ひと、なつ、こい

小川真里「フェンシング少女」スタンプ

第1話(1話完結)

――ひと なつ こい。



 恋に落ちた音がした。

 それはぽとんとか、ぽちゃんとか、そんな生易しい音ではなくて。

 まるで、泥沼に堕ちていくように――

 ぼとん、ぼちゃぼちゃ。

 ずぶずぶずぶ。

 あの夏の日から、囚われ続けて抜け出せない。





 BBQ。

 バーベキュー、という言葉をこう略すのは日本だけらしい。そして「河川敷」の読み方は正しくは「かせんしき」だ。どうでもいい話だけれど。

 目の前の川から蒸発した水分が大気を満たし、私たちの全身を、真綿のように締め付けていた。汗は流れても既に飽和水蒸気量に達しているため、体温を下げるという本来の役割を果たさずただ流れ、キャミソールを湿らす。

「この時期になればもう涼しくなってるでしょ」と言ったのは一体誰だったのか。法治国家でなければ私刑である。嘘ですすみません。

 九月に入って、木曜に一雨きたからこのまま気温は下がっていくだろう、とタカを括っていた。熱波はぶり返し、その雨は恵みのそれではなく、壊れた加湿器だった。

 午前十一時に始まって、まだたったの一時間だ。私はもう帰りたかった。

 四季シキ(という名の私の女友達)に、『女のメンツが足りないからお願い来て!』と言われたのは秋雨前線の最前線が少しだけ地面を湿らした木曜の夕方。彼と凄惨な別れをした翌日だった。

 彼女は毎回、変に間合いが良いというか、悪いというか、そういう話を絶妙なタイミングで振ってくる。今回はこれまでで一番のタイミングだった――良いそれなのか悪いそれなのかは、今振り返ってみても、私には判断がつかない。

 暇な土曜日――の、筈だった。もともと、その別れる予定ではなかった彼との予定が入っていて、当然その予定は溶けていて。ん、「予定がとける」の「とける」はこれであっていただろうか。まあいいや。

 断ればよかった――

「つまらん?」

 ぼうっと、小型のタブレット端末――ヴィンテージものだ――を見るでもなく、ただ楽しいBBQの風景を他人事のように網膜に写していたら、彼は横にいた。一瞬で現実に戻り、一気に体温が下がる。違う汗が全身から吹き出る。

