Cp.4-1 Annoy in the rain(2)

 朝食を終えると、いつもよりわずかに遅れたタイミングでドアホンが鳴った。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい、気を付けてね。雨で視界も悪いし、ぼーっとしてちゃダメよ?」

「うん、気を付けるよ」

 見送りの言葉を投げてくる乙姫に返事を返し、拓矢は玄関で靴を履き、青い傘を持ってドアを開ける。そこにはピンク色の傘を差した奈美が、雨の降る灰色の空を背に立っていた。出て来た拓矢の顔を一目見るなり、奈美は顔に表れようとした憂いの色をすぐに隠した。

「おはよう、拓くん」

「うん、おはよう、奈美。お待たせ」

 降りしきる薄い雨の中、言葉を交わした拓矢と奈美の間に、わずかな沈黙が降りる。

 拓矢の言葉の空虚さを察しながら、奈美はいつものように鞄の中から水色のナプキンで包んだ弁当箱を取り出すと、心なしか憂い気な調子の声で、拓矢にそれを差し出した。

「はい、拓くん。お弁当」

「うん。いつもありがとう」

 いつものように無意識に返して、拓矢は奈美の差し出した弁当箱を受け取ると、どこか緩慢に思える仕草で鞄の中に入れ、奈美に薄い、顔に張り付いたような薄い笑顔を向けた。

「じゃあ、行こうか」

 そして、まるで話すことは何もないとばかりに、平然と歩き出そうとする。

 その、弁当を受け取る時の拓矢の言葉がいつにもまして無機質に聞こえたことを、奈美は聞き逃さなかった。今やいつもの習慣になっていることとはいえ、普段から手渡ししている「特別な愛情」がどんな受け取られ方をされるかについて、奈美がその感情の機微に勘付かないはずがなかった。それはつまり、奈美にとっての重大事だった。

(何か、あったんだよね……)

 不穏な思いを胸に抱えつつ、奈美は傘の下から拓矢の横顔を盗み見る。

 拓矢は青い傘の中から、雨の降りしきる曇った空を茫漠と眺めていた。その視線、果てはその心がここに、隣にいる自分の所にないことに、奈美は胸に疼痛を覚える。

 と、ふいに拓矢が見つめる視線に気づいたのか、奈美の方に顔を向けた。そして、思わず怯んだ目をした奈美を見て、すまなさそうに笑みながら言った。

「どうかした? 奈美」

 いつもと同じ、何の変わりもない、何の意識もされていないその視線と言葉。

 そのことを痛感させられた時、奈美の胸から込み上げた思いが口をついて出ていた。

「ずるいよ……拓くん」

「え……」

 その言葉に不穏なものを感じ取った拓矢に、奈美は挑みかかるように言っていた。

「私の気持ち、もう知ってるんでしょう。なのに、そんな平然と接してくれるなんて……」

 その言葉を受けて戸惑いの色を映した拓矢の表情を見て、奈美は胸の中心にある浅い切り傷に塩水が染み込むような痛みがじわりと走るのを感じた。

 わかってはいた。拓矢にとっては、それが自然なことだと。奈美を特別扱いする理由など、彼の中にはないのだということなど、わかっていた。

 だからこそこんなにも胸が痛むのだということを、奈美は拓矢に知ってほしかった。それが、自分の勝手だとわかっていても。

 奈美の突き付けるような言葉に、拓矢は言葉を失ったように視線を下げる。

 拓矢はそれなりに賢い。奈美の言葉が事実である以上、言い訳はできないと感じているからこそ何も言わないのだろうと奈美にもわかった。それが余計、奈美の胸の痛みを煽った。

