抑留

@kuratensuke

第1話





抑留




十津川 会津









それは寡黙という一言であった。何もしゃべらない、下手をすると一時間でもそうしている可能性があった。炬燵の前に座る叔父である。

小さい頃の私はそういう叔父が嫌だった。怖くも感じた。

偶に、「飯」、「寝っぺ」、「風呂湧いたか」、「今後ろ、どうだ」、

数をあげても思い出す言葉はそんな程度である。二年前から大腸ガンを患っている、意識も少ししかない状態である。

仕方なく、今はこうしてベッドで横たわるのみである、半年前に長く連れ添った叔母を亡くした。

しかし、本人は知らないのではないかという、従兄の話であった。

抑留生活がそうかえたのかとも思う、爺さんも寡黙の人であったが、辛さを忘れる事が出来ないでいるからだ、と、知ったのはだいぶ後になってからの事だった。









ソ連では一九二〇年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力を補う側面もあった。

スターリン体制下の一九三〇年代以降は強制収容所ラーゲリーの数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。

初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海、バルト海運河装設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では一九三二年から一九四一年にかけての一〇年間で三万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い一九三四年には囚人の10.56%が死亡した。

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でチャーチルが、炭鉱労働者不足を嘆いた際に、

「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、

四万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた。

ヤルタ会談では、かつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、

賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された。

この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなったのだ。

爺さんたちは満蒙開拓団として、戦争以前から日本を出国していた。

大東亜共和圏の創設と言う、大きな野望の一環として、欧米列強の植民地政策に負けまいと行ったのだ。

だが、しかし、欧米列強は日本だけはアジア人というレッテルを張ったのか、面白く思わなかった。そのしわ寄せが、国連脱退の形をとる事になる。

そして、松岡洋右の有名な国連脱退の演説につながるのである。世界大戦の幕が開く。

背中が寒さで凍りつくと言う、極寒の満州の冬は、命の尊さを却って気づかせる。

「背中の汗が凍ってへばりついて、いてええ」

一人の労働者が言った。

「構う事ねえ、働け、そうすりゃ汗が出て取れっちゃう」爺さんは言った。

笑いながら、言うと、固まって戻りが悪いと言うのか、頬の辺りがパリパリと音がするように感じた。

と、直ぐに猛吹雪で音と共にかき消されてしまうのである。

辺りは真っ白の銀世界である、一歩進むにも容易ではない。周りに分かれて作業をしていると誰かがはぐれて吹雪の後に、冷凍の死体として表れた。

下手をすると夏が来るまで解らない時もあるのだ。それは匂いと共に知らせて来た。

強烈な腐敗臭が立ちこめないと発見できなかった、氷の世界は匂いも消し去る。


ここでの作業は危険なのでなるべく列を作りながら、順番に確認できるよう土を掘る。しかし、それも凍土に歯を立てようとするのだが歯が立たず、鶴嘴の方が、弾かれる勢いであった。