 ――油断した。彼は私のパーソナルスペースに平然と浸入してきていた――思えば。

 それが一歩目――一沈み目だった。

「いや、あんまり食ってないみたいだし、酒もそんな飲んでないし」

 私の警戒感がよほど顔に出ていたのか、彼は勝手に言い訳を開始する。

『誰とも話してないし』と言わないのが、彼のすごいところだ。そのときは計算か、と思ったけれど、それ以降観察していても、恐らくそれは天然でそうなのだ。

「んー、つまらなくはないけど」

 私がぼやっとした回答を返すと、

「え、誰に誘われたん?」

 と彼は探りを入れてくる。

「……四季」

「あー……四季ちゃんか……」

 その反応もわかる。私は彼が感じている倍以上、呆れているのだけれど。

 彼女はここには来ていなかったのだ――彼女は自分の代わりに私をここに送り込んだのだった。

「おい! って感じでしょ?」

「わかるわーそれ」

 彼は本当に共感したのかわからない返事をして、

「なんだっけ? 彼氏がいるんだっけ?」

「そうそう。四季は彼氏にゾッコンだからさ」

「ぞっこん?」

「?」

「?」

 あー。

「超好きって意味」

「なるほどなー」

 そこには明確な時代の谷があった。

「え、幾つ?」

「何が? 歳? 二十三」

 ががーん。

「え、幾つなん歳?」

「は? 言わんし」

「そっかー」

 溜息が出そうになる。女性に年齢を訊くな、という話ではなく――一部あるけど――彼の年齢は私の五歳も下だった。

 ぞっこんがわからないのか。この五年で一体日本に何が起こったのか……。

「ていうかほんとに二十三? 貫禄ありすぎでしょ」

 端的に云うと、彼の身長は私と同じ百七十センチメートルくらいなのに体重は私の倍くらいの〇.一トンありそうな感じで――顔はアンパンヒーロー並みにふっくらしていた。

「よく言われるんすよねー」

 しれっと敬語になるし。なんとなく歳上だと察したのだろうか。まあ、私は多分童顔なほうだし、勘違いされるのも無理はないか。

 私が若く見られていたと思っておこう。

「まー、酒でも飲んだらいいんじゃないですか?」

 言いながら彼は立ち上がって一旦ここから離れ、新しいビニールコップと、クーラーボックスから取り出したビールを持って、じゃりっじゃりっと近づいてくる。さっきはどうして気づかなかったのだろう、こんな巨体が、のっしのっしと――こんな擬音、人生で初めて使った――近づいてくるのに。

「疲れてんじゃない?」

 またもどきっとさせられる。どきっ、とかいうと微妙に勘違いされそうだ、言い換えよう――ぎくり、とさせられる。吊り橋効果のように恋だと勘違いしてしまいそうなほど、心拍数は上がっている。

「まあ、酒でも飲んで忘れましょうや」

 こういう口調が、彼を年齢より上に見せているのだろう――きっとこのとき、私は腰まで沈み込む。

 私は、参っているときに――滅入っているときに、お酒なんで呑んではいけなかった。

 それで何度失敗したことか――一番最近のそれは、水曜日だ。



「いいよ」

 と私は言っていた。

「まじで?」

 彼は文字通り興奮した様子で、すでに裸に剥かれている私に覆い被さってくる。……どっこいどっこいだなあ。なぜ男たちはこう、自分が満足すればそれでいい感丸出しのセックスをするのだろう。経験値の差なのかなあ。

 最近セックスに身が入らないのは、彼が上手くないのもそうだが、ほぼ前の彼氏のせいだ。

 ……前の彼氏は、空前絶後のド下手クソだった。人生初の彼氏で付き合って7年だったけれど――そして私にとても優しかったけれど――体の相性以前に、彼はド下手クソだった。ボディランゲージで示せれば一目瞭然で伝えられるけれど、あえて今回文字で著そうと試みるならば、「あっ! うっ」である。

 その結果が、水曜日、大学の同級生との久しぶりの飲み会だった。

 久しぶりの再会に、ついテンションが上がった私はつい酒に手を伸ばしてしまう。とりあえずビール。

『あれ? えとってお酒呑めたっけ?』

 たまたま隣に座った、大学当時素質はそこそこなのにあまりファッションにこだわりがなかったがためにそこまでピンとこなかったようちゃん(男。本名は忘却した)が、私にそんなことを訊いてくる。あれからどうやらユニクロとヘアワックスくらいは買うようになったらしく、垢抜けて表情も明るく見えた。

 ああ、ちなみに「えと」は私の名前である。

『そうだよー! にはいくらいはのめるようになったんら~~!』

 既にろれつなど回っていない。「呂律」という文字列で「呂布」が想起されてうおおおとなるくらい酩酊していた。

『そうなんだ! すごいな! 茜霧島ってお酒がめちゃうまいから飲んでみ?』

 よりによってそんな強いお酒を――なんてそのときの私は知る由もない。

『まじで~~? のむ~~』

 十センチメートルくらいの高さのグラスに、幾らかの氷と澄んだ無色透明の液体が満たされているそれを手に取って口に運んだ……ような気がするあたりからもう記憶がない。

 友曰く『人生で初めて修羅場を目撃した』。

 目覚めたら自宅のベッドで化粧そのまま、しかも恐らく涙ででろでろ、ワイシャツはくしゃくしゃで、眠っていた。

 聴くところによると、茜霧島を一気した後、反対の隣に彼氏がいるのに、『ね~~私と一回してみない?』と発言して空気を凍らせた挙句、『は?』と漏らした彼氏に向かって『あんたが瞬獄殺カムリだからでしょーが三こすり半すぎて三行半だわ!』といううまいのかうまくないのかそう言うが早いか彼氏と掴み合いをして結果『うわ~~んかっちゃ~~ん』とその場の誰も知らない名前を呼び出して号泣したらしい。

 そのかっちゃんというのは――

「あっ」

 ウルトラマンだ――いや「かっちゃん」ではなく、この今の行為の相手が、である。「かっちゃん」の回想に入る間もなく、カラータイマーが光ったと思ったら「ゼアッ」と飛び立っていった。

