲れ果てていたけれど、今のカメ太郎よりずっとずっと元気だった。疲れ果てていたけど、ずっとずっと元気だった。
泳いでいる時、ポッコリと君の島が見えてきたようだった。黒い水の中に浮かぶもう死んでしまったはかない君の島が。
はかない君の島はでもとてもちっちゃくてカメ太郎が手を触れるとすぐに沈んでいった。暗い海の中に、でも途中でカメ太郎の足先に当たって、また浮き上がってきた。
君の微笑む笑顔が、この丘から海を見ていると、見えてくるようだ。クルマの中でずっと勉強していて、丘の上に出てきて海風に吹かれていると、君の笑顔が何年ぶりに見えてくるようだ。
一日じゅう家の中で勉強しているとたまらなくなって、カメ太郎はクルマに乗ってこの丘に来たけれど(県立図書館は今日から1月5日まで休みだから)一時間も勉強しているとまた頭の中が爆発しそうになって、今カメ太郎は冬の北風に吹かれている。君との悲しい思い出はもう十何年も前のことになるのに。そしてその頃はゴロがいてカメ太郎も元気だったけれど。
あの日、九大医学部の試験から一晩じゅう首をうなだれながら列車に乗って帰ってきた翌朝、カメ太郎は窓辺に星子さんの化身のようなうぐいすの声を聞いた。カメ太郎はその日、朝早くから大学病院までノドの病気を診てもらいに行くつもりだった。6時半ぐらいだったと思う。大学病院の受付は8時半から9時半までと聞いていたのでそれから急いで勤行してバスに乗った。
目覚まし時計のように鳴いてくれてカメ太郎を起こしてくれた星子さん。カメ太郎は前の日、夜10時半ごろ(11時ごろ?)帰って来てそれから勤行と唱題をして寝たのが1時近くだったと思う。いつもなら寝過ごしていたのに起こしてくれて星子さん本当にありがとう。
元気な君と、カメ太郎よりちょっとしか背が高くない君と、明るくてとても自信に溢れた君と、カメ太郎は夢の中でこの浜辺を歩いた。カメ太郎は4度目の留年が間近に迫っていて、どうにかならないかと昨夜母などに相談した。親戚の大臣をしている母の従兄から推薦状を貰えば卒業できるかもしれないとカメ太郎は甘く考えた。でもカメ太郎の友達はそうしたら逆に良くないと言っていた、ことを言った。今年の卒業は絶望的だけど、国家試験は必ず合格できるから、卒業させてくれないかな、と思って昨夜母に気の遠くなるように話しした。今日試験だったのに。大事な大事な試験だったのに。
今もときどき死のう、と思う。今朝もカメ太郎にとり憑いている死神の夢を診たし(女の人だった。父の兄と一緒に心中した女の人らしかった。)今年、卒業できないのか、と思うと絶望感に暮れてしまう。
今日はするまい、今日はするまい、と思っていた。でも今日もしてしまった。カメ太郎の心は弱くて、紙風船のように弱くて
90・1・9
君の真心は、カメ太郎には伝わらなかった。カメ太郎は練習に疲れ果て、君に手紙を書くゆとりがなかった。
自分は何も知らなかった。君のことも、世の中のことも、カメ太郎はあの頃何も知らなかった。
夏の頃は楽しかった。選挙、選挙、だと言って駆けずり廻っていたカメ太郎ら。本当にあの頃は楽しかった。
波が、カメ太郎が今日始めて履いた革靴に、トロトロと押し寄せてくる。カメ太郎は一人ぼっちで、カメ太郎は一人ぼっちでとても寂しくて。
君と歩きたかったあの岬はもう見えなくなっている。カメ太郎は今日自殺すべきか迷っている。父や母の帰ってくる午後八時までに、今三時半だけれど…。
カメ太郎は君が死んでからはほとんど一人っきりだった。大学へ入ってからは何が真実なのか模索し続けた。不幸ばかりがカメ太郎を襲っていた。
もしもカメ太郎が今日死ねば、今夜か明日の朝、母が二階へ登ってきて、ぶら下がり健康器に首を吊って死んでいるカメ太郎を見つけるだろう。そして父と母は途方もなく悲しみに暮れるだろう。
カメ太郎が死んだあと酒やパチンコに暮れる父のこと、今まで苦しんで苦しんで働いて店をきりもりしてきた母。カメ太郎は創価学会に戻ろう。そうして一からやり直そう。
正義とは不幸な人を幸せにしてあげることで、経済的だけではとても不充分だから、生命から幸せにしてあげなければいけないと思う。
この海の中に溶けてゆけば楽だろう。十年ぐらい前、カメ太郎と手紙で愛を語り合っていたあのコのように、この海の中に溶けてゆくように死んでゆければ楽だろう。
カメ太郎がピンチになったとき、いつも君がゴロと一緒に来てくれる。カメ太郎の夢の中に。カメ太郎が勉強していてボヤーッとしているときに。
希望を喪わずに生きてゆこう。どんなに苦しい境遇になっても、希望を喪わずに生きてゆこう。明るく生きてゆこう。
『寒かったのでしょう。冷たかったのでしょう。でもカメ太郎さん、何しに来たの。明日、試験なのでしょう。カメ太郎さん、何しに来たの』
……星子さんの声はカメ太郎をとがめるようだった。明日、試験なのに、明日から十日ぐらい、ずっと一日も休みなく再試が続くのにカメ太郎がこの岬にやって来たことを星子さんはとがめているようだった。寂しかった。ただそれだけだった。
岬にも強い風が吹いてきて、岬にも強い北風が吹いてきて、カメ太郎の心も毎日厳しくて、開館から閉館までずっと県立図書館にいて、勉強して、周りの高校生のお喋りに元気づけられ微笑みを浮かべて、毎日になってしまった再試を受けているけど、岬ももう夜の8時過ぎにはまっ暗で、冷たい風と波の音しか聞こえない。人は誰もいない。みんなはコタツの中で、テレビを見ていると思う。星子さんのお父さんもちょっとお酒を飲みながら、今ごろテレビを見ていると思う。
『カメ太郎さん。幸せになるにはどうしたらいいの。カメ太郎さん。幸せになるにはどうしたらいいの?』
『題目を唱えることなんだよ。“南無妙法蓮華経”と朝、車の中ででもいいから題目を唱えることなんだよ。それでもずっと違うと思うよ』
『朝、雲仙の方に向かって“南無妙法蓮華経”と唱えればいいんだ。三遍でも二十遍でも三十遍でもいいから唱えることなんだよ』
悲しい波の音は、カメ太郎を冷たい岬の先へと連れて行く。波が打ち寄せ�トいて、冷たい北風が吹いていて、誰も居なくて。
冷たい岬の風はカメ太郎の肌を突き刺すようだけれど、もう死んでしまった死ぬときの君の苦しさを思うと、カメ太郎は寒さに震えながらもまたこの岬に来てしまった。本当に寒いけど、去年よりも寒いかもしれないけれど。
君と一度この道を歩いてみたかった。岬の突端へ通ずるこの小さな道を、君の車椅子を押して、ゴロがすぐ傍に居て、カメ太郎らのあとをすぐ付けてきていて、冷たい北風も木々に遮られて、カメ太郎らは幸せで、カメ太郎らは幸せに話をしていたと思う。ちょっぴり、カメ太郎に本当に君と話せたか不安だけれど。
カメ太郎さん。真冬なのになぜお月様はあんなに輝いているの。お月様、6月頃の節句のときに一番輝くのでしょ?
