(三)

 翌朝、ファビオがホテルのラウンジで早くから私を待っていた。


「昨日はごちそうさまでした」

「いやいや、とてもおいしかったよ」

「気に入ってもらえてよかったです。さあ、日が高くなってしまうと猛烈に蒸し暑くなるので、もう出ましょう」

「ああ、そうだったな」


 ホテルから歩いて五分もかからない川沿いに黄色いプレジャーボートが停泊していて、ファビオくらいの年齢の青年が私の乗船を手助けしてくれた。


「すぐ近くでも蝶を見られる場所はあるんですが、どうしてもキタガワさんに見せたい場所があるので、三十分くらい時間をください」

「ははは。私はかまわんよ。モルフォを拝めるなら、どこでもいい」


 笑顔で頷いたファビオは、スペイン語で何やら青年と会話をして、すぐボートに乗り込んだ。


 ぬるく濁った水をかき分け、ボートが川をさかのぼる。エンジンのうなり音の合間に、鳥や動物の叫ぶ声が編み込まれる。豊かな水ともりもり溢れる緑、途絶えることのない生命の連鎖。どこまでも賑やかに思える光景は、川岸に点在していた住戸が姿を消すとともに恐怖に変わった。そこがあまりに巨大すぎて、私の居られる空間が失われるように感じるのだ。私たちは空間を支配し、そこを人間色に染めることで自らを支持しているが、実際のところ私たちの心を支えているのは同じ人に過ぎない。その事実を……どこまでも突きつけられて恐怖する。


 人間以外の生命体による猛烈な圧迫から逃れようとして、顔を空に向ける。川が生み出す莫大な水蒸気は、青空に自在に雲を作る。だが、乾季にはそれらがまとまった雨雲にはなりにくいらしい。神の手遊びのように雲は生まれ、浮かび、形を変え、握り潰されて消える。


「キタガワさん。そろそろ着きます」

「あ、ああ」


 首が痛くなるほど上空を見上げていたので、景色の変化に気づかなかった。空を突き上げるほど高い木々が伐り払われたあと、傷を塞ぐかのように出来上がった疎林。その間にはめ込まれるようにして、粗末な住戸がいくつか並んでいた。家のディテールがわかるところまでゆっくり森に近づいたボートは、使い古された木の渡し板で陸地とつながった。