「……」

「……」

「もういい? 帰るね。ホ代よろ」

「ま、まっちょまっちょ」

「?」

「連絡先?」

 一瞬でシャワって部屋を出て行こうとする私に、彼は凄まじく醜い全裸姿で言った。





 それ以来、彼からは毎日のようにメッセージが来た。半分は無視していたが。

 とても――とても、気楽だった。

 ここ七年、味わったことのない感覚だった。

 ここ七年、全てのメッセージに一文字以上は返信していたし、たとえ寝たフリをしていても、翌朝には必ず返していた。……殊勝な彼女だ、と自画自賛の声が漏れる。

「なんて?」

「……なんでも」

 相変わらず、彼は察する能力が高すぎる。

 なのになぜ、彼は全てが返って来るわけではないのにメッセージを送ってくるのだろうか。……「全てのメッセージに返信があるわけではないから、散弾銃のように送信してくる」のか。「段々と、全てのメッセージに返信がなくなってきたから、下手な鉄砲のように送信してくる」のか。

 ……今日は、彼の仕事に便乗していた。

 彼は大型トラックのドライヴァーで、今日と明日で四国に大荷物を運びに行くらしかった。と、いうことが、スルーしかけたメッセージで判明し、その二日間ちょうど超絶暇だった私は、道すがら拾ってもらうことにしたのだった。

 地図アプリで調べるとこの味噌の街から約七時間かかるらしい。遠。

 たぶん基本寝てた。

「トイレとか大丈夫?」

「んあ……」

 大型トラックには――全てそうなのかは寡聞にして知らない――少なくとも、彼の大型トラックには、座席の後ろに寝そべりスペースがあるのだが、そんなとこに私が寝てたら彼は速攻でサツに捕まるのである。

「起きた?」

「寝てた」

 寝起きの応対は我ながらひどい。

「一応PA寄るわー」

「WORKS?」

「は?」

「は?」

 はって言われたし。渾身のボケを。

 ――到着したのは緑とかいうPAだった。

「なんもねえ……」

 とぼやく私。

「隣の淡路SAめっちゃ混んでたし」

「隣じゃねえだろ」

 ちょうど中間地点の神戸淡路鳴門自動車道緑PA(下り)が、たぶん唯一の休憩だった。

 なんだか遠くから、淡路島の玉葱を絶賛する歌がぼやあーんと聞こえてくるが、歌詞が全く入ってこない。

 そしてあいつはなぜ私よりトイレが遅いのか……。スモークがチェーンするわ。

「ごめんごめん」

「はよ。鍵はよ。クーラーはよ」

「はいはい」

 言いながら乗り込み――相変わらずたけえ――トラックは動き出す。

「気づかないフリしようかと思ったけど」

 彼はびくっとする。

「真っ直ぐ走って怖いから」

「……ごめんごめん」

「次から鍵は先に渡してってね」

「……」

「あと私が寝てるときおっぱい触ってたことも許してあげるから」

 また彼はびくっとして車体が左右に揺れる。

「なんだ、揺れない私のおっぱいに対する当てつけか」

「ちがうちがう」

「じゃあ真っ直ぐ走って」

「はい」

「今からはノータッチでよろしく」

「……はい。すみませんでした」

 彼は素直に謝った。欲望に普通に負けちゃうのに、こうやって素直に謝ると、なぜか許してしまうオーラというかフェロモンというのか、そう云うものが彼にはあるのだった。

 ふと、彼が。

「……道後温泉行きたいんだよね」

「は? 泊まるの?」

「うん。だって指示書がそうなってるし」

「道後で泊まれってなってないでしょ。足出るやんけ、自分の分だけでも」

「いや、出すし」

「……、……」

 一瞬考えるフリをする。

「あんたの目的ひとつでしょ?」

「……」

「泊まらず帰るよ」

「……は?」

「私が運転してもいいし」

「……いやいやいや」

「前向け前」

 こちらに苦笑いを向ける彼を窘める。

「え、じゃあなんで乗ったん?」

 ぎくり、と私は無意識に、僅かながら首を竦めてしまった。

「生理始まったとか?」

「……そういうこと」

 に、しておこう。

「……」

 ――きっと、彼はそうでないと気づいていて、敢えてそう訊いたのだ、と私は思う。

 察しのいい彼は、恐らく、私がこのトラックに便乗すると言ったとき、多少ムラムラしていたことはわかっていたのだろう――ここ二週間くらい、なーんだかムラムラムラムラ、欲求不満だった。