「みんな、昼飯だっぺ、休もうら」

監督官の爺さんは言う、営林省の役人として随率して三年が経った。

「美っちゃんが、風邪引いたんだっぺ、おらんちの母ちゃんがミカンを持ってったあ、食べさせて良くなれ」

 仲のいい一人が、爺さんの一番下の娘、美津子の様態を気使ってくれた。

「源ちゃん、なんだってまあ、ありがとね、ほんに、ほんにい」

飛び交う言葉は、東北弁が多い、それもその筈で寒さに強いと言う事と、この開拓団は東北の食い詰めの人たちが多かった。

二男や三男が多く、この時代も長男は、土地も田畑も多かれ少なかれ貰う決まりだが、二番目三番目となると分け与えるものは無かったのだ。

因って都会に出るか、こうして極寒の地にやって来ては仕事をする。

都会派は、学がなければならない、雇われるにも苦労を要した。

北は北海道、南は茨城当たり迄の寒さに強いと言われる人間が集まってきている。

言葉は多少違うものの、ズーズー弁はズーズー弁なので何とか会話は通じた。

特に津軽弁を除いては通じるのである。津軽弁は何を言っているのか東北人でも解らないと言う。

「へベれけ、へベれば…」聞いたことはあるがさっぱりであったのを覚えている。

これまた南に下ればまた分からなくなる。

役所時代の先輩が、奄美大島の出身の人がいたが、田舎の言葉をその地方の人と話しているのを聞いた時、御経を聞いているようにしか聞こえなかったのを覚えている。

それに、東北は東北人に共通する寒さに対しての一体感が、自ずと培われているので優しく、他人思いが多いのもこの満州の極寒の地では助けになったのである。

「なんだってまあ、この間おらんちの息子の風邪ひいたときなんざ、タノさん、温けい、鳥のだしがらスープ作ってくれたもの、難じょねえ、食べさせてけれ」

「ありがとない」

と、二人は凍ったおにぎりをほうばるのだった。







ソ連は一九二九年のジュネーブ条約に加わっていなかったため、一九三一年以降独自規定として戦事中の捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降、獲得した各国人捕虜は、三八九万九三九七人におよび、

一九四九年一月一日の段階で五六万九一一五人が死亡し、五四万二五七六人が未帰還のまま抑留されている。

一九四五年、満蒙開拓団の待遇も一変した。

そもそも、爺さんたちが率いる満蒙開拓団とは、一九三一年(昭和六年)に起きた満州事変から一九四五年(昭和二〇年)の日本の太平洋戦争敗戦時に至るまで、いわゆる旧「満州国」(中国東北部)・内モンゴル地区に、国策として送り込まれた入植者約二七万人のことをいう。

満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を移民により救済すると唱える加藤寛治らと屯田兵移民による満州国維持と対ソ戦、兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足した。

所謂棄民政策なのであった。国民を税の対象でもなくなると捨ててしまう、これまでも暑いのに強い鹿児島九州地方の人たちは、ブラジルなどに捨てて来たし、寒いのはこの様に寒い地方に捨てる。

政策の一部に非人道性が満ちていた、民度が低いのは今に始まった事ではなく、日本本来の島国独自の狭窄社会が生む、村八分や、近親相姦性からくる、忌避、タブーの類に属して根を持つように考えられる。

一九三六年(昭和一一年)までの五年間の「試験的移民期」では年平均三千人の移民を送り出した。

しかし、同年、二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により、高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を7大国策事業の国防の充実に位置づけた。

一、 国防の充実

二、 教育の刷新改善

三、 中央・地方を通じる税制の整備

四、 国民生活の安定

(イ)災害防除対策、

(ロ)保護施設の拡大、

(ハ)農漁村経済の更生振興及び中小商工業の振興

五、 産業の統制

(イ)電力の統制強化、

(ロ)液体燃料及び鉄鋼の自給、

(ハ)繊維資源の確保、

(ニ)貿易の助長及び統制、

(ホ)航空及び海運事業の振興、

(ヘ)邦人の海外発展援助

六、 対満重要国策の確立、移民政策(二〇年百万戸送出計画)及び投資の助長等

七、 行政機構の整備改善

同年年末には、先に関東軍作成の「満州農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」策定した。その後の一九三七年(昭和十二年)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)の発足、一九三八年(昭和十三年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、一九三九年(昭和十四年)には日本と満州両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた。

一九三七年(昭和十二年)から一九四一年(昭和十六年)までの五年間は「本格的移民期」にあたり年平均送出数は、三五千人にのぼる。

日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し、農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者が激減したが、国策としての送出計画は変更されなかった。  


国は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした。

補助金による分村開拓団・分郷開拓団の編成、義勇軍の義勇軍開拓団への編入などである。

それでも、予定入植戸数(一集団の移民規模;二百から三百戸)に達しない「虫食い団」が続出した。

「移民崩壊期」である。一九四〇年(昭和十五年)には、同和地区からも開拓団が編成され、一九四一年(昭和十六年)からは統制経済政策により失業した都市勤労者からも開拓団を編成した。

結局、青少年義勇軍を含めると約三十二万人が移住したことになる。

開拓民が入植した土地はその六割が漢人や朝鮮人の耕作していた既耕地を買収した農地であり、開拓地と言えない土地も少なくなかった。

太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増えるようになり、特に一九四五年七月の「根こそぎ動員」では、約四万七千人が招集された。

同年八月九日ソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した。

ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約二十七万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者四万七千人を除くと開拓団員の実数は二十二万三千人、その大半が老人、女性、子供であった。

