五章 ⑪黒歴史、解放
とりあえず、地獄へ強制送還は回避した。
が、俺がほとんど絶体絶命なのは変わらない。全身にへばりついた蛆が果てしなく重いのだ。
そのとき手に馴染みのある感触が当たった。レオンだ。手のひらの蛆を尻尾で払ったレオンは、俺の手に何かを吐き出した。
霧吹き。
マジか……。
レオンの意図に気付いた俺は内心で嘆息していた。レオンは俺をじっと見つめている。まるで試すかのように。
ああ、わかったよ。今さらだ。この期に及んで何を恐れるというのか。
覚悟を決めた俺は、力の入らない手で苦労して霧吹きの首を外した。中身は見事なまでに満タンだ。
そして、俺はそれを一思いに頭からかぶった。
「っ、ぎゃあああぁぁぁああ………!!」
堪えたかったが、みっともない悲鳴が口から迸るのは抑えられなかった。
ベルゼブブが、追い詰められた女子高生三人が、一斉に何事かと俺を見る。
激痛と共に身体を覆っていた蛆が消えていく。溶けた蛆の混ざるドロドロとした聖水を滴らせ起き上がった俺は、ベルゼブブを睨んだ。
「……待てよ、ベルゼブブ。俺はまだ終わったわけじゃない」
「トドメを刺したはずだが、まだ帰還していなかったとはな……しぶとい奴だ」
ベルゼブブが腑に落ちない声で言う。
俺は手足を振ってヘドロを払った。地獄の瘴気に包まれ、食われた部分が急速に修復していく。
「ベルゼブブ、地獄の七君主なら、地獄の法くらい理解しているだろう? 百日なんて極端に短い契約は不当なものとみなされる。当然、契約者と生贄以外の魂を取ることも禁止だし、他の悪魔の対価を横取りするのもご法度だ」
「だから、何だ? 悪魔を辞める貴様には関係ないだろう?」
「そうだな。ただ、俺のもう一つの役目は最後に果たさせてもらうぜ」
手を前へ突き出した。
一度、深呼吸をすると、俺はボソボソと唱え始めた。
「――《判決、有罪(ギルティ)。奈落の封印を今、解除せん。咎人に鉄槌を下す為に、罪人を灰塵と帰す為に……》」
「何だ、そのむず痒い詠唱は……」
しっかり聞こえていた。ベルゼブブが呆れ返る。
うっせえ。唱えてる俺が一番恥ずかしいんだから黙っとけ! あああなんで昔の俺、こんなコテコテの呪文を得意げに作っちまったんだ……!
「《……我が求めに応じ、煉獄より顕現せよ、処刑人の永劫断罪刀(エターナルブレイド・オブ・ジャスティス)》ッ――!」
最後はもうやけくそ気味に叫ぶ。
辺りに眩い青白い光が満ちた。
レオンの口から、ずるりと剣の柄が現れる。それはひとりでに白銀の刀身を露わにし、俺の手へ収まった。
それは、不正者のみを屠る剣。
正義の俺が担う、断罪のための最終手段。
「感謝するぜ、ベルゼブブ。おまえが地獄の法に反してくれたおかげで、俺はこいつを使える」
身の丈ほどもある大振りの剣を手に、突進する。
強く踏み込むと、俺は振りかぶって剣を叩きつけた。
剣同士がぶつかり、キイィィンと音を立てる。赤い複眼に無数の俺が映り込んだ。
「……今さら武器を出すか、貴様……!?」
「これ、俺が有罪判定しないと出せないんだよ。だから、出しづらいんだ」
ベルゼブブを押し返し、斬りつける。刃がベルゼブブに触れたとき、バチバチッと紫電が走った。
くっと呻いた蠅が後退する。が、その動きは鈍い。さっきの一撃で麻痺しているのだ。
好機を逃さず、俺は攻撃に出る。
ベルゼブブの周囲を立ち回り、次々と斬線を刻んでいく。
その度に敵は痺れていき、次第に速度を失う。
俺に斬られるごとに、それは圧倒的な差となっていくのだ。
「アンドロマリウス……なんだ、貴様は……! 七君主の私を、追い詰める実力だと……? まさか、貴様……!」
愚鈍だ。
何かに気付いたらしいベルゼブブが、俺を捉えられないことを悟り、全身から無数の蠅を放った。耳障りな羽音でその台詞は途切れる。
漆黒の洪水のように襲いくる蠅の大群に、ふっと俺は笑った。
「七君主だろうが、不正を働いておいて、正義の俺に勝てると思うなよ。――《審判の刻は来たれり。殲滅せよ、絶対焦土(マッドネス・アルマゲドン)》!」
剣の先端を起点に、魔法円が展開する。
刹那、轟音と共に、辺りを真っ白に染める電撃が迸った。夥しい数の蠅が木っ端微塵に消える。遮るものが何もなくなった醜悪な巨体へ俺は迫り、
斬。
ベルゼブブの首を刎ね飛ばした。
羽音が止んだ。放物線を描いた蠅の頭部がごろり、とコンクリートに転がる。
「これにて、閉廷だ」
頭を失った蠅の胸、そこに刻まれた印章――心臓へ俺は剣を突き刺した。
パァン、と何かが壊れた音がした。
次いで、瘴気の奔流。
急に頭上から引力を感じた。
ぽっかりと漆黒の穴が天に開いている。ベルゼブブが帰るための地獄への門だった。
大量の蠅の死骸が吸い込まれていく。ベルゼブブの胴体も宙へ浮くと一緒に、剣を突き刺したままの俺も引っ張られ、
ま、ちょうどいいか。どうせ俺も帰らないといけないしな。
昇るままに任せていると、「真理須っ!」と呼ばれた。下を見る。
遠ざかる屋上で、紫が泣き出しそうな顔で俺を見つめていた。
「嫌だ、行かないで、真理須……! あんたがいなくなったら、わたしの護衛は誰がするのよ! あんたみたいに暇な悪魔じゃないと、わたしの護衛は務まらないんだから……!」
そんなこと言われても。
紫らしい言い草に思わず苦笑した俺に、少女は長い髪をはためかせ近付く。と、ノアがその腕を引いた。
「荊原さん、門の下へ行ったらダメです! 地獄へ飛ばされてしまいます!」
「早くフェンスに掴まれ。この爆風だと引き込まれるぞ!」
ノアと合戦峯に抱えられながらも、紫は俺から目を離さず叫んだ。
「わたし、絶対また、あんたのこと呼び出すから! それまで待ってて! 二十一世紀最大の魔術師のわたしなら、またすぐにあんたを呼び出してみせるんだから……!」
だったら、なんでそんな表情してんだよ。
ツッコむのを控え、俺はわずかに口角を持ち上げた。
「じゃあな、紫。――元気で」
俺を見つめる漆黒が見開かれ、揺れた。
「真理須っ――――!!」
夕闇を震わせる慟哭を耳に、俺は引き寄せられるまま地獄への門を潜り抜けた。
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