Cp.4-2 Invitation from Gold's(6)

 店を出ても、雨は止む気配を見せていなかった。

 陰鬱な鼠色の霞が立ち込める中、傘を差した四人はいつものように二手に分かれ、それぞれの家路につくことになった。

「悪かったな、お前ら。俺のいざこざに巻き込んじまって」

 店を出るなり早々にそう詫びを入れた幸紀に、由果那が突っ返す。

「何よ今さら。こちとら承知で巻き込まれに来てんだから。水臭いってのよ」

「由果那ちゃん……」

 棘のある思いやりの言葉に奈美が戸惑いを見せる中、由果那は幸紀に端的に訊いた。

「それで、結局あんたらの話は少しは進んだわけ?」

「ああ。今の所はあいつらに害意はなさそうだ。ただし、あくまで今の所はだけどな。あいつらの言う『会合』だかまでは大っぴらに動くことはないだろう」

 そう言って、幸紀は黄金の二人の消えた雨霞の向こうを睨みながら、決意を告げた。

「奴らもその気なら丁度いい。出るべき所に出て、決着を付けてやる。そして必ず……この手に永琉を取り戻す。それが、俺のつけるべきけじめだ」

「ユキ……」

 拓矢が不安げな目を向ける中、由果那は部外者なりにせめてもの思い遣りを見せる。

「ふーん……まあ、その、あれね。あんま無理すんじゃないわよ。あんたもあんたでけっこう無茶すると危ないんだから。その人のことが大事なのはわかるけどさ」

「ああ、注意する。悪いな、心配かけて」

「そう思うんなら余計な心配かけさせんじゃないっての」

 そう言って背を向けようとした由果那は、ふいに振り返ると拓矢に言った。

「拓矢。ちゃんと奈美を送って行きなさいよね。雨強いんだし」

「え……あ、うん。もちろん。ユカもユキも、気を付けて。それじゃあ、また明日」

 そう今更のような挨拶を返して、拓矢は奈美と肩を並べて雨の向こうに歩いて行く。

 それを見送りながら、不審に思った幸紀は由果那に訊いていた。

「どうしたんだ、いきなり」

「ん……いや、なーんか嫌な予感がしたからクギ差しただけ。あたし達も行きましょ」

「そうか……そうだな」

 由果那の言葉に、幸紀は去り際、雨霞の向こうに消えていく拓矢の背中を見送った。

 雨霞に隠れていたせいかはわからないが、確かに、由果那の言う通り、朧げなその背中には、どこか雨に溶けて消えてしまいそうな危うさが見えたように感じていた。

 


 幸紀と由果那がそんな懸念を交わしていたとは露知らず、粛々と降り続ける鈍色の雨の中、水色の傘を差した拓矢は無言で俯きながら、雨に濡れた堤防通りを歩いていた。隣にはピンク色の傘を差した奈美が、怖々とその様子を窺うように並んで歩いている。

 降り注ぐ雨の音は、あらゆる周囲の音をその音に溶かしてかき消してくれている。それが、沈思に浸る拓矢の思惟には好都合だった。

(ユキ……)

 俯く拓矢の脳裏には、先程のお茶会で見た幸紀の、見たことのない憔悴の様子が焼き付いていた。あんなふうに追いつめられた様子の幸紀を、拓矢は見たことがなかった。

 彼をそうさせた元凶が自分にあるということを、拓矢は今や自覚せざるを得なくなっていた。彼がどれだけ自分に罪がないと言ってくれていても、それは厳然たる事実だ。

 幸紀だけではない。隣を歩いてくれている奈美も、自分を認めてくれている由果那や乙姫も、そして自分に関わることを選んでくれた瑠水、永琉、他の彩姫達も。

 自分は自分が思っていた以上に、周囲の多くの大切な人達に傷を与えすぎた。

 たった一度の、二度と許されない過ちのせいで。

(僕があの日、あんなことをしなければ……皆、こんなことにはならなかったのかな)

 身体が浮遊し、落下していく感覚が、赤く燃える逆さまの空の色と共に脳裏に蘇る。

 思考が下向きになっていたのを感じた拓矢は、瞬きをして思考を切り替えようとした。

 過去はもうどうしようもない。向き合うべきは今とこれからだ。

 そう考えようとしても、どうしても拓矢の心は上を向くことができない。

 まるでこの、重い雨雲に一切の光の覆い隠された空模様のように。

(これも……雨のせい、なのかな)