うん。カメ太郎にもそこのところあまりよく解らない。真冬なのに何故今日お月様はこんなに輝いているんだろうね。とても寒いのに。なぜ輝いているんだろうね。
『この貝殻、珍しいね。ピンク色しててとっても大きくて。この貝殻、何時から貝殻になったのかな? 一人ぼっちの寂しい貝殻になったのかな?』
『この貝殻、きっとムー大陸から流れて来たのだと思うわ。日本にはこんな貝殻なんてないわ。きっと、一万年か二万年の前にこの貝殻育ってたのだと思うわ。そうしてここに流れついたのだと思うわ』
『きっとこの貝殻も寂しかったんだろうね。だからこの浜辺まで流れ着こうと思ったんだろうね。黒潮に乗ったりしてもこの浜辺まで着くのはとても辛かったと思うけど』
ずーっと黒潮に乗ってこの貝殻は流れ着いたのだと思うけど、寂しくて寂しくてたまらなくて、この貝殻は何もかも捨てて泳ぎ始めたのだと思うけど。とても辛かった旅路だったと思うけれど。
『カメ太郎さん、死なないで。カメ太郎さん、死ぬのだけはやめて』
『星子さん。冬なのにまんまるいお月さまが青い光を放って出ているね。まるでホタルみたいだね。宇宙船みたいなホタルのようだね』
星が出てるね。何故今夜はこんなに明るいんだろうね。星がキラキラと輝いているね。こんなに凍てつくような夜なのにね。
君の星が輝いている。君とゴロが元気に駆け回っている姿が見えている。今日も自殺を思ったカメ太郎だけど、君とゴロの元気な姿を見てしまって、カメ太郎はたぶん明日も悩むと思う。
もう春になろうとしているのよ、カメ太郎さん、もう春になろうとしているのかな、
カメ太郎はそう思って革靴が濡れるのもかまわずに駆け始めた。本当に春になっていこうとしているようだった。長かった冬も終わろうとしているようだった。
冬の海を泳いで行ってカメ太郎は君と会えるのだろう。冷たくて濁った海の中を、一生懸命に死ぬつもりで泳いで行くときに。
海の向こうから、船に乗って、星子さんとゴロがやって来る。古い古い小舟に乗って、カメ太郎に会おうとやって来ている。
明日死のうか、とよく思ってしまう。でもカメ太郎は父と母のために何度も死なないできたし、死んだら父と母がどんなに悲嘆に暮れるか、やっぱりカメ太郎は死ねない。
もう疲れきった。君は哀しみの中に死んでいった。カメ太郎は疲れきって、このまま眠るように死んでゆきたい。楽に、幸せに死んでゆきたい。
カメ太郎さんは今も生きていらっしゃいます。立派に立派に今も生きていらっしゃいます。
悲しい夕暮れ、森の中で君のその声を聞いた。カメ太郎にはやはり死にきれなかった。柔道の帯を木の枝に掛けることなんてカメ太郎にはやはりできなかった。
今の歌声が鳴り響いているこの浜辺にカメ太郎は久しぶりに来た。でもカメ太郎が君がこの浜辺で歌を歌っているのを聞いたのはもう何年も前のことだろう。もう十年も前のことになるのかもしれない。幼かったカメ太郎。まだ子犬だったゴロ。幼かった君。でもこの浜辺は昔とちっとも変わってない。カメ太郎らがペロポネソスの浜辺と名付けたこの浜辺はちっとも変わってない。
君は君らしく死んでいった。カメ太郎もカメ太郎らしく死んでいこう。
カメ太郎は森の中を歩いた。柔道の帯を持って歩いた。
君は君らしく死んでいった。カメ太郎もカメ太郎らしく死んでいこう。
でも森の中でも北風が吹きつけてきて寒かった。カメ太郎は森の中を駆けた。カメ太郎は森の中を一生懸命に駆け抜けた。
カメ太郎は急いでクルマのある所に戻った。そうして音楽を聞いて、ポカポカとしたクルマの中で、カメ太郎の今までの人生のことを思った。
墓から手を差し伸べる星子さん。痩せ衰えた手を、幽霊のような手を、
墓の中から差し伸ばされた君の手は、カメ太郎の手を掴み、カメ太郎を墓の中へと引き込もうとした。君の差し伸べた手は硬く冷たくカメ太郎の心を冷たくした。君の手がカメ太郎の胸の中に入ってきたようだった。
君の姿はか弱い細い手とともに墓の中から見えてくるようだ。悲しそうな君。そして必死にカメ太郎に助けを求めている君。
鳥が飛んでいる。カメ太郎らを幸せへと導いてくれる黒い鳥が飛んでる。
君の墓の近くから鳥が飛び立って、墓の森の中を飛び立っていった。カメ太郎とゴロは茫然と見送っていた。“幸せは何処にあるんだ、そして、喜びは”と考えていたカメ太郎の迷いを消すようにその黒い鳥は飛び立っていった。
(星子さん、死出の旅より) 大学三年
私、空を飛んでいるわ。真実は何なの。青い青い空を飛んでみると真実が解るような気がしたわ。でも真実は見つからないわ。真実はないわ。きっと真実はないのよ。
カメ太郎も真実が解らなくなって創価学会をやめた。でも他のいろんな宗教を回ったって真実らしいものはなかった。カメ太郎も絶望している。カメ太郎はもう一度、創価学会に戻ってみようかと思っている。
真実はないのよ。真実はどこにもないのよ。真実なんてないのよ。
でもカメ太郎は命を懸けるものを求めている。カメ太郎の青春のエネルギーがそれを求めているのかもしれない。
カメ太郎も君も幸福を目指して飛んでいる。いつも夕暮れどきに、ペロポネソスの浜辺で、カメ太郎らはたがいに見つめ合って、幸せを求めて飛んでいる。
君はそして星になって輝き続けるのだろう。君の居なくなった浜辺から、君の星が美しく美しく砂浜の貝殻のように、輝き続けるのだろう。
薄情なカメ太郎はやがて君を見捨てた。君は星になり、カメ太郎らが出会った思い出の浜辺で、冬も夏もきっと輝き続けるだろう。綺麗な君の心の結晶したような星が、あの浜辺の空に輝き続けるのだろう。
君の思い出がいっぱい詰まっている。指で砂を押せば、君との思い出が流れてくるようだ。
悲しかったこと。嬉しかったこと。この浜辺には君との思い出がたくさん詰まっている。
君の家は森の向こうにあった。森の向こうの寂しい湖のほとりに、君の家はあった。霊界の森の中に、君の家は人目を避けるようにあった。
君の夢はカメ太郎の花嫁になることだった。でもカメ太郎の右手には誰もいない。何年も何年も誰もいない。カメ太郎はずっと孤独だった。
1988・5・19
10年後も川縁はちっとも変わっていない
悲しい高総体の思い出を
26歳になったカメ太郎に思い出させてくれる
君はきっと2つ年下だったと思うけど
あの10年前の高総体の日のことを
十年前のあの日が近づいて来る。カメ太郎の少年時代の最高に美しかった、そして今でも一番美しい、女性の姿が松山の川縁のしだれ柳の下に腰を降ろしているカメ太郎の目に蘇ってくる。本当に懐かしいです。
もうすぐ長大祭です。カメ太郎は7年ぶりに創価学会にカムバックし、そして長大祭に出るかもしれません。入学した頃の元気だったカメ太郎。そのカメ太郎に今戻ろうとしつつあるような気がする、題目の響きとともに、同志の題目の響きとともに。
カメ太郎は19の頃の元気だった自分に戻るのかもしれない。夢と希望で一杯だったあの頃のカメ太郎に。
カメ太郎は元気になって再びあの頃の自分に戻るのかなあと思うととても懐かしくてたまらない。元気だった、とても元気だったあの頃の自分に。
落ち込み果てていた去年、本当にF1だけがカメ太郎の友達だった。カメ太郎には恋人はもちろんいなかった。友達もほとんど卒業していっていた。三度目の留年のときだった。
カメ太郎は毎日精神病院へアルバイトに行っていた。そこでもカメ太郎はほとんど一人で部屋に閉じ篭りっきりで誰とも喋らずひたすらパソコンで心理検査の資料統計なんかをやっていた。
学校にもときどき行かなければいけなかった。そして試験もあった。小説の完成にも没頭していた。そんなカメ太郎にテレビを見る余裕はほとんどなかった。でもカメ太郎はF1だけは見ていた。ビデオに録画して後の日に見ることもあった。そんなときはレースの結果を知りたくないためにますます誰とも喋らないようにしていた。