男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約八万人が死亡した。

主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である。

敗戦時に旧満州にいた日本人は約百五十五万人といわれるが、その死者二十万人の四割を開拓団員が占める。

自決や殺害の危機を免れ辛うじて牡丹江やハルピンに辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿が目立った。

運よく貨車を乗り継いで、長春や瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した。

孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった。

満州に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて二十四万五千人にのぼり、このうち上述のように八万人を開拓団員が占める。

満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、沖縄戦を凌ぐ。生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南米への海外移民になった者もいた。

その他に約一万人の残留孤児、残留婦人が存在する。

この帰還は、一九七二年(昭和四十七年)の日中国交正常化から二十一世紀まで続く現代的な問題である。

開拓団員と義勇隊員併せて三万七千人の移民を送り出した長野県内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある。

同記念館は、二〇一四年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った。

黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが、

「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている。

これらの捕虜の多くは、内務省人民移民部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。

特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラードの決戦での捕虜六万人のうち、帰還できたのはわずか五千人であった。

第二次世界大戦末期一九四五年八月九日未明、ソ連は日本に対して日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する一七四万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)

八月十日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。

日本は、八月十四日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は、八月十六日には日本領南樺太に、八月十八日千島列島にへも、侵攻して占領した。

樺太では直後に、千島の占守島では八月二十二日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連・アメリカ、イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。

当時非公開であったヤルタ秘密協定では主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定で、一九四四年十二月十四日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。

ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。

この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後二ヶ月または三ヶ月を経てソ連が対日参戦することが取り決められた。

アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の一九四一年十二月八日にソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている。

このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた。

しかし、その十日後にはスターリンは、イギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。

スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは、一九四三年十月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して、

「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」

と、述べたことをハルやスターリンの通訳が証言している。

ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった。

ドイツが無条件降伏した一九四五年五月八日の約三ヵ月後の八月九日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、千島列島等を占領した。

しかし、ソ連参戦の翌日(一九四五年八月十日)に日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告したため、戦争末期(九月二日の降伏文書調印まで)のきわめて短期間のソ連の戦果に対して、日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。

なお、一九五六年に共和党アイゼンハワー政権は、

「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出している。 


また、アメリカ合衆国上院は、一九五一年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において、

「この承認は合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている。

ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては、旅順の租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた。

日本がポツダム宣言を受諾したのち、八月十六日には大本営から、即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。

八月十七日に派遣された皇族竹田宮恒徳が、新京に到着し、八月十八日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官 山田乙三大将と、ソ連極東軍司令官アレキサンドル・バレフスキー元帥は、八月十九日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、八月二十六日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。

満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。

日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。

また捕虜の扱いについては一切言及されなかった。

スターリンは八月十六日には日本人を捕虜として用いない、という命令を内務人ラベレンチー・ベリヤに下していたが、八月二十三日にはこれを翻し、

「国家防衛委員会決定 No九八九八」に基づき、

日本軍捕虜五十万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。

八月二十六日に関東軍総司令部は、

「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次、内地に帰還させてほしい。

帰還までは極力、貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」

という内容の

「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。

この報告書は関東軍参謀・草地貞五の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦 彦三郎の決定を受けて作成し、ソ連側に送付したものだという。

また、同日には、

「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」

ことを記した。

「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。

ただし、これを作成したという大本営参謀・朝枝繁春は、この文書が偽造されたものであると主張している。

なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会会長・斉藤六郎、近代史が専門のノンフィクション作家・保坂正康によって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。

またこの交渉に同行した瀬島龍三は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している。


八月十六日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。

理由は、

「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。

しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を八月十八日に送った。

このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、

八月二十三日に決定された「国家防衛委員会決定 No.九八九八」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい。]

占領地域の日本軍は、ソ連軍によって八月下旬までに武装解除された。

この際多数の死傷者が出たという。

また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。

日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去し、ソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。

九月五日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。

彼らは、日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を千名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。