 ……よく考えてみると、元彼は下手クソだったけれど、週二、三はしていたし、基本彼だけ満足して先に寝て、私ばっかり不満足に終わってその後自分で慰める生(性)活をしていたから、不満は不満でも、禁欲とかそういうベクトルではなかった。が、今は、何もないところから慰める気にもならず、けれどふとしたときに腰の奥がきゅっとする瞬間があって、みたいな。……確かに、生理が近いのはあるかもしれない。

 ――そんなことを考えていたらまたうとうとして、


 起きたら、四国に着いていた。





 ……正確に云うなら、うとうとしている間に上陸をしていたかもしれないが、まあ、些事だ。

「この辺で待っててくれん? お客さんとこに荷物下ろしてくるけん」

 なぜ四国弁? ……四国弁ってあるのか?

「え、私も連れてけばよくね?」

「いやいやいや、お客さんとこにはちょっと」

「ここまで連れてきたのはどっちだ」

「……」

 彼は「ここまでついてきたのはどっちだ」とでも言いたげな表情だったが、何も言わなかった。

「……だって恥ずかしいし」

「は? あんたはあれ、可愛い彼女自慢したい派だと思ってたわ」

「……」

 今度は彼の表情からははっきりと読み取れなかったけれど、たぶん「それとこれとは話が違う」、みたいな感じだと思う。

「……というわけでごめん!」

 と言って彼はメインストリートで私を無理矢理下ろし(すったもんだあったが――おっぱいではない――割愛する)、私は呆然と立ち尽くす。

 やっと、陽が暮れた後は涼しくなるような気候になった。すっと通り抜けた風は、さらりと肌を撫でる。近くに中華料理店があるのか、ニンニクの香ばしい匂いが鼻を貫く――

 ぐう。ぐうぐう。

 いや、立ったまま寝たとかではなく――ただ、お腹が空いたのだ。

 ……よく考えたら、彼に朝トラックで拾われてから、寝てばかりで特に何も食べていなかった。寄ったPAにはなんにもなかったし。……ただあの食いしん坊が丸一日何も食べずに七時間走り続けられるわけないし。

 ……食い辛抱、とか。

「ふふふははははははは」

 つい吹き出してしまった――魔王みたいな哄笑になってしまったが。

 彼との日々は、私に癒しとサンドバッグを与えてくれている。

 たまたまそばを通ったサラリーマン風の男性が、私がひとりで笑っている姿にだいぶ引いていた――私はその姿を笑顔で見つめて、彼の腕を取って、

「二万でいいよ?」



 地図アプリによると、ここは松山県のようだった。

「愛媛県ね、愛媛県松山市」

「は?」

「……いや、いーけども」

 手近なニンニク臭い中華料理店で麻婆飯と麻婆麺のセットをナンパした彼に奢らせた後(注文したとき店員に「えっ?」って顔をされた)、近くのラブホにその彼を連れ込んだ。

「いいものもってるよ。あとは腰の動きがもっとスマートになればもっとよくなるよ」と私。

「……そりゃあどうも」

「童貞?」

「……いえ」

「彼女は?」

「……います、けど」

「じゃあ頑張ってね!」

「……ただその、全裸であぐらで煙草はどうかって思うよ」

「ぷわあああーっ、え? でもそれがいいんでしょ?」

「……」

 彼の下半身は正直だった。

「……そういえばさ、素朴な疑問なんだけど」と私。「私はおっぱい小さいじゃん? 正直どうなの? 大きいほうがいいのでは?」

 ――彼は笑顔で。

「おっぱいに貴賤なし」

「……ふーん……。あ、二回目は+二万ね」

「……」

 へたへたと座り込む彼の息子。

「すごい! ちゃんと言うこと聞くんだね!」

「……サーバルちゃんの声真似で言わないでくれるかい?」

 彼に感心しつつ既にシャワーを浴び終えていた私は、服を着て、

「んじゃねー」

「あ、連絡先――」

「もう交換しといたよ、勝手に。また松山来るときシングルだったら連絡するわー」

「ああ、俺も――」

 そんな感じで、ナンパは成功――満足度としては小成功な性交渉で。まだ彼は仕事中で電話に出なかったので、また元のメインストリート――地図によると松山県庁――もとい愛媛県庁がある国道十一号線に戻る。ぼちぼち高いビルの間に太い道路が走っていて、その中央を路面電車がごとごと進んでゆく。おちんちん電車とは誰が言ったのか――ふと。