F1のレーサーになりたいとも思った。神経質すぎて対人恐怖症となり留年ばかりしていたカメ太郎はもしかしたらF1のレーサーに向いているのかもしれないと思った。阿蘇または鈴鹿でクルマのテストドライバーを募集している求人広告を見たとき大学を休学して応募しようか、と思った。またカメ太郎はこれ以上、親に経済的負担をかけることをとても心苦しく思っていた。
モナコグランプリの特派員を募集している記事を見たとき、カメ太郎は応募しようか、と思った。でもその頃のカメ太郎は無我夢中で勉強に没頭していなければならなかった。もうこれ以上留年して親を悲しませることがカメ太郎には耐えられなかった。
星子さん。また夏がやってこようとしている。もう27になった夏の海だ。でもカメ太郎の心はやはり焦燥感に包まれている。でも今のカメ太郎は以前のカメ太郎ではない。今のカメ太郎には創価学会の信仰がある。苦しみに負けない強いカメ太郎にカメ太郎は変わってきている。
今のカメ太郎には創価学会がある。カメ太郎は負けない。苦しみに負けない。
カメ太郎は以前のカメ太郎ではない。カメ太郎は強い自分に変わってきている。毎日3時間ぐらい題目をあげてカメ太郎は強くなってきている。カメ太郎は変わってきている。
もうめそめそしたカメ太郎ではない。今もまだとても苦しい。でもカメ太郎は強くなっている。苦しさはそのままだけどカメ太郎は強くなってきている。
(クリスマスの日に)
君の声はカメ太郎にはもう聞こえない
カメ太郎に聞こえるのは苦しみの声と
朽ちてゆく葉の
今のカメ太郎には君の声は聞こえない
カメ太郎の部屋には蟹のようなお化けがいるんだ。押入れの中に横たわっているんだ。いつもカメ太郎を見張っていて、でもとても寂しがりやで、食いしん坊で、鳴き虫な蟹のお化けなんだ。
寂しさに耐えかねて浜辺へ来た。冷たい北風と曇り空が、カメ太郎を覆っているだけだ。星子さんもゴロも駆けて来ない。誰も居ない。
カメ太郎は誰も居ない浜辺を駆ける。カメ太郎は誰も居ない浜辺を駆け抜ける。
カメ太郎は春の野原を駆け巡る。カメ太郎は一人、春の野原を駆け巡る。
カメ太郎はよろよろと立ち上がりながら『なぜカメ太郎と星子さんだけがこんなに苦しまなければならないのだろう。カメ太郎らの年頃の者たちは皆、今頃幸せな食卓に付いているか楽しくテレビを見ているはずなのになぜカメ太郎たちカメ太郎と星子さんだけがこんなに苦しまなければいけないのだろう。
カメ太郎はそう思ってとても疑問だった。何故カメ太郎と星子さんだけが? 他の人たちはみんな幸せに暮らしているのになぜカメ太郎と星子さんだけが今こんな地獄のような苦しみに耐えゆかなければならないのだろう。みんな幸せそうでカメ太郎の目には道端のいろんな家の幸せそうな灯りが見えていた。
星が(不幸な星なのだろうか)再び走り始めたカメ太郎を見つめていた。星子さんはもう、車椅子から降りてもう冷たいまっ暗い海の中に落ちていったようにも思いながら。でもそれでもカメ太郎は走り続けた。
海の中で君は囁いたろ。カメ太郎らはこのまま永遠に海の中で抱き合い続けるんだって。カメ太郎ら今まで不幸だったから、その不幸せだった分を取り戻すんだって、君は海の底に沈んでゆきながらカメ太郎に囁いてたろ。
やがて君を離したカメ太郎は意識が朦朧と今にも意識を喪いそうになりながらも、息をしようと息をしようと夢中で海面へ海面へと泳いだ。君はカメ太郎の名を呼びながら叫びながらまっ暗い海の底へとカメ太郎へと手を差し出しながら沈んでいっていた。
君がゴロとペロポネソスの浜辺を健康な足を持って元気よく走っている光景が見えてくる。血を吐いて、息も苦しくて、ときどき咳をして、とても苦しかったけれどだからカメ太郎は立ち上がろうとしかけていた。顔を上げれば桟橋の照明灯が見えていた。
勉強していても厳しいカメ太郎らの出会った浜辺や海が見えてきます。北風が冷たくて雲はどんよりと曇っていて、隣りにゴロが居て、カメ太郎らは星子さんが来るんじゃないかな、と待っていて…
もう留年が決まっているのに毎日県立図書館でたくさんクスリを飲んでいるカメ太郎はちょっとおかしいな、とか思っています。クスリは大切にして今度の卒試やポリクリのときに使わなければいけないのにと思って明日から図書館で勉強するのはやめようかな、とも思っています。勉強はずっと家でしようかな、とも思っています。でも寂しいから。
今日、久しぶりに『はざま先生』の(神経内科)の病院へ行ってクスリをただで貰って来ました。明日、賀来病院へ行こうか行くまいか迷っています。クスリをただでくれるから○○病院にでも行こうかな、とも思っています。
今日、教授会があって卒業判定が行われて今日の夕方、もう貼り出されていると思うけど、カメ太郎は明日、見に行こうと思っています。今、本当に創価学会に戻るか、クリスチャンになるか、創価学会でなくてただの日蓮正宗の信仰をしようかとても迷っています。
カメ太郎は宗教をしていなかったときの自分を(つまり創価学会の信心をしてなかったときの自分の姿を思い起こしてしまう。昨夜も、おとといの夜も、そのことを考えた。どっちが幸せだっただろうか、と考えた。信心してなかったら勉強しなくて医学部へはとても入れなかった気がするし、でも信心しなかったらこんな病気にも罹らなかったような気がするし。
波の音がまるでカメ太郎を“死”へ誘うようにカメ太郎の耳に響いて来る。昨日も今日も、一昨日もずっと図書館で勉強していたカメ太郎はちょっと感傷的になっていて、『もう死は考えなくなっていたけれど』自分の生きる道をあまり見い出せなくて、苦しくて、親のために苦しくて、
(第2章)
星の中に 5月の星の中に 消えていった君
5月の星が君を薄く照らしていた。
カメ太郎がもっと早く桟橋まで辿り着いていたなら、
カメ太郎が胸の痛みに耐えかねて何度か倒れて膝小僧をたくさんたくさん擦りむかなかったならば君は助かっていたのかもしれない。
もう少しだったのに、
君を救うのはもう少しだったのに。
君はカメ太郎の名を呼びながら塩水をたくさん飲んでいたのだと思う。
断末魔の苦しみの君と、胸の痛みに耐えかねて血を吐いて横たわったカメ太郎と、
5月の海の中に断末魔の叫びを挙げながら死んでいった君。
血を吐いて何度も倒れ伏したカメ太郎。
君はカメ太郎の来るのを待っていたのに、
カメ太郎は喉から血が出て、君を救えなかった。
もう十年以上も経ったのにカメ太郎はそのことを思っている。
疲れた。朝、起ききれなかった。こんな日がもう10日ぐらいも続いていた。留年のショックと来年も落ちるかもしれない不安。
そしてカメ太郎は今日、昼頃から朝の勤行と唱題を一時間半あげた。それから一時間はものすごく勉強の能率が上がった。でもカメ太郎はまた退転しよう、と思った。そのあと学校へ行って震える手を抑えるのにたくさんのトランキライザーを飲まなくてはならなかった。
『星子さん。耐えなくっちゃ。自由にできる両手を使って息ができるようにしなくっちゃ。カメ太郎も今倒れていて苦しい。でも今、立ち上がろうとしている。君の飛び込んだ桟橋へとカメ太郎はまた走ろうとしている』
ツカツカと歩いていたカメ太郎の胸の中に、中一のころ聞いた浜辺での君の歌声が響いてきていた。中一のころ聞いた浜辺での君の歌声が、一度倒れたカメ太郎の胸の中に、元気だった頃の君の姿が悲しみの涙とともに浮かんできていた。
極限の苦しみの中で君はカメ太郎に訴えた。『カメ太郎さん、立派なお医者さんになってね。そうして病気で苦しんでいる人たちを救っていってね。カメ太郎さんや星子さんのようにもうこんな病気で苦しまないでいいようになってね。お願い……』
