(二)

 ファビオが予約してくれたのは、この街で一番評価の高いダイニングレストランで、多国籍風だがペルー料理もしっかり味わえるという。出来損ないの和食を出されて辟易せずに済みそうだ。多国籍料理や創作料理というお題目は不出来の言い訳としてよく使われるが、地元で評判のうまい店なら外れということはあるまい。

 ドレスコードはないようで、私とファビオ以外にも派手なアロハシャツを着たアメリカ人観光客の一団が何組か楽しそうに夕食を取っていた。店はまだ空いている。時間が早いので、本格的に予約客が来るのはこれからなんだろう。


 エアコンの効きが悪いとぶつくさ文句を言ってる老夫婦を見て、それならこんな暑いところにわざわざ来るなよと悪態をついていた若いバックパッカーが二人。我々から少し離れたところに陣取り、地図を開いてトレッキングの打ち合わせを始めた。

 私は、彼ら欧米人の旺盛なエネルギーを半ば羨みながら、牛肉と野菜を炒めたロモ・サルタードってやつをぽしぽしつまんでいた。ファビオは、若者らしくもっと腹にどんと落ち着くものを食べたかったようで、豚の臓物と豆を煮込んだブラジル料理、フェイジョアーダをうまそうに食べている。


「キタガワさん」

「ん?」


 私の食べるペースがゆっくりだったのを気にしたんだろう。ファビオが私の顔色を伺った。


「口に合いませんでしたか?」

「いや、おいしいよ。私はもともと少食だから、ゆっくり少しって感じなんだ」

「それならよかったです」


 ほっとして食べる作業に戻ったファビオに聞いてみる。


「なあ、ファビオさん」

「はい?」

「君の日本語は、こなせるというレベルじゃないね。とても流暢だ。どこで勉強したんだい?」

「あはは」


 照れ笑いしたファビオがすぐに種明かしをした。


「僕の祖父が日本人なんです」

「おお! 日系人だったのか」

「正確に言うと違いますけどね」

「は?」

「子供のできなかった両親が、孤児の僕を息子代わりに育ててくれたんです」

「ああ、そうか。君は養子ということだな」

「いえ、養子縁組の手続きを経ていないので里子ということになりますね。でも、僕にとっては両親も祖父も肉親と同じです」


 なるほどな。血はペルー人でありながら、魂に日本人が混ざっている。そんな感じなんだろう。


「なんにせよ、日本語とスペイン語の両方こなせるのは、わたしにとってはとてもありがたいよ。わたしはスペイン語も英語もさっぱりだからね」

「あはは」


 ファビオが次の料理を注文してすぐ、私の視線を絡め取った。


「あの、キタガワさん。一つ聞いていいですか?」

「なんだい?」

「なぜブラジルのマナウスでなく、ここイキトスを選んだのですか?」


 まあ、そう思うだろうな。ただチョウを見に行くというだけならマナウスの方がアクセスがいいし、大都市だから観光地としても洗練されている。でも、私の場合は目的が違うからね。


「そうだな。おいしい店を紹介してくれたから、ちょっと変わった話をしようか」

「え?」


 なぜイキトスを選んだのかという話の答えにはなっていない。だが、ファビオは私の話に興味を持ったようだ。目をきらきらさせて身を乗り出した。


「モルフォってのは熱帯の蝶だ。もちろん日本にはいない」

「そうですね」

「でも、その美しい姿を一度でも見てしまうと、虜になってしまうんだよ」

「そういうものなんですか」


 ここでは、モルフォチョウがとても珍しいということはないんだろう。日本でモンシロチョウを見るような感覚なのかもしれないな。


「いつも目の前にあれば、それがどんなに美しい存在でも色褪せる。どんな美女でも毎日見れば飽きるってのと同じようなもんだな」

「あはは」

「でも、手の届かないところにいるものは逆だ。それはどんどん美化される。他のものでは置き換えられなくなるんだよ」

「……へえー」


 カトラリーを置いて、手を膝の上に揃える。


「子供の頃見ていた世界の昆虫図鑑。そいつに載っていたモルフォチョウは、子供だった私と親友にとってかけがえのない宝物でね。図鑑の紙の上に張り付いてるやつはおもしろくない。いつか本物が飛んでいるところを一緒に見に行こう。そういう約束をしたのさ」

「いつ頃ですか?」

「私がまだ十歳になるかならないかの頃だな」

「子供の……約束ですね」

「そう。普通そんなものはすぐに忘れ去られる。忘れられたものは、もはや約束と呼べない」

「ええ」

「だが、そいつとの約束は、約束であり続けたんだ」

「どうしてですか?」


 ここにいる自分が不思議だなと思いつつ、ファビオの問いに答える。


「私が忘れても、そいつがずっと覚えていたからだよ。だから、半分。果たされても果たせなくても、約束ってのは半分にしかならんね」

「約束の半分……ですか」

「そう。そいつは私を置いて、一人で」


 どこかにいるんだろう? 長瀬。

 店内をぐるりと見渡し、最後にファビオに視線を戻す。


「ここに……来たんだ。約束を半分だけ果たすためにね」


◇ ◇ ◇


 ホテルに戻って、パスケースの中の写真を取り出す。確かに、まだ子供の頃の他愛ない約束だ。約束をすぐに、しかもすっかり忘れていた私は、約束だけでなくあれほど仲がよかった長瀬のことまで記憶から掃き出していた。

 長瀬や約束のことを思い出したのは全くの偶然だ。今流行りの終活とやらに勤しんでいて、幼少時の細々としたものを処分しようとした中に昆虫図鑑があり、長瀬と私が並んで写っている写真がモルフォのページに挟まっていたんだよ。写真の男の子が、笑顔のまま私を揶揄した。なんだ、おまえ今までずっと忘れてたのかよ、ひどいじゃないかってね。


 私は約束を忘れ、長瀬は覚えていた。約束はその時点で半分に割れたんだ。だが、長瀬の持っていた分の約束は形になっていた。あいつはペルーに入植した叔父を訪ねるという名目で十八の時に単身ここを訪れ、そのまま行方不明になった……長瀬の消息を訪ね歩いていた時に、長瀬の親族からそう聞かされたんだ。

 治安の状況や生活環境の厳しさを鑑みると、長瀬が今もまだ生きているという可能性は極めて低いんだろう。だが、六十年経っても魂に削り込まれている約束は風化しないんだよ。だから私の分……半分だけでも約束を果たしたいなと思って、ここまで来たのさ。

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