Cp.4-1 Annoy in the rain(1)

 その年の六月は、まるで雨乞いの乙女が少し機嫌を損ねたように、ささやかな早雨になった。拓矢はそれを、生涯の中においても長かった曇天だと記憶した。


 風に揺れる霧雨に窓の外が煙る音を聞きながら、白崎拓矢はゆっくりと目を覚ました。陰鬱を煽るような灰色の曇り空を映す窓には細い雨が弱い風で叩きつけられていた。

 無音の部屋を満たす雨の音を聞きながら、拓矢はしばし茫然としていた。

 いつものようにベッドを出て学校に行く支度をしなければならないのはわかっていた。しかし、その習慣にさえ絡みつくような倦怠感が心身を包んでいるのを、拓矢は感じていた。窓の外に広がる鼠色の雨空が、その憂鬱を空気の中に溶かしていた。

 ふと、すぅすぅと静かな寝息の音を聞いて、隣を見る。青い光の乙女・瑠水は今日も変わらず、流紋を描かれた青く光る美しい躰を、拓矢の隣、ベッドの上で無防備に晒していた。

 拓矢は、瑠水の頭をそっと撫で、彼女の清流のような髪を梳いた。そうして、それらの行為の度に胸の内、心に沁み込むように生まれていた感動の鮮烈さが最初の頃に比して薄くなっているように思えていることに、拓矢は悩んでいた。

(僕は、瑠水が今も好きなはずだ……なのに、何でこんなふうにしか感じられないんだ?)

 鮮やかだった想いが、時の流れに晒されて、色褪せていく感覚。

 何一つ、変わらないと思っていた。彼女の美しさも、自分の想いも。二人の絆も。そして実際、何一つ変わってはいないはずだった。故に、色褪せはしないと思っていた。

 だが、それもまた不変の崩壊を逃れることができないものであったことを、拓矢は己の感覚として認めざるを得なかった。

「ん……」

 と、ベッドの上で寝息を立てていた瑠水がむずかり、ぱちりと目を開いて数度瞬きをすると、ゆっくりと青く光る上体を起こし、惚けたような目で起き上がっていた拓矢の目を見た。

 こちらを見つめてくる美しい瑠璃色の瞳に、拓矢は重い霞のような思いが胸を覆うのを感じながら、せめてもの誠実を示すために、今や習慣になりつつある声をかけた。

「おはよう、瑠水」

 色褪せかけたと思いながらも、その名を呼ぶたびに今でも心は微かに震える。自省にも似たその思いが、今の拓矢にとってはせめてもの慰めだった。

 そんな拓矢の精彩を欠く心の色を察した瑠水は、その虚無を埋めようとするかのように、明るく見える笑顔を努めた。

「おはようございます、拓矢。今日も……雨ですね」

「うん……そうだね」

 そう言葉を交わしたきり、拓矢と瑠水の間に沈黙が降りる。降り注ぐ雨音がその沈黙を埋める中、拓矢と瑠水はどちらからともなく、その沈黙を静かに破った。

「行かないとね」

「ええ……支度をしましょう。お姉様も待っているはずです」

 そう言い交わす拓矢と瑠水、双方共に、互いへの態度には以前にはない影があった。

 先日、五月の間に黒の彩姫についての一件があって以来、この調子は続いていた。拓矢も瑠水も、まるで腫れ物に触るのを恐れるかのようなぎこちなさを覚えていた。そしてその暗鬱な関係は、六月になって梅雨が降り始めてから、回復の兆しを見出せなくなっていた。

(早く、晴れてくれればいいのに)

 天気のせいだ、と拓矢は無理やり思い込もうとしていた。

 だが、心を埋める空虚感がそれで片付くものでないことくらい、拓矢にもわかっていた。そして瑠水が、その想いを共有していることもある程度察せていた。

 お互い、近づこうにも近づけない。そんな意思だけが交わされるばかりのぎこちない関係。互いにわかっていてどうにかしたいと思っているのがわかるからこそ、余計にもどかしい。

(どうすればいいんだろう……)