カメ太郎は、トッ、トッ、トッと走りながら君のその言葉を聞いていた。
カメ太郎が立ち上がったとき、もう遅かった。網場の桟橋の灯りを目の前にして倒れ込んでいたカメ太郎はもう起き上がっても遅かった。
カメ太郎はマイク・タイソンのようだった。このまえの日曜日、市民会館の七階で大学の浪人生たちと見たノックアウトされたマイク・タイソンのようだった。
君に2月頃のカメ太郎の苦しさが解らなかったようにカメ太郎にも君の苦しさが解らなかった。君は五月のある日、自ら命を絶った。カメ太郎は茫然と何日か学校を休み続けた。
『カメ太郎さん、早く来て。カメ太郎さん、早く来て……』
でもカメ太郎の胸には君の声は虚しく響いた。カメ太郎の家と桟橋のまん中よりもっと手前の所でカメ太郎は倒れ伏して、そして血を吐いていた。
『カメ太郎さん、苦しいの。とても苦しいの。カメ太郎さん、早く来て。お願い。早く来て……』
カメ太郎は不運だったのかもしれない。小さい頃からカメ太郎は苦しむように運命づけられてきたのかもしれない。でもカメ太郎はこれからは負けない。毎日がどんなに苦しくても、少なくとも父と母のため、カメ太郎は元気に生きなければならない。
幸せになるためにカメ太郎らは生きている。カメ太郎らだけでなくって家族のために、カメ太郎らは生きている。辛いけれども生きている。
中学のころ楽しかった。小学生のころ、母はカメ太郎と姉を道連れにして心中しようとした。カメ太郎が小学三年か四年のころだったと思う。最後にカメ太郎と姉においしいものを食べさせようと母はチケットを持っていたので浜の町の『浜勝』で“カキフライ”などを食べた。とてもおいしかった。でもそのときずっと正座していたカメ太郎は(ずっと正座していたのだからカメ太郎はもう勤行をしていたのだと思う。だからカメ太郎の小学三年の後半か四年の頃だったと思う)とてもおいしかった。カキフライなどを食べたあと足が痺れて泣きそうになった。母はカメ太郎の苦しむ姿を見たからかもしれない。タクシーに乗ってカメ太郎らは夜の9時半ごろ家に(市場の狭い6畳二間の2階だったけど)帰った。父は居なかった。母はそれから懸命に夜の勤行をしたようだった。カメ太郎と姉はいつもの二段ベットに寝た。カメ太郎が下の方で、姉が上の方に。
母は今夜死のうとしていたのだと思う。それでカメ太郎たちを今までこんなことなんてなかったのに食事に連れていってくれたのだと思う。カメ太郎の思い過ごしかもしれない。でもあのころは店も危機であった。カメ太郎の家の店が良くなり始めたのはカメ太郎が小学三年の後半頃だと思う。これはやはりカメ太郎が小学三年の二学期頃のことだと思う。カメ太郎たち一家がカキフライを食べて世の中にこんなにうまいものがあったのを知ったのがカメ太郎が小学三年の一学期のことだと思う。そして二ヶ月に1回くらい貧しいなかカキフライが夜食に出ていた。でも『浜勝』でのカキフライのおいしさには家で作るカキフライもかなわなかった。でもそれでも家で作るのもとてもおいしかった。この世にこれ以上おいしいものはなかった。
この頃も苦しかったし、今も苦しいけど、今の苦しさは甘えているからだ。幼い頃はどうしようもなかった。でも今は自分で環境を変えることもすべてをできるはずなのに。
今の苦しさはぬるま湯のようなものだ。それを今のカメ太郎は苦しい苦しいと言っている。
“正義”とは何なのか、生きる“真実”とは何なのか、と煩悶しているカメ太郎にとって苦しかった小学生時代の思い出は本当にカメ太郎を元気づけてくれる。ともすれば自殺を考えてしまうカメ太郎にとって小学校時代の思い出はカメ太郎に生きる勇気を与えてくれるような気がする。
桟橋の向こうにも、ペロポネソスの浜辺の向こうにも、幸せの世界があったような気がする。風はとても冷たくて、耳が凍えるように冷たいけど。
君の家は本当に灯台のようだった。中一、中二、中三、高一とカメ太郎を照らしてくれた灯台のようだった。
カメ太郎は君の部屋の灯りに何度、いや何十度励まされたことだろう。辛くて、もう学校へ行きたくなったカメ太郎を君の部屋の灯りは、何度も、何十度も、カメ太郎を励ましてくれた。カメ太郎に勇気を与えてくれた。
『楽しい時期は、楽しい時期は何処へ行ったの? カメ太郎さん。カメ太郎さんにとって楽しい時期は何処に行ったの』
『ああ、何処に行ったんだろうね。カメ太郎にとって楽しい時期はもう過ぎ去ってしまったような気がする。いや、カメ太郎は小さい頃から不幸だった。カメ太郎には幸せな時期なんて28歳の今になるまでなかったような気もする』
真実とは何処にあるのだろう。海に中に、空の中に、森の中に、真実は何処にあるのだろう。カメ太郎はどうやって生きてゆけばいいのだろう。
カメ太郎はこのごろ死ぬことをあまり考えないようになった。すると“死神がスルスル”とカメ太郎から離れていったようだった。
幸せは海の中にも空の中にも森の中にもなかった。青く濁っている海の中にも、青い空のカメ太郎の生まれた雲仙の麓にも、冷たい森の中にもなかった。幸せは何処にもなかった。
少年の頃、カメ太郎は辛いことがあると、いつも南無妙法蓮華経と唱えてきた。でも今のカメ太郎には唱えられない。カメ太郎はもう純粋だった少年の頃のカメ太郎ではないし、
君は、春だったけどとても寒い日に死んでいったね。5月になったのにものすごい寒波が吹き寄せていたのに、君はその日に死んでいった。もっと暖かい日を君が選んでくれたらと、カメ太郎は今でも思う。
冷たい大気は一瞬、カメ太郎を玄関の前でたまらわせた。でも星子さんを救うため、カメ太郎は走らなくてはいけなかった。いつものジョギング用の靴を履いて、カメ太郎は掛け始めた。五月なのにものすごく冷たい大気で、カメ太郎は何度も走るのをやめようと思った。(ノドの病気を守るため)
君も、カメ太郎も、あの月夜に輝く月の光の中に吸い込まれていってしまいそうだ。カメ太郎も君も本当に真面目だったのに、真面目すぎたからだろうと今カメ太郎は思っている。
月夜の中で君が叫んだ。『カメ太郎さん、助けて。カメ太郎さん、助けて』でも君の声は月夜の中に虚しく消えていったようだった。カメ太郎は息せき切って桟橋に向かいつつあった。
君はもう、灯台が立っている桟橋だった所へ沈んでいった。もう桟橋はなくなって、灯台だけが明々と照っているけれど。
○○牧師さんへ
カメ太郎はやはり信じきれないというか、今とても迷ってます。あさっての日曜日、カメ太郎は10時からの決心者クラスに出るかどうか、今迷っています。
正しいのは何だ、正義は何だ、と何ヵ月も前からずっと迷ってます。“正義はないんだ。ただ明るくのんびりと、人のため、世のためになるように朗らかに生きてゆくべきだ”という教えをカメ太郎は今信じかけています。でもその教えは現在のプロテスタント系の教会の教えと一致します。その教えを書いた本『○○○○先生など』の所に行っても神は居ません。悪いことも良いことも起こりません。
石川さんはとても誠実な人で、カメ太郎たちを救うために一生懸命、毎晩夜遅くまで活動してくれた。でも石川さんの激励で奮い立ったカメ太郎たちは魔の襲来を受けて却って不幸になった人もいる。カメ太郎はノドの病気になったし、○○さんは東高に入るか入らないかの学力だったのに東高にも○○にも落ちて結局二次募集で総科大付属高に入ってグレてしまった。
石川さんが今活動していないのはそんな魔の力を見て、この信仰に奮い立つように中学生のカメ太郎らに勧めることにためらい始めたからだと思う。カメ太郎は苦しみ悩んでそしてこの信仰をやめた。でもやめた後はますます地獄だった。