行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。

また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び捕虜を貨車に乗せたという。

抑留された捕虜の総数は、作業大隊が五百七十あったため、当初は総数五十七万五千名が連行されたと考えられたが、六十五万人というのが定説である。

一説には七十万人近くが移送されたと言われ、最高数としては二百万人以上との説がある。

モスクワのロシア国立軍事公文書館には約七十六万人分に相当する量の資料が収蔵されている。









爺さんは広い原野、シベリアの原野で自分の子を殺した。二人も殺した。足手まといになった子供はみんな殺されたのだ。

「子供は要らない」ロシアの兵隊は爺さんに注げた。そして少し、微笑んだのを爺さんは見ていた。

「……」爺さんは意味が判らなかった。

まさかという気持ちがあった、人種は違えどまさか、

「どう言う事なのか?」もう一度聞いた。

「子供殺しなさい、足手まとい、要らない」今度は確実に、口元が緩み笑った。

「ああっ……」声にならない嗚咽が喉を付く、

「あなた、えらい人、あなたから皆に言いなさい」

片言の日本語でそう言って、彼らは笑いながら去って行ったのだ。

ハバロフスク忘れもしない、叔母たちが死んだ、親に殺された場所。

うちの母は、その妹たちの最後の言葉を聞いた。

「姉ちゃん、大きいから死ななくていいね、みっちゃん、三っつ、やから死ななイカン、痛くしないで殺してほしい……」

死が解っているのか、否か、判らないままに美津子の……、張り裂ける胸の内を、涙で堪えて口をふさぐ、美津子の目から涙がこぼれた。だんだん弱くなる呼吸の中で楽しい家族の団欒の声が聞こえた、そうして夢見るように美津子は逝った。

「美津子お…」ばあさんは三日三晩、亡骸を抱いて寝たらしい。

美津子と一歳にもならない赤子であった。

赤ちゃんは、濡れ雑巾を顔にかけた。中国人に売るという選択もあったと言う、しかし、爺さんは役人であるから、それは出来なかった。

「おんぎゃ、おんぎゃ」次第に声は小さくなる、身悶えしながら、家族は見守った。

次第に動かなくなる手と足を家族で固唾を飲んで見守ったのだ。

婆さんの手は、あまりに固く結んだから手のひらから血が出ていたのだ。

他の母親には、川に身を投げて自らの命を絶つものも居た。あまりにも自分の子の死に耐えられなくなっての行状である。

それでもばあさんは耐えた、他の子たちがいる、この子たちに何としても日本の地を踏ませるのだ、そう強く思ったという。そうしなければ、そう思わなければ生きてはいけない、このシベリアの地ではそういう意志でもなければ簡単に心など凍ってしまう。

却って美津子と赤子の死は、生きる力を与えた、と、言った。

川に流れた美津子の顔が、何故だか笑っているようだった、最後に夢見た家族の団欒がそうさせたのか、わからない。愛くるしい白い顔のまま美津子と赤子は流れて行った。

おふくろは後年、俺に言った、

「今でも美津子が笑いかけて来るんだわ、手足を元気良く動かす赤ちゃんと一緒にね」

一生忘れられないと言う。美津子が好きだった砂糖菓子の、赤い頬っぺたにくっ付いた甘い匂いが忘れられないと言う。

何度泣いても消えない記憶であった。

爺さんは九十六で死んだ、婆さんは九十三歳、思えば激烈な人生を背負った割には長生きだと思う。

美津子叔母さんの墓と赤ちゃんであった名も無いおばさんの墓は、形見を入れて爺さんや婆さんと親戚の会津田島の寺で眠っている。

この親戚の寺は小さい時から遊んだ思い出深いところだ。

境内では座禅を組まされた、足が痛くなると従兄の方に倒れかけたりする。

「ゴツン」叔父さんの容赦ない法棒が飛ぶ。婆さんの下の妹の旦那さんだ。

 横で笑った、一つ下の従兄の洋二も、又殴られた。

こうして座禅を組んだり、習字を楽しんだりして、お堂で遊んだ。夜にはション便をもらさんばかりの怖さが在って、怖い昔の謂れを、この寺の謂れを聞かされると泣けてくるのが判った。

もう一人のこましゃくれた同い年の従兄も、一番上の寡黙な叔父さんの娘だが、俺のチンチンにしか興味がないとばかり思っていた。

が、泣いてトイレに着いてきてくれと言った。面白がってトイレの戸を閉めたままにしていると、死ぬほどの声をあげて叫んだ。

何時も上からデカイ釈迦像が睨み付けている、こんな思い出があった。

謂れを少し話しておこう、この辺りは、実際にこの寺には東北藤原の墓石があったのだ。中尊寺の三代続いた藤原氏の流れを受けた者たちがこの田島にも居て、都落ちを余儀なくされて、流れ着いた言わば食いつめ貴族なのである。