 視界の右端に、その姿が。

 一瞬目を疑った――が、本物だった。

 私と同じ側の歩道を――きらきらと、輝くビルの光、自動車の前照灯、街頭――街をゆく人々の明るい笑顔――こちらに向かって、彼は歩いてきた。

「かっちゃん――」

 私の人生を、狂わせた人。

「……ん? うわーえとじゃん! 久しぶり!」

 流石というしかない、彼は一瞬で私が私であることに気づいた。

「……なんで――」

 大量の「なんで?」が脳内に浮かんで、

「――こんなところに?」

 結局、無難な質問を――まるで、セッターのトスミスで、ふわーんと返すだけになってしまったバレーのスリータッチ目のように、軽く渡すだけに留まった。

「あー、俺もあれからいろいろあったんだよ」

 あれから――いろいろ。

 短髪で彫りが深く、目は二重でクリっとしていて、キリッとした眉、高い鼻。下は白のチノパン、上はよれよれの水色系のネルシャツの前を開けて、その下は黒無地のTシャツ、分厚い胸板が透けて見えて、もう超エロい。

 両腕に、小学校低学年くらいの、彼そっくりの目くりくり髪さらさらの双子か年子の幼女たちが縋りついて彼を見上げている。それに加えて中学生ぐらいの女の子、高校生くらいの女の子、大学生くらいの女の子――いや私と同い年くらいか?

「ああ、こいつは嫁だよ」

「こいつ?」

「ごめんて」

 女の子たちは全員フェミニンな清純派ファッションで統一されていて、JC、JK、そして嫁はみな百五十センチメートルくらいでロリ可愛い。てか嫁何歳だよ――あ。

「思い出した?」

 かっちゃんが苦笑する――ああ、イケメンだ。

 かっちゃんは私の八歳上の従兄で――あの日も、そんな苦笑を浮かべていた。





 中学一年生の夏休みだった。

 正確な日付は記憶していないから、私の歳がいくつだったかは不明だ。

 外ではクマゼミが鳴いていたような気がするし、ヒグラシが泣いていたような気がする。

 ……めっちゃ〝鳥〟って入っているけど、虫の〝なく〟は「鳴」でいいのだろうか。

 まあいいや。

 宿題も粗方終わらせて、友達と遊ばない日は家でぼけっとテレビだったりドラマだったり映画だったり、甲子園だったりプロ野球だったりを見て、

『勿体ないからクーラー切りな』

 と、昨今のエアコンの進化した省エネ力を舐めてかかっている母親に、まるでゲームのコンセントを抜くかのように唐突かつ理不尽に電源を落とされて、さして広くもない庭が見える縁側に戻って、

『暑い』

 と呟いたり――〝うだるような暑さ〟というけれど、〝うだる〟は〝茹る〟と書くらしい――まさしく。

 縁側の向こう側は、むしろ太陽の表面なのではないかと思える程真っ白に輝いていた。

『眠そうだね』

 言いながら当時二十歳のかっちゃんは私の隣に座る。……今のかっちゃんと全く姿が変わらない――当時老け顔だったわけではなく、今あれから十五年以上経ったのに全く老けていないのだ。