やめなければ良かった。中学・高校の頃、苦しかったけど、信仰を心の支えにして比較的明るく毎日を送ってきた。クラスの人気者だった。またノドの病気のために医者になろうとして一生懸命勉強したし、カメ太郎は明るかった。
本当にやめなければカメ太郎はこんなに留年することもなかったと思う。勤行して生命力をつけて勉強したら試験の山も勉強していただろうし、勉強もたくさんたくさんしていたと思う。信仰を(創価学会の)やめたためにカメ太郎は普通の人間になってしまった。信仰を続けていたらカメ太郎は鉄のような人間として大学生活を送っていたと思う。留年はしても1年か2年かに留まっていたと思う。創価学会の大学生は活動に追われてあまり勉強してないのに何故か全然留年しないのは不思議だった。カメ太郎も続けていればよかった。何かが守ってくれる、そんな気がしていた。
君は月夜に死んでいった。寒い月夜に、5月なのに、君は凍えるようにして死んでいった。
君はカメ太郎の名を呼びながら死んでいった。海の水を飲みながら苦しい息の中で、必死に走ってくるカメ太郎を待ちながら死んでいった。辛い塩水を、君は飲みながら、カメ太郎の名を叫びながら、寒さに震えながら、死んでいった。
寒い日に君は死んでいった。5月なのにとても寒い日に、何故君は死んでいったのだろう。
君と一緒にカメ太郎も死ねていたならどんなに幸せだっただろう。でもカメ太郎はまだ生きてそして苦しんでいる。厳しい日々に毎日のように自殺を考えながらも生きている。
君は海の中で叫んだ。『カメ太郎さん、助けて。カメ太郎さん、助けて』
…カメ太郎が血を吐きながら必死に走っているとき、君は青い藻に包まれて身動きができないでいた。君の口からはあぶくが立っていたと思う。君は両手を必死に動かして浮かび上がろうとしていたらしい。でも君の意識はだんだんと薄れていってなくなっていっていた。カメ太郎は血を吐きながら走っていた。君の居る桟橋へ桟橋へとカメ太郎は必死になって走っていた。血を吐きながらカメ太郎は、藻にからまれて海へと上がれない君の姿を思って涙にくれていた。
カメ太郎だけの、カメ太郎だけの身なら良かった。でもカメ太郎は苦労して働いている父や母の姿を思い浮かべて立ち上がった。走ろうか、もう家まで戻ろうか、とも思った。カメ太郎は一瞬家への歩みを始めた。でもカメ太郎は思いとどまって再び桟橋へと桟橋へと駆け始めた。
……家までゆっくりと歩いて帰って、ノホホンと父や母のために過ごそう、とも思った。でもカメ太郎の胸には星子さんへの愛が焼き付いていた。
何が真実なのか解らない。カメ太郎は卑怯なのだろうか。なるべく楽な道を、カメ太郎は選ぼうとしている。
カメ太郎は泳げるから、暗い海の中に飛び込んでいったって死ねやしない。冷たい凍えるような海の中に飛び込んでいったって、カメ太郎は死ねやしない。
明日からまた勤行を始めよう。もう宗教遍歴はやめよう。カメ太郎はこの信仰に賭けよう。
白い波の立つ灯台の向こうに、カメ太郎らの幸せな家庭が見える。ちっちゃな家だけど。
君が死んだときカメ太郎の青春は終わった。たしかあのときに終わったと思う。君が14の頃でカメ太郎が16の頃だった。
カメ太郎は生きたい。カメ太郎は岩の上から飛び降りたくない。
波の音がカメ太郎の耳に響いてくる。冷たい風と一緒に、寂しいカメ太郎の耳に吹いてくる。潮風とともに、母が育った所でのように(カメ太郎の母の家は漁師だったから)悲しく悲しく届いてくる。
親孝行をしなければいけない、と潮風は言ってるようだけど、生きるのが辛いし厳しいし、カメ太郎は死にたい。苦労して今まで育ててくれた母のためにも生きなければいけない、と潮風はカメ太郎に伝えているようだけど、辛くてカメ太郎は死にたい。
母の苦労、父の苦労、母の嘆き、父の嘆き、そして落胆。カメ太郎は生きなくてはならない。辛さを我慢してあと一年、一生懸命勉強して医者になって親孝行しなければ、カメ太郎は死んではいけない。
君の勇気を、君はたった1mぐらいの高さの所から海の中に落ちていったけど、その冷たさと寒さと、辛さを思うと、カメ太郎は目を潰りながら岬を後にした。不幸な人のためカメ太郎は自分の幸せを犠牲にして生きようと、君のような人のため生きようと、カメ太郎は思ったから。
君はカモメのように散っていった。冷たい海の中に、白いカモメのように舞い上がって散っていったのだとカメ太郎は確信している。
バイクで灯台まで行くのは冷たい。灯台まで遠いし、早く帰って久しぶりにワープロを打とうと思うし、もうすぐ春だし、(明日から春だし、)カメ太郎は今日、学校帰り、県立図書館で勉強して高校生や中学生の元気の良さというか暖かさを感じようと思ったけど、今日は月末だった。カメ太郎は淋しくバイクにガソリンを入れただけだった。
2年前、診断学の実習のとき、肝臓や腎臓の診察の手技を間違わなかったらカメ太郎はもう研修医になっていた。研修医になって一年近くを迎えていたはずだった。学一のとき細菌学の再試であと2点足りてれば、カメ太郎はもう研修医の2年目だったと思う。親に苦労をかけないですんだし、自分自身も苦しまなくて良かったし、
母は働いている。カメ太郎が卒業するのを心待ちにしながら、毎晩夜遅くまで働いている。
北風に吹かれた白い波と丸い灯台の周りを迂回してカメ太郎の体に吹き付ける冷たい風。灯台はカメ太郎を冷たい冷たい北風から守ってくれずカメ太郎は寒さに震え、崖の下の白波をカメ太郎は見つめている。死ぬにも死ねなくて、父や母や姉のためにも死ぬにも死ねなくて、カメ太郎は苦しみ抜いている。死にたいけど死ねなくて、カメ太郎は苦しみ抜いている。
苦しい時、寒い時、苦しみからカメ太郎を守ってくれた灯台はもうない。冷たい北風が、もう潮水とともにカメ太郎の体に打ちつけてくる。カメ太郎は辛い。カメ太郎は病気が治らないことには、カメ太郎はもう死ななければいけないのかもしれない。カメ太郎の背後で死神が笑っているような気がする。
カメ太郎の星子さんが沈んでゆく。桃色の可愛い手を振りながら、カメ太郎の恋人の可愛い星子さんが死んでゆく。
生きる手段を喪って宗教を転々と歩く。でもカメ太郎だけではない。30歳、40歳、50歳、60歳の人が生きる手段を喪ってカメ太郎と同じようにしている。そして何人かは次々と自殺していっている。
冷たい。冷たいね。 うん。冷たい。冷たいですね。
いろんな宗教を巡ってきて治らなかったその40年配の女性の方は今から死のうとしていた。
……でもどうかして生きる方法があるのじゃないですか? 何か、他に何か生きる方法があるとカメ太郎は思います。それに自殺することはどの宗教でも最大の罪だと説いています。
……60歳になろうとしているその婦人は足を冷たい海の水の中につけて迷っていた。カメ太郎は、生きなくっちゃ、どんな厳しい仕事をすることになっても生きなくっちゃ。あなたの甥は分裂病で入院中で、一人息子も行方不明かもしれないけれど、カメ太郎らは生きなくっちゃ。カメ太郎らは生きるためにこの世に生を受けて、自殺したらものすごく苦しむことをカメ太郎はいろんな本を読んで知っている。生きなくっちゃ。元気に生きなくっちゃ。少なくとも自殺だけはやめなくっちゃ。
カメ太郎にも厳しい時代がありました。小学校・中学校・高校とカメ太郎の毎日は地獄のようでした。でもカメ太郎は決して“死のう”とか思いませんでした。自殺は罪です。最大の“罪”となっています。カメ太郎は宗教を心の支えとして小学校から高校までの厳しい年月を生きてきました。死後の世界は必ずあります。決して自殺してはいけません。
冷たいね。ええ、冷たいわ。寒いね。ええ、寒いわ。あと何年、あと何十年、こうしていなくちゃいけないんだい。あと千年、あと千年なの。まだ始まったばかりなの。星子さん、千年間、こうしていなくちゃいけないの。
千年、あと千年なのかい?