「足元に気をつけてくださいね」


 整備されたトレッキングコースを予想していた私は、幾ばくかの怖じとともに、水をたっぷり含む大地に足を下ろした。


「ほら、あそこ」


 岸に上がって十メートルほど歩いたところでファビオが足を止め、頭上を指差した。


「あっ!」


 わざわざ探すまでもなかった。疎林を縫うようにして、金属色の青い輝きがいくつも行き交っている。


「すごい……な」

「アドニスモルフォ。大きな蝶ではないんです。でも、とても目を引きます」

「ああ。こらあ……自分の目で見ないと素晴らしさがわからん」


 立ち尽くしたままモルフォの飛翔をじっと目で追っていたら、ファビオではない男の声がして我に返った。


「キタガワさん、ですね。私はファビオの父でモリオといいます」


 ファビオと同じように流暢な日本語で話しかけてきたのは、粗末な衣服を着た中年の男。そして……彼は長瀬にとてもよく似ていた。


「北川敏博です。息子さんにはとてもお世話になっています」

「モルフォはご覧になりましたか?」

「はい。この世のものとは思えません。翔んでいる姿が神々しいです」

「それはよかった。ここは蝶の交差点と呼ばれる場所で、モルフォだけではなく多くの蝶を見ることができるのです」

「ほう!」

「ただ、私たちはここで普通の生活を営んでいます。観光で来た方に生活を乱されたくありません。ですので、蝶のことは他の方に言わないでくださいね」


 そうか。ファビオは、わざわざ私を実家に案内してくれたってことか。


「もちろんです。私は蝶のコレクターでも研究者でもありません。約束を果たすためにモルフォを見に来た、ただの老いぼれですから」

「約束……ですか?」


 モリオさんが顔を強張らせた。


「ええ。長瀬……ナガセハルオという私の学友と交わした、古い古い約束」


 突然モリオさんが私に抱きついて号泣し始めた。ああ……私も、こんな邂逅が待っているとは思わなかったよ。抱き返した私の耳元で、モリオさんがあえぎながら確かめる。


「父との約束を……覚えていてくれたんですね」

「いや。思い出した……違うな、思い出さされたんですよ。この写真にね」


 リュックのポケットを開け、中からあの写真を出す。若干色が褪せているものの、ずっと図鑑の間に挟まっていたから状態は悪くない。


「同じ写真が、あるんです」


 モリオさんが、私の手を引いて家の中に招き入れた。家の奥に小さな飾り棚があり、生活臭で満たされていた室内のそこだけが異質だった。すっかり色褪せてモノトーンになった写真が置かれていて、それは私の持っている写真と全く同じだった。


「そうか……長瀬は。ここで私が来るのをずっと待っていたと……いうことか」

「いいえ。父は、ここでモルフォと共に暮らす生き方に魅せられた。モルフォに掴まってしまったんです」


 モリオさんの本心から出た言葉か、それとも私を慰めるために言ったのかはわからない。だが、長瀬は日本に帰ることを最後まで望まなかったんだろう。帰れなかったのではなく、帰りたくなかったのだ。それは、紛れもなく事実だと思う。


 同じ写真でありながら、あまりにも彩度の違う二枚を並べ、少年の長瀬に話しかける。


「済まん、長瀬。約束は結局……半分しか果たせなかったよ」


◇ ◇ ◇


 ファビオに先導してもらって、森の中を歩く。


 叩きつけるような日照は、林内に入った途端に樹木に食いちぎられて散り散りになり、光の衣を剥ぎ取られた熱射の胴体だけがずしんとのしかかる。林内はもっと鬱蒼としているのかと思ったが、あれだけ上空を塞がれると林床に光が届かない。歩けないほど下草が繁茂するということにはならないんだろう。


 踏んでも音がしない湿った土を踏みしめ、枝葉が形作る日傘の破れ目を見渡す。


 きらり。きらり。

 蝶の交差点という言辞がこれほどふさわしい光景は、他にはあるまい。枝葉に食われぬ原始の光を下にいる私たちに届けようとするかのように、モルフォが鮮やかな光矢を幾度となく投げかける。


 目を細めてそれをじっと見つめていたら、ファビオに不思議がられた。


「キタガワさんは、写真を撮られないんですね」

「意味がないからね」

「意味がない……ですか?」

「そう。写真を撮っても、それは図鑑の写真と同じさ。紙の上の蝶にすぎない」

「ああ……なるほど」

「それにね」

「はい」


 強い鎮痛剤の入ったピルケースを懐から出し、目の前に掲げた。


「今、思い出を整理してるんだ。中途半端に約束を遺すと、生きている者を振り回してしまうからね。君のお父さんも、それですごく苦しんだと思う」


 モリオさんの流した涙を思い返す。あんな……苦い涙をここに置いていきたくはなかったな。


 そして。限界は突然やってきた。胸を強く押さえて顔をしかめた私を見て、ファビオが顔色を変えた。


「あの……」

「時間がないんだ。海外旅行どころか、病院から出ることすら止められたから」

「そ、それなのにどうしてここへ!?」


 残り少ない笑顔を絞り出して答える。


「ここへ来ることが、長瀬との約束だったからさ。だが『一緒に』は果たせなかった」


 立っていられなくなった。片膝をついて屈み、何度か大きく喘いで顔だけを上げる。


 樹冠を縫うようにして、二匹のモルフォが追いつ追われつ鮮やかな光矢を放ちながら飛び回っていた。あれは……どちらもオスだ。テリトリーを守ろうとして争っている。それゆえ、二匹が一匹に融合することは永遠にない。


「長瀬。こっちに居れば蝶は見られるがおまえに会えん。そっちに行けばおまえに会えるが蝶が見られん」


 モルフォの輝きを脳裏に刻みつけ、その向こうにいる少年の幻影に向かって手を振った。


「約束は。いつまでも半分しか果たせん……な」



【 了 】

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