 どこにもやり場のない陰鬱な気分を覚えながら、拓矢は学校へ行く支度を始めるため、蹴り出すようにベッドを出た。


 リビングに降りると、いつもと変わらず乙姫はコーヒーカップを前に新聞を読んでいた。拓矢と瑠水が降りて来たのを目にした乙姫は、二人の様子の変化を目聡く見取りながら、あえていつもと同じように二人を出迎えた。いつも通りの習慣には、人をいつも通りの状態に戻す力がある。乙姫はそれを自身の体験として知っていた。

「おはよ、二人とも」

「おはよう、姉さん」

「おはようございます、お姉様」

 乙姫の挨拶に二人揃って精彩を欠く返事を返し、拓矢は緩慢にテーブルに就いた。椅子を引かれるのを忘れられた瑠水はしかし何も言わずその隣に立っていた。

「タク」

「ん、何?」

「何じゃないわよ。瑠水ちゃん。椅子引いてあげないと座れないでしょ」

「あ……ごめん」

 拓矢は慌てて隣の瑠水の椅子を引く。それを契機とばかりに、乙姫が話に切り込んだ。

「タク。最近あんまり元気ないわね」

「そう……かな」

「傍から見てもわかるわよ。何かあったの?」

 乙姫の追及に、答えに迷った拓矢はわずかに黙り込んだ後、ぼそりと言った。

「雨のせいじゃないかな」

「雨のせい?」

 訝る乙姫に、拓矢は細雨に灰色に煙る窓の外を眺めながら、呟くように言った。

「うん。たぶん、こんな天気が続いてるから、気分もあんまり良くないんだと思う。この雨が過ぎて晴れるようになってくれれば……きっと、少しは元気も出るんじゃないかな」

 それが本当の気持ちを隠す方便だということは、拓矢も乙姫も当然に気付いていた。

 乙姫は、拓矢の隣に座る瑠水にふと目を向けた。そしてその視線を受けた瑠水が申し訳なさそうに目を伏せるのを見ると、乙姫は諭すように拓矢の目を見つめた。

「タク。悩み事は何でも一人で抱え込まないようにっていつも言ってると思うけど、この時期は特によ。わかってるわよね?」

「うん。なるべく心配はかけないようにするよ。姉さんにも、皆にも」

 乙姫を安心させようと努めた拓矢にしかし、当の乙姫は呆れたように訂正をかけた。

「一つ、隣にいる大切な人のこと忘れてるわよ、タク」

「え、あ……」

 その言葉の意味に一拍遅れて気付いた拓矢は、隣に座る瑠水に目を向け、自責の念に押し潰されそうな思いになりながら、瑠水に謝った。

「瑠水……ごめん」

 その心の内を察していた瑠水は、拓矢の鬱屈を濯ぐように、小さく笑みながら言った。

「いいえ、気にしないでください。あなたの心に私は常にいる。そう思ってくださっているだけで結構です。それに……具合が悪いのは雨のせい、なのでしょう?」

 それが方便だと瑠水も気づいているのが、拓矢には感じ取れた。にもかかわらず、瑠水はその嘘をさえ受け入れようとしているのだった。拓矢を不用意に揺さぶらないために。

 その心遣いは、拓矢を嘘を吐いたことへの後ろめたさで一層暗鬱にさせる要因にもなった。それでも、そこまで自分を気遣ってくれる瑠水の気持ちを拓矢は素直に嬉しいと感じて、そう感じた自分自身を、今更な気持ちを取り戻した時のようにどこか物悲しく感じた。

 心に薄い塩水が滲むような感覚を覚えながら、拓矢は弱い笑みを浮かべて、瑠水に言った。

「うん。この雨さえ止めば、きっと良くなるよ。だから、心配しないで」

「はい。拓矢がそう思われるのなら、私はそれを信じます」

 瑠水はそれを、嘘から出た真のように信じる心を、常のような儚げな笑みに混ぜた。

 そう言葉を交わす二人の間には、わずかながら先程までの棘がなくなっていた。

(まったく……でも、やっぱりこの子達、相性は良いみたいね)

 乙姫は二人のそのやり取りを見て、取り越し苦労を喜ぶように小さく笑んでいた。

 窓の外には、相変わらず陰鬱に降り注ぐ細雨が、外を灰色に濡らしていた。

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