ええ、あと千年なの。星子さん、自殺したからあと千年こうしていなければいけないの。
幸せになりたいの。海面に浮かび上がりたいの。でも貝殻に挟まって、私、動けないの。私、動けないの。
星子さん。真冬の海だ。今、カメ太郎の心はこの真冬の海のように冷たい。心配や寂しさ、悔しさ、劣等感や焦り、カメ太郎は坊主になろうとまで思った。坊主になるのがカメ太郎に向いてて……親は悲しむだろうけれど……カメ太郎はそうしようと思った。
もう寒くなってきてバイクの上でも寒いです。来る頃、カメ太郎はカメ太郎たちの思い出の浜辺がこんなに荒涼として真冬の海の相を呈しているなんて考えていませんでした。カメ太郎はただ久しぶりにこの海へやって来た。
今日も市民会館で勉強しました。いつものように閉館間際まで残っていたときやはりうしろの席の女の子2人が(カメ太郎らだけ3人になってしまうのだけど)ゆっくりと後片付けをしていました。カメ太郎はそそくさと本などをバックに入れて部屋を出ました。喋りきれなかったから。喋って嫌われたり笑われたりしたくなかった。このまえもこのまえも、この頃よく続いています。
この鯉はいったい何を考えて生きているのだろう。この泥の中で…
水になれ
空気になれ
夕方、勉強をたくさんして、能率がとても上がって、幸せいっぱいに帰ったあの坂道。夕陽にカメ太郎は幸せいっぱいに包まれていた。結局あのコと会えなかったけれど、そのことがちょっぴり残念だったけれど、今日6時間以上も一生懸命勉強したから。白いあのコの姿をカメ太郎は一目見たかった。10日間カメ太郎は苦しみながらきっと医者になるのだと思って勉強してきた。カメ太郎は10日間、このノドの病気を呪いながらひたすら勉強してきた。幻のようなとても美しかったあのコの姿を思い出しながらカメ太郎は勉強してきた。
あの日、見えていた南山手や長崎港の光景ももう十年前のものとなろうとしている。カメ太郎はあの頃も孤独だったかもしれない。今、カメ太郎は創価学会に戻りかけていて孤独から脱しようとしている。でもまだカメ太郎の心は揺れている。創価学会をやめようと一日一回は思ってしまう信仰弱いカメ太郎だ。
でもカメ太郎は十年経ってもあの坂道の柳の葉のことを思い出すことができる。坂道の横の家の玄関に揺れていた柳の木と葉をカメ太郎は今でも思い描くことができる。寂しげな長崎港や愛宕の丘がその柳越しに見えていた。テレビ塔や遠足に行った○○山も見えていた。
もう6月の中旬だったけれどその日は涼しかったと思う。カメ太郎は夕方その坂を両手を組んで寒がりながら駆け降りた。寒かった。
もうカメ太郎が水族館前のバス停に着いたとき日はとっぷりと暮れていた。あのコの瞳のような丸いお月様が海の方の空に懸かっていた。
丸いお月さまはあのコの瞳のようで
孤独に打ちひしがれていたカメ太郎を慰めてくれた
カメ太郎は寂しさに耐えながらバス停から家まで帰った
そうして一時間二時間と夜の勤行と題目をした
カメ太郎はこの頃、十年前のあの思い出のことを思って歩いた道を…浦上川の川沿いの道を…平和記念会館がその川沿いに出来たからよく通っているけれど…もう君は遠い何処かへ行ってしまっているような気がする。カメ太郎の手の届かない遠い何処かへ…。
いつか君とこの海岸へ来て、この澄み通った海岸へ来て、二人だけで泳ぎたかった。もう君とは七年間も会ってないけれど…。君とはまだ口もきいてないけれど…。
カメ太郎はもう駄目かもしれない、と誰かに告げたい。そして暗い闇のなかで永遠に休み続けたい。カメ太郎はもう疲れ果てているのかもしれない。カメ太郎は永遠に横たわり続けたい。静かな所でカメ太郎は横たわり続けたい。
君は幸せに死んでいった。孤独にうち震えるカメ太郎と、10数年前に死んでいった君と、どちらが幸せだろう。
『寂しいの。カメ太郎さん。寂しいの。自殺したら、とても寂しいの。死ぬ前の方がずっと良かったわ』
カメ太郎は星子さんのその声を聞いて自分の耳を疑った。自分も死んで楽になりたかった。しかし、あらゆる宗教や、星子さんの声に一致するように自殺したら、もっともっと寂しくて苦しくて辛い境遇に置かれることを思うとカメ太郎は死ねないな、と思った。這いつくばっても生きてゆかなければいけないな、と思った。
……吃りにはビタミンBのある種の不足によるものと精神的なものによるものと二つに大別できることが自分で人体実験して良く解った。ストレスを貯めないことが精神的なもので、肉類や野菜をよく食べることが体質的なものだと思う。その二つをちゃんと実践したら吃りはだいぶ軽くなると思う。また吃り(体質的由来による人には)ビタミンBのある種の代謝障害があって(女性の場合は代謝が緩やかなためと、もう一つ筋肉のtensionが女性の場合には弱い、ということに由来していると思う。)女性には吃りが少ないのだと思う。カメ太郎も含めて、みんな吃りで苦しまないようになって貰いたい。吃りはビタミンBのある種の代謝障害であることが自分の人体実験でもよく解ったし、苦しまないようになって貰いたい。
カメ太郎はクロやアラカブやクサビをたくさん釣ったBOXを肩にかついで、白いライトバンの(マツダのルーチェだった)へ向かって歩いていきながらたくさん鼻水をたらしていた。寒くて、凍るように寒くて、
家に帰って来たときカメ太郎の顔を見て母はすぐお風呂に入るように言った。鼻水が氷ついていて、でもカメ太郎はあんまり寒さを感じなかった。
君は君を置き去りにして去ってゆくカメ太郎を恨しげに見つめながらも、カメ太郎と父とカメ太郎と父のボートを懐かしそうにとても懐かしそうに見つめていた。君は寂しくて、寒くて、
岬の下の魚は、人が落ちてくるのを待っている。
でも星子さんはここまで来れないし、
カメ太郎かゴロが落ちたって、
カメ太郎もゴロも泳げるからすぐ岸辺にたどり着いてしまう。
(天国の星子さんへ、そしてゴロへ)
カメ太郎はとても迷っている。毎晩毎晩お酒を飲む習慣を絶とうと愛知県なんかへの出稼ぎに行こうか、それともこの春休み、毎日図書館へ通って勉強しようか、迷っている。
このままじゃ自分の躰も頭もボロボロになるような気がするし、かと言って季節工として2ヶ月間自分が働けるかとても気の変わりやすいカメ太郎だから解らないし、
のんびりと勉強をしてこの春休みを過ごそう、と思う。そしてそのうちにカメ太郎の対人緊張や吃り、ノドの病気も綺麗に治ってゆくと思う。やっぱりクリスチャンになろうと思う。クリスチャンになればカメ太郎の病気はすべて治ってしまうと思う。
カメ太郎からカメ太郎を呪ってきた悪霊が消えていって、あと一つ、でも死神だけは残り続けるような気がする。でもカメ太郎の対人緊張、吃り、ノドの病気が治ればカメ太郎は明るくなって自殺なんて考えないとても明るい自分になれると思う。
明日、バプテスマのための講習を受けようかどうかとても迷っている。それとも午後一時からの青年会へ行って、まだ吃りで対人緊張もそのままのカメ太郎だけど、そのうちきっと治る、と思ってそれに参加しようか、とも考えている。
君は海の底で産声を挙げているようだった。
カメ太郎がそっと海面に耳を近づけるとそう聞こえた。
でもそれが死んでから十一年経ってもまだ苦しんでいるその苦しみの声だったなんてカメ太郎は思ってもみなかった。
君は海の底ではまだ苦しめられているのだった。
カメ太郎は死んではいけなかった。カメ太郎は自殺の計画をやめた。君の苦しみの声が帰り際、まだカメ太郎の耳に鼓玉していた。
(空が割れたときカメ太郎も幸せになれると思う)