 途方に暮れかけていた拓矢はふと、今朝乙姫にした言い訳の言葉を思い出していた。

(雨のせいなんかじゃ、ない)

 そんな理由でごまかせるほど、自分が向き合わなければならない事態は軽くない。

 幸紀や奈美、由果那や乙姫にあんな顔をさせてきた究極の原因は、自分にある。

 真の意味でけじめをつけなければいけないのは、むしろ自分の方だ。

(何とかしなくちゃいけない……僕自身の手で……)

 そう考えた時胸の内に湧き上がった決意はしかし、ひたすらに胸に痛い罪の炎だった。

 拓矢はふと上を向き、傘をわずかに後ろにずらして、雨の降りしきる空を見上げた。

 暗鬱な色に埋め尽くされた空には、今は一筋の光の気配さえも見えなくて。

 いつか晴れるものだと聞かされても、そんなふうには信じられそうもないほどに。

 それが今の自分の心の姿だということを、拓矢は簡単に感じ取ることができた。

(いつか……この重苦しい雨雲みたいな思いも、晴れる日が来るんだろうか)

 永遠に暗闇に閉ざされたままのようなこの心に、光が差す日は来るんだろうか。

 忘我の念に浸りかけていた拓矢はふと、隣から呼びかける声を聞いた。

「拓くん」

 奈美の呼びかけるその声に微かな怯えの色が混じっていたのを、拓矢は感じ取った。

「ん……何?」

 呼びかけに応え振り向いた拓矢に、奈美は不安の色を見せながら言った。

「その……あんまり、無理しないでね。私……」

 そこまで言いかけて、奈美は言葉を見失い、口を噤んで俯いてしまった。自分をどうにかして気遣おうとするその様子が胸に迫り、拓矢は思わず足を止めていた。

 いつもこうだ。自分はいつもこうして、周りの人達に心配をかけてばかりで。

 その人達に報いることも何もできないまま、助けられてきてばかりで。

「拓くん……?」

 雨の中、奈美が並んで足を止め、傘を傾けて拓矢の顔を恐る恐る覗き込んだ。

 その気遣いを、思い遣りを胸の疼痛に感じながら、拓矢は涙ながらに言った。

「ごめん、奈美。いつも、心配ばっかりかけて」

 それは、あの日以来拓矢の抱えてきた、積年の想いだった。

 それを聞いた奈美は、その懊悩を拭い去るように、ゆっくりと笑みながら首を振った。

「ううん……私、拓くんに無事でいてほしいだけだから」

 その言葉もまた、奈美の真心だった。どんな辛さも、その想いで塗り替えるような。

 そのために彼女に少なくない無理をさせていることを感じていた拓矢は、素直にその言葉に喜ぶことができず、答えを返すこともできなかった。彼のその懊悩を察した奈美が、ふいに傘ごと拓矢に背を向けた。雨の中、拓矢がその背に恐る恐る声をかける。

「奈美……?」

「拓くん、ごめんなさい。今日は、先に帰るね。夕ご飯の支度、少し急ぎたくて」

 それが、この場での拓矢を気遣った判断だということを、拓矢は即座に理解した。

 また自分は、彼女に気を遣わせてしまっている。

「じゃあ、またね」

 そう言うと、拓矢の返事を待たずに奈美は雨の中を走り去っていってしまった。

「奈美……」

 後を追うように零れ落ちた言葉は、容易く雨音の中に溶けて消えた。

 雨の中、一人後に残された拓矢に、語りかける声があった。

「気を遣っていただいたようですね」

 降りしきる陰鬱な雨音の中に凛と響く、透き通った声。

 思考をクリアにするような響きのその声にさえ晴れない拓矢の思いを、隣にいた瑠水はその肩に手を触れて鎮め、そっと気遣う言葉を使った。

「私達も帰りましょう、拓矢。風邪を引いては奈美にも示しがつきません」

「うん……そうだね」

 瑠水の言葉に、拓矢は傘を傾け、降り注ぎ続ける雨を僅かな間、見上げる顔に受けた。

 降り注ぐこの水がこの陰鬱な思いを洗い流してくれはしないか、と思いながら。

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