Cp.4-2 Invitation from Gold's(8)

 拓矢が家に戻り、誰もいない居間に入ると、家の電話に留守電が入っていた。

「?」

 珍しいなと思いながら再生すると、電話音声で奈美の声が聞こえてきた。

『もしもし、奈美です。ごめんなさい、今日はお手伝いにいけません……ごめんなさい』

 弱い声でただそれだけを伝え、留守電は切れた。途中の沈黙がやけに重く聞こえた。

(奈美……?)

 その留守電に不穏なものを感じたその時、ふいに拓矢の携帯に着信が入った。

 着信は幸紀からだった。拓矢がすぐに電話を取ると、幸紀の重い声が聞こえてきた。

『よう、拓矢』

 いつになく深刻そうなその声色を感じ取った拓矢は、不穏なものを感じながら訊いた。

「ユキ……どうしたの?」

『一応お前には伝えとこうと思ってな。奈美が堤防通りでびしょ濡れになってた』

「え……⁉」

 その報告に、拓矢は全身が総毛立つのを感じながら、急き込んで訊いていた。

「どういうこと⁉」

『見つけたのがいつもお前らが別れる辺りだったから、たぶん、お前が帰った後を追おうとしたんだと思うんだがな。何となく嫌な予感がして行ってみたらそうなってた』

「嫌な予感、って……」

『さあな、俺のただの勘だよ。ともかくずぶ濡れになってたから俺が家まで送った。今度会う時までに何かフォロー入れとけ。気付かないままだったらユカに殺されるぞ』

 幸紀の声はいつも以上に真剣だった。それが奈美の状態を見た上での深刻さだったのだろうというのを感じ取った拓矢は、居たたまれない思いになる。

「うん、ごめん……ありがとう、ユキ」

『礼はいい、俺のただの気まぐれだ。それに詫びるべきなのは俺じゃないだろ』

 電話の向こうからは、呆れたような溜め息が聞こえてきた。

『俺が……いや、俺達が言えることじゃないとは思うけどな。奈美のことも大切にしてやれよ。瑠水ちゃんに惚れこむのもわかるけどよ』

「…………」

 同じ立場である幸紀のその言葉の意味を今の自分に重ね合わせて、拓矢はたちまち気分が重くなる。全部守ると言っておきながらこの様だ。何を言われても仕方ない。

 そう考えていた拓矢は、思わず幸紀に思い浮かんだことを訊いていた。

「ユキ……ユキは、その……永琉さんのこと、大切だったんだよね」

『当たり前だろ。じゃなきゃこんなに深刻な顔してねえよ』

 平たい声で返された後、わずかに息を吐く音の後に、幸紀の声が聞こえてきた。

『まあ、お前にも奈美のあの泣き顔見せてやりたかったけどな。俺はあれ見て思ったよ。誰かを本気で好きになるってこういう事なんだってな』

「そっ、か……」

 自分が見なかった奈美の悲痛だった様相を思い、拓矢の胸には猛省の思いが湧いた。その空気を感じ取ったのか、幸紀は説教はここまでとばかりに話を切り上げようとした。

『まあいい、そんだけだ。奈美にもユカにもちゃんと気を付けてやれよ。じゃあな』

「あ……ちょっと待って、ユキ」

『ん、何だ?』

 ついでのように引き留められた幸紀に、拓矢は探るように訊いていた。

「ユキは、その……他の彩姫からの招待とかって、あった?」

『お前も気付いてたのか。なら話が早い』

 拓矢の振ったその話に、幸紀は好都合とばかりに食いついた。

『俺はまだあいつらの言ってたその招待とやらは貰ってない。俺が永琉と分かれたことで力を失ってるから部外者と判断されたのか、あるいは単純にそれを感じ取るだけの力がなくなったからなのかはわからんが、いずれにしてもだ』

「そっか……」

 情報を回収できず落胆したような拓矢の反応に、幸紀も現状を探るように返した。

『その様子だと、お前もまだみたいだな』

「うん……彼らの話だと、他の彩姫や命士の組にも話が行ってるみたいな言い方だったから、気になって。瑠水もまだそういう気配は感じてないっていうし」

『そうか、瑠水ちゃんもか……』

 拓矢の答えに、幸紀はわずかに考え込む時間を置いた後、現状での心構えを説いた。

『だが、あいつらがわざわざここまで出張ってまで確認しようとするような事態だ。何も起こらないってのは考えにくいだろ。何があるかわからんが、用心しとけよ』

「うん。ありがとうユキ。それと、奈美のことは……ごめん」

『俺はいいっつったろ。俺に謝るくらいなら奈美にこの後電話の一本でも入れてやれ』

「うん。ありがとう。ユキも気を付けて。何か手伝えることがあったら、言ってね」

『おう、そうさせてもらうよ。んじゃな』

 その言葉を切れ目に通話は切れ、通話終了の単調な音が壁越しの雨音の中に響く。

 電話が切れた後、拓矢は得体の知れない不安が胸の奥からせり上がるのを感じた。

(こんな雨の中でずぶ濡れになるなんて……奈美……急にどうしたんだろう)

 奈美の心中を慮ろうとした拓矢は、ふと、あることに引っ掛かりを覚えた。

(急、に……?)

 今日、雨の中、あの時。溢れる感情のままに瑠水を抱き寄せた時。

 甘美なざわめきに満ちた胸の中に、小さなノイズのようなものが走った感覚があった。

 その瞬間、本当に刹那の一瞬、心の鏡に奈美の影が霞んだような気がしていた。

(まさか……そんなことが、あるのか……?)