空が割れて、カメ太郎も幸せになれる日が、いつ来るのだろう。十年前、その日は近いと思っていた。でも十年間、何にもなかった。もう1990年の春なのに何もない。カメ太郎はいつまでも苦しむばかりだ。早く最後の日がやって来ると、今、欲望をむき出しにしてお金や地位を獲得した醜い彼らは、その他人をけ落とした罪の故に、落ちぶれ果て、そして良心に従って、苦しみ抜きながら人のため不幸な人のためにと自分の身をすり減らして涙のにじむような戦いをしてきた人は救われる日が来るのに、と思いながら、カメ太郎は毎日図書館に通い、“対人緊張”と戦いながら勉強している。何が真実か解らなくて煩悶しながら。
可憐な君が
天国へ旅だった君が
いつか帰ってきてくれると信じていた。
カメ太郎は下界で
塵埃の立ちこめる下界で
君が死んでから十二年生きてきた。
ほとんど一人で
カメ太郎は孤独に生きてきた。
カメ太郎は二十八になった。
カメ太郎の前に女の子はほとんど現れなかった。
ほとんどカメ太郎は一人きりだった。
とくに最近の五年間は
とても孤独だった。
去年、夏ごろ、創価学会に戻って戦い
久しぶりに青春を謳歌したけれど。
カメ太郎は十二年待っていた。
君は戻ってきてはくれなかった。
カメ太郎は十二年孤独だった。
二人で浜辺に座ったこと
すぐ貝が見えてたけど
実際はとても深くて取りきれなかったこと
カメ太郎にとって、
少年の頃
幸せな時代はいつのことだったろうか、と思ってしまう。
みんなぼんやりと
かすんで見える。
海が見える。
君が泳いでいる。
ゴロと泳いでいる。
カメ太郎らの思い出のペロポネソスの浜辺の先の
立石の浜辺で
君とゴロが泳いでいる。
(人の少ない教室の一角で。1990・4・27 AM10:11)
飛行機にて
1月24日 AM11:40
星子さんへ、ゴロへ、
カメ太郎は今、空を飛んでいる。もうだいぶ高く飛び上がっていて大村湾が真下に遥かに見える。でも今日は小雨のためか霧でもう見えなくなりました。
まっ白い霧だけが今見える。でもここまでクルマで高速道路を使って送ってくれた父。また留年しそうなカメ太郎。異常にあがる性格が治れば、と大阪の気功法のところへ向かっているカメ太郎。卒業試験でまた呪われたように大失敗してしまったカメ太郎。カメ太郎には悪霊が憑いているんだ、という思いが離れない。あのとき憑依した死神がまだカメ太郎から離れていっていない。
明るくなればいいんだなあ、と思いながらも明るくなれない。可愛い彼女でもできたら明るくなれるのになあ、と思いながらもカメ太郎の顔のこわばりのためできない。母や父を安心させ、幸せにしてあげたい。でもいつも失敗ばかり、不運ばかりのカメ太郎。
霧は晴れてもうずっと雲の上になった。このままカメ太郎も星子さんやゴロの待つ天国へと旅立てたらなあ、と思いつつもカメ太郎にはやっぱり父や母がいるから。父や母を幸せにしてやらなければいけないから。
幸せが何処からかカメ太郎の処まで飛んでこないかな、と思う。誰か金持ちのお嬢さんと恋人になりたい。
幸せはカメ太郎にとって本当に何処にあるのだろう
また留年して最後の在籍できる学年を迎えようとしているカメ太郎。
あがっているんだ、合格してるんだ、という希望も少しあるけど
そうしてそう思い込もう。そう強く念じ込もう、と思っているのだけど
カメ太郎の病気が治ればカメ太郎は幸せになってそうして父や母を喜ばせ安心させることができるのに、と思うのだけど
とおすぎる雲 とおすぎる幸せ
綿菓子のようなカメ太郎になろう
浮き雲のようなカメ太郎になろう
そうしたらカメ太郎の病気(対人緊張)も治ると思う。
星子さん。真冬の海だ。今、カメ太郎の心はこの真冬の海のように冷たい。心配や寂しさ、悔しさ、劣等感や焦り、カメ太郎は坊主になろうとまで思った。坊主になるのがカメ太郎に向いてて……親は悲しむだろうけれど……カメ太郎はそうしようと思った。
もう寒くなってきてバイクの上でも寒いです。来る頃、カメ太郎はカメ太郎たちの思い出の浜辺がこんなに荒涼として真冬の海の相を呈しているなんて考えていませんでした。カメ太郎はただ久しぶりにこの海へやって来た。
今日も市民会館で勉強しました。いつものように閉館間際まで残っていたときやはりうしろの席の女の子2人が(カメ太郎らだけ3人になってしまうのだけど)ゆっくりと後片付けをしていました。カメ太郎はそそくさと本などをバックに入れて部屋を出ました。喋りきれなかったから。喋って嫌われたり笑われたりしたくなかった。このまえもこのまえも、この頃よく続いています。
1990・11・12
カメ太郎は変わった
死を夢見て柔道の帯を片手に森をさまよった自分では今はない。今、自分は高校、中学の頃、心の支えにしてきた創価学会の信仰を再び始めている。カメ太郎は強くなった。もう、死を夢見る自分ではなくなった。以前の、苦しかったけど強かった自分に戻りつつある。
苦しかった。でも自分は強かった。あの中学・高校時代に自分は戻りつつあるんだ。毎日、題目を一時間はあげていた。勤行と合わせると2時間近くになっていた。
カメ太郎は元気だった。苦しみにも負けず元気だった。
命賭けで戦っていた日々があった。それが本当に真実なんだと、これが不幸せな人を必ず救えるんだと、信じきっていた日々があった。あの頃は苦しかったけど幸せだった。同志がたくさんいたし、ちっとも寂しくなかった。
カメ太郎は一昨日の夕暮れ時、母によく似た女の人が重い荷物を手に持って階段を登っていっていた光景が忘れられない。カメ太郎はそのときクルマの中で勉強をしていた。
カメ太郎は早く卒業して医者になって母や父を喜ばせてあげたいし、安心させてあげたい。でも現実は厳しく、教授会で自分はまた留年させられそうな気がする。
でも自分は落ち込むことなく必死になって勉強しなければならない。そのためにも創価学会に戻ろう、と思っている。でも勤行がたしかに辛いし、もう少し思いきれないでいる。
でもカメ太郎は父のため母のため信仰と勉強に励むべきだろう。また美人で気立てがよくてできれば金持ちの女の子を見つけて婚約か結婚でもして父や母を喜ばせてあげたい。
カメ太郎は君に十年ぶりに会いたくて書いた手紙も結局出さなかった。カメ太郎は最終学年で卒業試験が控えていて、そしてカメ太郎は精神科に通っていた学生としてマークされているらしかった。カメ太郎はもし君のことを書いた手紙を大学に知られたらヤバイと思ったし、それに君はもう結婚しているような気がしていたし、それに自分には自信がなくなっていた。
一年近く前もカメ太郎は君と九年ぶりに会いたいとNBCのプレゼントアワー宛に出した。でも読まれなかった。どうせまたそうなるような(気の狂いかけた医学生の出した手紙として相手にされないような)気がしていたし、カメ太郎の書く手紙はいつも悲しみに満ちていて、明るい番組向きではないようだったし。
十年間カメ太郎は苦しんできたのかもしれない。この十年間、始めの2年半は創価学会に燃えていて充実していたし苦しかったけど楽しかったのかもしれない。でも残りの7年半は孤独との戦いだった。本当の友人はできなかった。そしてカメ太郎は後半は精神科に通う患者と変わり果てていた。
十年前のあの日に戻りたい。
十年前のあの日、高総体のバスケットのあっていたあの日に。
薄暗い観客席のあの思い出の日々にカメ太郎は戻りたい。
そしてあの子と再会したい。
十年前のあの子は今どうしているのだろう。
もしもまだ結婚していなかったら
もし今結婚する相手を捜しているのなら
カメ太郎は夕陽を背にして浦上川の畔にたてられた池田平和記念会館を前にして立っていた。小さい頃から大学一年まで命賭けでやってきた信心をカメ太郎は7年半前やめたのだった。でも半年ぐらい前から少しづつまたやり始めてきていた。一日やってもう次の日にはしないというのを何十回も繰り返してきていた。