 精悍な顔つき、零れる白い歯――

『ほい、すいか』

『あり』

 彼がもってきた三角形に切られたスイカを頬張りながら、

『……今なにしてんの?』

 と探りを入れる。

『特に何も?』

 いやいやいや。

『今日も暇だから帰って来ただけだし』

 毎年、夏休みに長期間遊びに来る彼。しかも高校を卒業してからそれが顕著になった――私の父親と、彼の母親が兄妹で、ここは彼の母親の実家でもあるわけだが。

『何でいつも暇なん?』

 大学生でもない筈なのに――仕事をしている気配が感じられない。期間工をしているにしても、もう少し雰囲気あっていい気がする。

『……気配遮断?』

『何それ?』

 ……噂がある。

 彼はイケメンで、ガタイも今どきの細マッチョで。実は(?)超絶倫で『理想のヒモ生活』をしているらしい――

『ん?』

 私の思考が口から漏れ出た言葉にもなっていない吐息に、彼は反応する。

『いや――あのさ』

 言葉がうまく出てこない。

『……ヒモだから帰って来たの?』

『ははは、面白いなーえとは! もてるでしょ?』

『……』

 私は無言で返す。

 確かに、学校で告白されることは多かった。特に多かったのは、所謂〝陰(イン)キャラ〟――あまり社交的でなく、普段女子どころか他の人間とあまり喋らない――それを多少コンプレックスに思っているのに、同じような性癖(元の意味)をもつ人間同士でつるむことを好み、趣味は大概スポーツなどではなくインドアなものだ――たぶん八割くらいがそうだった。……別に彼らを批判したり非難したりしたいわけではない。