 憶測に囚われかけた拓矢は、少し遠くから瑠水がこちらを窺っているのに気が付いた。

「拓矢……」

 覚束なさげにこちらを窺う瑠水を心配させないよう、拓矢は笑顔を努めた。

「ユキからだったよ。奈美が雨に濡れてたのを見つけてくれたって」

「そう、でしたか……」

 それに答える瑠水もどこか落ち着かない様子を見せていたのを、拓矢は感じ取った。

「瑠水……どうか、した?」

「いえ……まだ判別がつかないというか、うまく言葉にできないのですが……」

 言葉に迷っていた瑠水はわずかな間で表情を改めると、拓矢に忠告のように言った。

「拓矢。先程話していた会合への招待……おそらくサクヤからのものだと思われますが、それについては私も注意するようにしておきます。何か感知すればすぐにご報告します」

「あ、うん……瑠水、その……さっきは、急に、ごめん」

 拓矢の謝罪の言葉に、瑠水は今度は迷いのない喜びの色を表情と声に乗せた。

「謝らないでください。私は嬉しかったですよ。それよりも、奈美を慰めてあげてください。冷たい雨の中に一人でいたのなら、きっと心も体も冷え切っているでしょうから」

「うん……そうするよ。心配してくれてありがとう、瑠水。ちょっと電話してくるね」

 気遣いを素直に受け取り、拓矢は奈美に電話をするために静かな部屋へと戻っていく。

 その背を見送り、瑠水は胸に抱えた思いを彼に伝えられなかったことを微かに悔いた。

(ごめんなさい、拓矢……何が起きているのか判別がついていないわけではありません)

 何故そうなったのかはわからないが、奈美の魂と微弱ながら神経パスが繋がっている。

 神経とは魂と魂を結ぶ、交信経路の中でも最も強い類のもので、彩姫と命士のような、根源的に繋がりを持つほどの強い関係性でもなければ、本来ならあり得ないことだった。

 桐谷奈美はいかに強い恋情を抱いていたにしても、一介の人間に過ぎないはずだった。それが、彩姫と同じ神経の繋がり方を見せたということについて、考えられる仮説は。

(奈美……あなたの想いは、拓矢を想うことによる魂の繋がりは……彩姫の持つ魂の繋がりを形成する力に匹敵しているというのですか……?)

 その仮説的事実に対して、瑠水は初めて桐谷奈美という女性に、明確な意識を抱いた。

 それは、一言で言うならば、恐れだった。


「……ん……」

 月明かりの差し込む自室で、微睡んでいた奈美は何かに呼ばれるような感覚と共に、ふと目を覚ました。目を覚まして、頬が涙に濡れているのを感じて、悲しみを思い出した。

 灯りのない暗闇の中、枕元に置いてあった携帯電話が着信のランプを点灯させていた。

「拓くん……?」

 何故かはわからないが、それが彼からのものだということを奈美は感じ取り、力のない手で携帯を取り、画面を開いた。

 闇の中に光る液晶画面に、留守電のメッセージ着信が通知されている。

「…………」

 奈美は、禁忌の箱を開くような恐れを感じながら、その着信を再生した。

『あ……もしもし、奈美。拓矢です』

 電話音声で、誰よりも傍にいてほしかった人の声が聞こえてくる。

『ユキから話、聞いたんだけど……その……体、大丈夫? 風邪とか、ひいてない?』

 何の他意もないその言葉に、奈美は心が熱くなり、涙腺が震えるのを感じる。

 いつもそうだ。彼は、ただ優しい。誰と比較するでもなく、ただ純粋に等しく優しい。

 その優しさが自分は好きで、そして今は、その優しさが胸に痛かった。

『その……もしも僕のせいだったら、ごめん。何ができるかわからないけど、できることがあったら何でも言って。僕のせいで奈美を泣かせちゃったなら、ちゃんと償うから』

 真心から出ている無自覚な言葉に、奈美は胸が締め付けられるように痛むのを感じる。

(拓くんのせいじゃないよ……悪いのは私。でも……何かしてくれるっていうのなら)

 その後、しばらく無言の時間が流れた。言葉を続けるべきか、迷っていたらしい。

(留守電なら、いいよね……)

 その隙に、奈美は届かないのをいいことに、拓矢に向けて、涙に濡れた声で囁いた。

「好きって、言って……」

 その言葉を口にした瞬間、奈美は甘美な思いに胸が満ちるのを感じた。

 届いていないとしても、誰にも聞かれていない場所でその言葉を彼に向かって口にできるだけで、胸が背徳のような幸せの痛みで張り裂けそうになる。

 自分を雨の中から救い出してくれた幸紀は言った。

 雨に濡れて泣く自分を見て、人を好きになるというのはこういうことだと感じたと。

 もしかしたらそうかもしれないと、奈美はその評価を肯定する気持ちになる。

 こんなに涙が溢れて、胸が張り裂けそうなほどに痛くて、辛くて、苦しいのに。

 それでもやはり、自分は彼のことが――白崎拓矢という人のことが好きなのだと、何度でも迷いなく、揺らぐことなく、その想いを胸に抱くことができてしまうから。

『今度会ったら、ちゃんと謝るよ。それじゃあ、おやすみ。風邪、引かないでね』

 いつものような真心のこもった気遣いと共に、微かな余韻を残して、留守電は切れた。

 通話終了の音を切った後、奈美は静かな闇の満ちる部屋のベッドに突っ伏したまま、

「うん……おやすみ、拓くん……」

 今でも大好きな人の名前を愛おしむように呟き、枕に顔を埋め、眠りに就いた。

 涙に濡れたその言葉は、逢瀬の後のように穏やかな幸せの色に満ちていた。


 拓矢と瑠水が《招待》を受けたのは、その夜の夢でのことだった。

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