京の都で華やかに暮らす貴族階級とは違い、少しレベルが下がる。

因って豪族の力を健いで傘に取り、因続関係などを結ぶと村々から年貢の様な、徴税を侍り、働かずして暮らす事ばかりであったのだ。

 この様にして増える一方の出来の悪い貴族たちを、食わせねばならない農民はある日一揆をおこした。

豪族と姻戚を結んでいる貴族たちは、豪族に助けを借りて、農民を蹴散らかし、多数の命を奪った。

この際、卑怯にも人質を取って多数の子供の命を殺めた貴族がこの山寺の墓にある貴族だと言う事らしいのだ。

住職である叔父さんは子供たちに境内でろうそくの明かり一つでこう話す、

「それで夜な夜な、農民たちの亡霊たちが、おらの子何処だ、返してけれ」

と来ると言うのだ。

藤原氏の墓の前に来ると墓石にしがみついて、泣き崩れ、泣きついて、

「おらの子返せ、おらの子返せ」と言う。

従兄などは夜な夜な声を聞いていると言うのだ、俺は聞いた事などもちろん無い。

叔父さん等は檀家の寄り合いの帰りに、酔ってはいたが、その農民たちの親の列に墓の辺りで出くわしたと言うからたまげたものだ。

こうした前置きが在るので、びっくりするほどトイレで泣かせるのには、

「おらの子返せ、おらの子返せ」と、御経を読むようにBGMを流したからに他ならない。

「女の子を泣かすな」と親父などに拳骨を貰うのだが、それを見ていて横で嬉しそうに笑う従兄が憎たらしくて憎たらしくて、何度も繰り返してやった。

熊野から夏に帰るので、当然会津とはいえ暑い。境内の裏に回ると山寺と言うだけあって、池が在り、山の斜面がずっと続いていた。

この季節、爺さんが生きている時には、山百合を掘りに出かけた。

何個か山百合を掘り出して来る、所謂精進料理と言うわけだ。

ここいらの山百合は恐ろしく背が高い、恐らく小さいながらに見上げるに二mは優に超していただろう。

根は大きくて、料理して食うと甘くて甘くて、芋を食ってるようだった。

更に食い物で言うと、爺ちゃんの友達の家が雄大な磐梯山の麓にあって土がやけに肥えていたのか、赤かったのを覚えている。

そこで、米を貰い、獲れたてのトウモロコシをおやつに食う、上手くて死にそうだったのを覚えている。今なら入れ歯なのであの時のように豪快には食えないなと思い出す。

又抑留時代の聞いた話を思い出した。

酷い話だ、死んだ長男の嫁、叔父さんの嫁さん、つまり従兄の母親。

妹さんがいて、看護婦になった。戦争の末期になって赤紙が来て、駆りだされた先がシベリアの軍人病院だったらしい。

行ったなり帰って来ないそのおばさんの消息が判ったのは最近である。

或る知り合いの人から、いきなり聞いた話であった。

その人物はもう高齢で、当然のことながら、もう老い先短くなってきたから如何しても話したい事が在ると言う。

そのおばさんの妹さんの消息であった。

実は目の前でその人は妹さんがロシア兵に拉致されていくのを見ていたらしい。

終戦間際にロシア兵は日本の兵隊をよそに戦闘能力の無い事をいいことに好きな放題の事をしたらしい。輪姦であった。

若くてかわいい日本人の看護婦を見つけては、追いまわし好きなように裸にして恥辱の限りを尽くしたらしい。

叔母さんはその知り合いが戦後、長らく言葉に出来なかった理由も判った。

憎くて嫌みの一つも言いたかったかもしれない、

「何故、妹を助けられなかったのか、兵隊さんも居たんでしょうに……」

が、叔母さんは聞いているうちにもうこれ以上聞きたくなくなったと言う。

あまりにも酷い内容であったからだ。

止めようものなら自分たちも射殺される恐れがあった。

実際、数名の敗戦後の日本の兵隊は、銃も持たず、ロシア兵に食らいついたらしい。

が、直ぐに機関銃の餌食になった。

「そのままその時、死んだ人の方が幸せだったかもしれない」とその人は言った。

その後の酷い光景を見ずに済んだからだ。肩を寄せ合い日本人は、ロシア兵の好き放題の残虐行為を見ていた。泣きながら、震えながら、怒りで震えた者もいる。恐れおののく者もいる。地獄を見ていたのだった。叔母さんは泣き叫んだ。