カメ太郎は昨日も『世俗的幸福か、それとも宗教的献身か』と激しく悩み、そして前者の方をとろうっ』と決意しました。昨夜はそして12時間も眠りました。張りつめていた緊張の糸がプツンと切れて起き上がることもできないままに12時間もうとうとと眠りつづけていました。
そして起き上がれない気の弱くなった自分に気がついてこれではいけない、と思って布団の中で激しく後悔し、題目を唱えながら起き上がったのでした。
昨日、夕暮れどき、マルキョウの駐車場にクルマを停めてクルマの中で勉強していると母によく似た女の人が階段を登っていっている姿が見えた。カメ太郎はその姿を見て……苦労してきた母のことを思って……自分は宗教を取るか世俗的成功を取るかと迷った。宗教をやめてひたすら勉強に励むかそれとも。
世の中にはカメ太郎の母だけではなくて他にもたくさんの苦労してきた親の姿がある。そのことを思い、そして正義を思い、また正義は、真理は何かと思いカメ太郎の心はとても迷ってしまった。
小さい頃、苦しんでいた時、カメ太郎には宗教しかなかった。だからカメ太郎は自分から勤行をするようになった。カメ太郎が小学三年のときだった。
通信簿の全体の成績が(その頃は1から5までの5段階評価だった)いっぺんに5あがった。2が3に、3が4に、4が5にというふうに7科目か8科目あったうち5つ上がった。
カメ太郎は学校で鼻の病気のことでとても苦しんでいたし、家でもその頃貧乏で夫婦喧嘩が絶えなく苦しんでいた。カメ太郎に心休まる暇はなかった。
○○先生 長いこと顔を見せないことお許し下さい。みんなと会うのが恥ずかしいですし時間に追われている毎日でもありますのですみません。
自分は決して熱田先生の御恩は忘れません。絶対に熱田先生の恩には報います。自分は決して先生の恩は裏切りません。仏法者である前に人間として失格であればいけない、と自分は考えています。自分は今、創価学会に戻りつつあります。自分にはどうしてもこの信心が必要な気がします。昨日もやっぱり創価学会をやめようと決意しました。でも一日経ってやっぱり創価学会をやめるのはよそうと想いました。こんな日々が半年ぐらい続いています。真理が何か、人を救えるのは、不幸な人を救えるのは、と煩悶しつづけています。
半年ほど前はときどきしか創価学会に戻ろう、とは思っていませんでしたでも今は創価学会に戻ろうという決意を固めつつあります。
でもこんなカメ太郎ですから、いつまた創価学会をやめるか解りませんし、以前のように純真に信仰することができないでいます。
小さい頃から大学一年の11月までカメ太郎は一生懸命に創価学会をやってきました。でももうやめてから7年半が経ちます。今、戻るか戻るまいか非常に煩悶しているところです。でも戻りつつあるような気がします。
3月の中ごろでした。カメ太郎は7年4ヶ月ぶりに創価学会のところに行きました。春休みで激しくカメ太郎は哲学的に苦しんでいました。
7年半ぶりに行った創価学会はすっかり変わっていました。でも昔からの同志もいてカメ太郎のことをちゃんと憶えていてくれました。
自分は淋しかったから、自分は単なる友情だけでは満足できない人間なのだろうと思います、淋しかったからだから創価学会に戻るのだと思います。淋しさに耐えきれませんでした。大学での見せかけだけの友情に自分は虚しさを覚えていました。
カメ太郎はたぶん、創価学会に戻ると思います。でも真理は何か、真実が何か、ということをカメ太郎は今も考えあぐねています。
もうこの手紙が着いている頃には再びカメ太郎は創価学会をやめているかもしれません。でもとにかくカメ太郎は先生への恩と義理には絶対に裏切りません。
でも今、創価学会に戻るのやめよう、という気が強くしています。
先生 お元気で。自分も勉強に励んでいきます。
三船カメ太郎
TEL 38-5698
カメ太郎は中学・高校の頃、今より遥かに苦しい境遇にあったように思います。でもカメ太郎はあの頃とても元気でした。まだ若くて未来への希望に燃えていたからかもしれません。でもカメ太郎はあの頃元気だったのは創価学会の信心をしていたからだと思えます。今も頭がもやもやしたり希死念慮に駆られたりしているとき創価学会のことを思うとサーッ、とそれらの邪霊が去っていって頭が冴えるのが解ります。今カメ太郎は創価学会に戻ろうか戻るまいかとても迷っています。
カメ太郎が創価学会に戻ろうと真剣に考え始めたのは文学を捨てようと考えた2、3週間前からのことでした。
十年前のあの日がやって来ようとしているけれど、カメ太郎は書いた手紙もそのままに十年目の高総体の日を迎えようとしている。カメ太郎はもうすぐ卒業試験だし国家試験が間近に控えている。それなのにカメ太郎は共産党に睨まれているのにその手紙を出してそれが教授会で取り上げられたらカメ太郎の身の破滅と言うか、今まで一生懸命に努力してきたことが無駄になるようでポストに投函するのを控えている。
それに出したって無駄な気もするし、あのコはもう結婚しているような気もするし、カメ太郎はただ勉強のみに明け暮れるべきだ、と思っている。
浦上川は10年前とちっとも変わらないように流れているだろう。それに松山の国際体育館だって10年前とそのままであるようだ。10年ぶりに再会するのはやっぱり不可能
創価学会に戻ろう。カメ太郎は10年前のこの日の思い出ゆえに創価学会に戻るのをためらってきた。でも創価学会をやってた頃のカメ太郎は元気だったし決して泣き言なんて言ったことがなかった。ただ一度、予備校の寮の学会の用務員さん夫婦に泣きながら中二の頃からのノドの病気のために滅茶苦茶にされた年月のことを語ったことがあるけれど。
今、はやっているtransmeditationのことですけど、カメ太郎も以前、やっていました。でもあまり効果はありませんでした。大阪まで西野式呼吸法を習いに行ったたこともあります。真光教に通っていたときもあります。でも一番なのは法華経です。哲学的にもものすごいです。南無妙法蓮華経と御本尊様の前で全身の力を抜いてゆっくりと静かに唱えると15分もしたら目の前が光輝いてくるようになります。カメ太郎だけでなくほかの人もそう言います。
たぶん、百倍はmeditationと違います。
GCC01471
去年の九月、立山のバスがわずかに通る小さな県道でバイクとバスを追い越して対向車線をはみ出していた乗用車が正面衝突した。雨上がりの濡れたアスファルトの道であった。また、雨もまだ少し降りかけていた。
バスを追い越して向かいの駐車場に入ろうとしていたクルマを避けようとしてバイクを運転していた青年は急ブレーキをかけた。ブレーキはロックし、タイヤは滑ってそのまま転倒した。転倒した自動二輪車(250cc)はそのまま青年を引きずって雨に濡れた路面を滑った。そして対向車線からはみ出していた自家用車の車体の下へとなだれ込んでいった。
後頭部から前頭部にかけての長い線状骨折が左右に陥没して走っている。フルフェイスのヘルメットをしっかりと被っていてそれだけの陥没線状骨折が左右対称にできるほど激しく頭部を打っている。
彼が立ち直れるかどうかは分からない。あとは彼の気力次第だろう。また彼をとりまく環境が彼の立ち直りを支えるものであるか、彼が立ち直るのが不可能になるような環境であるかがすべてのような気がするが、彼には強い信仰心がある。彼は信仰を心の支えにしてきっと立ち直ってくれることを祈っている。
完
星子(夢1) @mmm82889
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