 私が、特に分け隔てなく「おはよー」と挨拶をしたり、できそうな奴に「宿題見せて!」と言ったりしていたらそんな事態にいつの間にかなっていた。

『はは、男心弄んでるねー。絶対みんな、特に童貞力高い中学生なんてすぐ「この子は自分のこと好きなのかも」って思うからね』

 男って単純だからね、と言って笑う彼の歯並びは芸能人並みの美しさだった。

『……じゃあ、かっちゃんは?』

 ――私の体内に、太陽があるんじゃないかってくらい。

 ……私の胎内に、太陽があるんじゃないかってくらい――全身が熱くて。

 目が回りそうだった。

『……。ああ、そうだったのか』

 その台詞に、私は幻滅されてしまったのかと不安に思った。根拠もなく、けれど物凄く確信をもって――けれど。

『ありがとう。嬉しいよ』

 その日、その時間、誰もいない私の実家の、だだっ広い和室。

 少し湿った藺草いぐさの臭い。酸っぱいけど苦じゃない、二人の汗の臭い。ほんのりと血の香り、初めて嗅ぐ、水に溶かした洗剤みたいな――精液の臭い。


 初恋の、大好きなかっちゃんとの唐突な初体験は、脳内物質ドバドバの衝撃的快感で――その体験は、確実に私の人生を狂わせた。

 ――たまたま妊娠しなかったものの、従妹の中学生と生セックスをキメた成人男子のかっちゃんは、私の反対も虚しく全親戚から勘当を受け、完全に消息を絶った。


 私はあれから。


「あれから、かっちゃんがいなくなってから、最高のセックスを求めていろんなことをしたんだよ」

 大通りの周囲を行く人が〝セックス〟の部分でビクッと反応していたが、知ったことではない。

 長らくデリヘル嬢をしていたし、暇な休みは街に出てナンパしたり。あの初体験を越えるものはなかったし、これまでの彼氏は夜の生活に関してはダメダメだったし――

「そうか、悪かったな、えと」

 子どもたちと嫁を余所へやって、私の話を真剣に聴こうという姿勢の彼。少し、落ち着いた感のある彼。

「えと、まさかそこまでとは思わなかった、ごめんね。君が望むこと、できるだけ叶えるよ」

 私は目を見開く――見た目はかっちゃんだったけれど、中身は別人のようだった――

 あれから、十五年、か。

 私が十五年前に人生が変わったように、彼もこの十五年で変わったのかもしれない――いや。

 家庭をもったこの状態で、何を望むかわかりきっている中で、『私の望みを叶える』と云える彼はきっと、あの日からあまり変わっていない――

 変わっていない部分は残っている。

「かっちゃん」

 視界が歪んでいく――本当はあの日、妊娠していればよかったのにと、あれから何度思ったことだったろう。

「なに、えと?」

「私の望みは――」


 私の望みは。


 ひとなつの、こいだ。





 電話が鳴っている。

 重い瞼を開けると、淡い橙色の光が優しく目を慣らす。

 ――まるで、夢から覚めるように。

 あの最高の瞬間が、全て夢だったかのように。

 かっちゃんは、跡を濁さぬ白鳥のように、何の痕跡もなく、飛び去って行った。

 ……電話には、出たくなかった。

 本当に、現実へと帰っていかなければならなくなるから――行為の最中(さなか)も、ずっと鳴っていた。

 相手はわかりきっている――

「もしもし?」

『終わったよ、今どこ?』

 彼は、何も言わず、ただそれだけ訊ねてきた。

「ラブホ」と、意地悪したくなったけれど私は、

「どこかで待ち合わせしよ、ご飯食べたい」

『わかった。じゃあJRの松山駅まで来れる? ロータリー広いから』

 ……それはバスのロータリーだからではないのだろうか。

 結局。

 大型トラックで入れる飲食店なんて少なくとも街の中心部にはなく――というかこれで温泉とか何を考えていたのだろうか――いや、観光バスのスペースに停めれば或いは、まあ、いいか。

 帰りに、淡路ハイウェイオアシスの寿司屋で寿司食って――彼が帰りも、七時間ずっと運転して、他愛のない話をしながら、適当な場所で別れて、

「ありがと」

「うん」

「じゃあね」

「……もう会う気ない?」

「……」

 彼は、見た目はあれだが、かっちゃん並みに察しがいいのだ――だから、甘えてしまった。

 そして、言葉のチョイスが絶妙だ。『……もう会う気ない?』って。『会ってもいいよ』って言ってしまいそうやんけ。

「……またね」

 と、私は言い直して。

 彼もまた、「じゃあまた」と、トラックに乗り込んで――んががががと、二速の轟音を立てて走り去っていく――私はそれを、見えなくなるまで見つめていた。





 きっと、かっちゃんは、道後温泉の近くにあるという高級住宅地に住んでいるのだろう――と私は思っている。

 あの絶倫男はきっと本当にヒモだった時期はあったろうし、もしかしたら今の嫁は、子どもができなければ浮気ではない、を地で行くかっちゃんさえも許容してしまうほど寛容でかつ彼を愛しているのだろう。

 ――ここまで妄想。

「おはよー」

「おはよう」

 ――昼間が暇すぎて彼の――松ちゃんの会社でトラックに乗ることにしたのだった。

 行きにフォークリフトでぽいぽいぽーいと積んだら、配送先に行ってちょっとブリッ♡としてたら向こうの人が下ろしてくれて終了、である。楽勝。

「……本当に大型運転できたんだね」

「は? 嘘だと思ってたの?」

「いやいや」

 朝はめっきり寒くなって、季節は秋を飛び越えていったようだ。鼻を通る空気は白く澄んで、胎内まで浄化されていくような気がしてくる。

 私と同じ作業着とは思えない、三倍くらい横に伸びたそれを、けれど意外に着こなしている彼が言いながら、アンパンマンみたいな顔をほころばせる。パン粉でも落ちてきそうである。

「小麦粉でしょ」

 読心された?!

「口に出てたよ」

「口に出して!」

 遠巻きに見ていた周囲の同僚が一斉にビクッとしたのがわかった。

 ……やはり、二週間の教育期間中に、横乗りしていたバツ1の上司を食ったのは既に噂になっているらしい。……かっちゃんと会った後、もう一生しなくてもいい! と思ったのも束の間だった。

「……えとは結婚しないの?」

「……養ってくれる?」

「いやいやいや」

 彼は苦笑を浮かべ、

「相手は誰だっているでしょ?」

「いやー、肉体カラダの相性のいい人が中々いないんだよねーあんた含め」

「……」

 周囲の視線が、更に痛くなった気がした。

「……じゃ、行きますか」と彼。

「そんじゃ。まー、たぶんここで顔合わせるのはまた来週の月曜きょうだろうけど」

「だろうね。今日一人になって初日でしょ? お気をつけて」

「何それ前フリ?」

「そうそう――」

 言いながら二人、右の拳同士を軽くぶつける。

 ――これが私の、一夏の恋の思い出だ。

 人懐っこい松との関係は、まあ、なんとなく続いている――彼とはしないけど。

 だからこそ彼とは、この何でもない――恋でもないこの関係が、続いているのかもしれなかった。

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