「助けてください」

何度も何度も……。

時は無情に過ぎて行く、叔母さんは死んで、ロシア兵達はまるで氷のような笑い声を残して満足そうに去った。残された日本兵は落武者のように生気を亡くして、看護婦の婦長さん以下数名の人たちは泣きじゃくったと言う。

だが、その人とて死の床にあるので言っておかねばならないと思ったのだろう。

助けて下さいという彼女に馬乗りになって何人もの男たちが欲望の限りを尽くしたのだった。その中には若い兵士で止める者も居たらしい、しかし、古参の兵士に殴られて殺されたのだ。

その叔母さんには許嫁がいた。田島地方で農業をする好青年だったと聞く。

もちろん処女であったし、初めてだった。

最後は、ロシア兵たちはその叔母さんの股間に木を差しこんで楽しんだらしい。

叔母さんは死んでしまい、裸のまま便所に投げ捨てられていたのだ。

姉であるおばさんはその事を聞いたが、それから人と喋らなくなった。

妹の末路をあまりにも案じてしまい、うつ病になってしまう。

漸く心の扉を開けたのは抑留から帰って来た叔父であったのだが、呪いは続いた。

その叔母から、生まれ出た、俺の従兄の男の方は今も重いうつ病に悩まされている。

姉の方は元気なのだが弟の方はどうもいけない。

あいつは今や死にかけた親父と、元気な姉としか身内はいない。家はある。

一人で住むには広すぎる家はある。だがどうしてこれから生きて行くのか、親戚としては心配である。

まあ、元気な姉がいる。彼女は社長夫人になっている。東北電力の下請けを五十年間やっている社長の嫁さんになった。羽振りもよさそうで、心配はなさそうである。

 しかし、その便所にほうられた汚れたおばさんを拾い上げて体を洗い、仏さんとして奇麗にしてくれたのもその最後に事実を語った人物であったのだ。止めてくれたロシア人の兵士も仏さんとして丁重に葬ったと言う、その場所には、アカシアの苗を植えて来たと言った。

長く付き合ってはいたものの妹の事を言わなかったその人物に今更に、感謝の意を表したいものだ。

戦争という狂気は人を狂わせ酷いことを平気でさせる。そういうものであろう。

しかし、そんな事を聞けば聞くほどロシア人が憎くなるのも必然だった。

この叔母さん、小さくして、生まれたばかりにして親の手によって殺されねばならなかった叔母さん達、彼女たちの事を想うと、ロシア人は許せない。

足手まといや、邪魔な存在の子供たちを殺させたのは、日本陸軍ではあるが、それを強要せざる負えなくしたのもロシア兵、腹が立つという限界を超えているのだ。

俺は戦後のバブル景気の際に、日本に働き手として来ていたウズベキスタンの友人がいた。

だが彼を警察に売ったのは何を隠そうこの私であったのだ。

彼は日本で弾の打った後にできる焼きょをペンダントとして日本で発売するつもりでいた。

それは日本では刑事罰に当たる事を知っていた私は黙って見過ごしていた。

三宮の水上警察に彼が捕まるのに時間はそれほどは掛からなかった。

様あ見ろと思い、心の中で小躍りしたものだった。

それからロシアンパブに勤めていた女どもにひどい性的ないたずらをしたものである。

そんな事をしても心の傷自体はあまり癒されもしない、せめて叔母さんの敵を打つつもりでやったのだが、相手も人間で可哀想でとても残虐にはなれなかった。

やはり戦争と言う狂気がなければ無理なのかもしれないと考えたものだ。

叔父さんには、まだ言えない過去が在る。

叔父さんが抑留されて、親たち兄弟たちは日本に帰れたものの、叔父さんだけかなりの期間抑留状態であった。

少なくとも五年近くは無駄にロシア、シベリアに抑留されていたのだ。

爺さんは煙草も止めて、兎に角、長男を返してほしいと当局に訴えた。

その当時のロシアは、今の北朝鮮の様なものだったのだろう。全然願いは聞いてくれなかった。

漸く帰って来れたが、ロシアの抑留時代に通っていたクートベ、ロシア共産党大学に通っていた事から、帰ってきても仕事が無かったのだ。

ロシアのスパイ呼ばわりが続いた。

漸く探したのが、便所汲み取りの下水道局の仕事だった。

それでも叔父さんは、定年まで五十五歳まで勤めあげて退官したのだ。それからというもの好きなパチンコを打っては気楽に過ごしていた。

ヘビイースモーカーの叔父さんは、ピースを一日四十本吸った。

血圧が悪いと言う事はあったが気にはしてなかった。

「どうせ辞めても変わんねえ」会津弁でいなすだけで気にはしていない。

俺などは少しばかり拝借したし、黙ってワンカートンおばちゃんから貰ったりした。

血圧は百七十を超え、恐ろしい世界に突入しても意に介してはいなかった。

八十九歳になって寝た切りになったが、別にいいんだろう。

ただこれだけは気になるから死ねないのではないのか。

勿体を付ける気はないが、つまり叔父さんは向こうで結婚していたのだ。

子供もいるのだ。如何だろう俺たちと一緒ぐらいか。

六十前の女、五十五ぐらいの男、ロシア人の女性との間に出来ているのだ。

その元妻はとうに亡くなって、子供たちはその妻の兄夫婦が子が無いから預かり受けて、そこで育ったらしいのだ。

叔父さんは、そのロシア人の叔母さんが泣いて留めるのを振り切って日本に帰って来た。

相当な覚悟が要った。

しかし、叔父さんにしてみると年老いた親をほってはおけない。

それにロシア人はよく思えない両親が要る。色々悩んでは出した結論がこの様な事なのだろう。

叔父さんは日本人にしては身長が高く、ロシア人の中に入っても見劣りはしない。百八十近くあった。

ロシアのクートベで二人は知り合い、結婚したのであった。

クートベに行くと強制労働は免除される。叔父さんは頭がいい事を利用して大学生として大学院に相当するところまで進んだ。研究所に勤める頃には、日本に帰るのを辞めようかとも思ったが、両親の事を考えると出来なかったという。

ナターシャと言うロシア人の叔父さんの嫁は、高校の先生をしながら家計を助けたと言う。

写真で見る限り細面の美人だ。金髪で目が青い。その白黒の写真からは、何故かロシア人への憎しみは消えている。何故だか解らない。

叔父さんは性欲に負けて、この女を、憎たらしい敵の様な女を抱いたのか。

俺は自問自答した。今死にかけで横たわる叔父を少し蹴ってやりたいと思う。

しかし、人間漸う考えれば、アフリカの誰かがイヴで誰かがアダム、もともと、チンパンジー、ボノボ類が先祖で人間は、みな元祖は一つと考えれば、考えたくない、考える。

と、暫らく葛藤してみると、

「なんか考えテンの?のりちゃん」

 あの、従兄の声がした。

「いや、……」

 腹の内を見られる気がした。

「ご飯食べに行く?」

 聞けば、伝説の美由紀食堂のラーメンを御馳走してくれると言う。

「おらの後輩だからー、ゆうこときくだ」

 聞けば、小さい時から会津に行けば食っていた、あの大好きな美由紀食堂のラーメンが食える。

「ほんまか?」

後輩がラーメン屋だったのは初耳だが、兎に角嬉しい。

このラーメンは、言えば喜多方系であろう。

太麺で、もっちりしている。だしはカツオ系だが、コクは深く澄んでいる。

抜けがいいので必ず、獣の類の出汁はないだろう。柑橘類の抜けが在る様に思えるのだ。

兎に角、従兄の買ったばかりのポルシェで出かけた。

やけにあけ放たれたオープンカーの風がきつい、見せびらかしが本望の様な気がしてならない。

まあ、いいか、これもラーメンを食う為だと諦めた。

やけに老舗の菓子屋に寄ったり、買い物をして、寄り道が多い。

漸うラーメン屋に着いたのは夕方を過ぎて、六時過ぎになっていた。



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抑留 @kuratensuke

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