 言い訳でも何でもいいから、何かを言ってほしかった。何かを語りかけてほしかった。拓矢ならそういう悩みに突き当たるだろうとわかっていながら、そう望んでしまった。

「拓くん……どうして、何も言ってくれないの……?」

 奈美が拓矢に哀願するような思いを向ける中、瑠水が拓矢を庇おうと口を挟もうとするのを、奈美は聞いた。それが、奈美の心にかかっていた鍵を爆発させた。

「奈美、拓矢のことなら心配はいりません。拓矢はちゃんとあなたのことも――――」

「あなたに言われたくないッ!」

 激昂し、奈美は震える声で、込み上げる思いを吐き出していた。あまりにもその感情を使い慣れていないせいで、魂がすり減るような感覚を覚えながら。

「幸せだよね、あなたは……何もしないで、好いて好かれて……私がこんなに長い間傍にいた間の想いまで、何もなくても全部持って行っちゃうんだもんね……!」

「奈美……」

 それは、奈美がずっと心の中に押さえつけていた思いの決壊だった。溜めに溜めていた思いを吐き出す奈美の声は、今にも泣き崩れてしまいそうに震えていた。

 拓矢はそれに言葉を出せなかった。奈美のことは心配だったが、瑠水が好きだと言ってしまった以上、自分のどんな言葉も彼女の傷を煽ってしまうように思ってしまっていた。

 思い込みに囚われて言葉を出せずにいる拓矢に、奈美は悲しみに濡れた目を向けた。

「拓くん……やっぱり、何も言ってくれないんだね」

 拓矢が道理を弁えようとしていることをわかったような、悲痛に震える言葉。

 たとえ拓矢の考えがその通りだとしても、奈美は自分からの言葉を望んでいるのだということが、拓矢にはその言葉で知れた。そしてそれでもなお自分の言葉でこれ以上彼女を傷付けたくないという身勝手な自分のちっぽけなエゴに足止めされている自分の未熟さを、拓矢は呪った。

 答えを返さない拓矢の目の前で、奈美は俯き、肩を震わせ始めた。

「拓くん……私、もう、どうすればいいのかわからないよ……!」

 震えていた声は、彼女の心の揺れそのものだった。

 拓矢はその時、自分が何をしでかしたかようやく理解して、暗鬱な気分に襲われた。

 自分はまた、未熟さのせいで、奈美を――大切なはずの人を泣かせたのだ。

 瑠水が気を利かせたのか、その場から姿を消してくれた。拓矢はその機転に感謝しつつ、隣で肩を震わせながら歩く奈美の肩を抱くようにそっと手を置いた。

 奈美の嗚咽は治まらなかった。手から伝わる彼女の震えは、拓矢の心をひどく揺さぶった。


 そういう訳で、拓矢と奈美のその日の登校は、二人していつもより遅くなった。

 奈美と一緒に教室に入ると、拓矢の席で幸紀と話をしていたらしい由果那と目が合った。その一瞬で由果那は拓矢の隣にいる奈美が眼を泣き腫らして俯いていたのを見取り、

「ユキ、ちょっと奈美をお願い」

 幸紀にそう言い置いて即座に席を立つと、ずかずかと大股で拓矢に歩み寄り、その背を強引に押して、教室の外へと拓矢を押し出した。

 廊下に出た所で、拓矢は首元を掴まれ、由果那に有無を言わさず壁に押し付けられた。

「何で奈美が泣いてんの」

 問う由果那の声は、明らかな怒りに冷え切っていた。答えを返せずにいた拓矢に、由果那は容赦のない、怒りに燃えた言葉を突き付けた。

「あんたが泣かしたのね」

 答えを返せず、目を逸らそうとした拓矢は、首元を強く押されて息を詰まらせた。仕方なく目を前に向けると、由果那は逃げるなとばかりに厳しい視線を向けて来ていた。

「目ぇ逸らすんじゃないわよ。何があったの。話して、ちゃんと」

 由果那の突き刺すような態度に観念し、拓矢は登校中の奈美とのやり取りを由果那に話した。それを聞き終わった由果那は、重い溜め息と共に拓矢の首元を掴む力を緩めた。

「やっぱりか……あたしの心配してた通りになったってわけね」

 由果那は呆れたように嘆息すると、憂いを帯びた声でぽつりと零すように言った。

「やっぱ、無理にでも突っ返しておいたほうが良かったかもね……その子」

 それが瑠水のことを意味するということを直感した時、拓矢は激しい自己内部での反発に襲われた。荒れ狂う感情が押さえつけられるような感覚を覚える中、教室から出て来た幸紀の姿が目に入った。

「ユカ、拓矢を離してやってくれないか」

 幸紀に、由果那は目だけを向けて睨みつける。

「あんたもつくづく拓矢には甘いわよね。奈美はどうしたのよ」

「お前だって人のことは言えないと思うけどな。ああいう時は俺よりお前が傍にいてやった方が早いだろ」

 あえて対象をぼかしてみせた幸紀のその言葉に、由果那はいっそう眦を険しくした。

「つか、話聞いたわよ。あんたもあいつと同じようなことに関わってたんだってね」

「まあ、な。俺の方こそ隠してて悪かったが」

 共に非を認める幸紀と拓矢に、由果那は苛立ちを示すようにがしがしと頭を掻いた。

「ああもう、あんたらって奴は……奈美みたいないい子を泣かせるなんて何様のつもり?」

 そして、乱暴に拓矢を掴んでいた手を離すと、拓矢に背を向けて教室の方に向き直り、

「あたし、奈美の傍にいる。拓矢、後でちゃんと謝りなさいよ。これ以上あの子を酷い目に合わせたら、いくらあんたでも許さないからね」

 そう言い残して、早々に教室の中へ去って行った。後に残された拓矢は短く息と心を整えると、やれやれといった様子で教室の方を眺めていた幸紀に言葉をかけた。

「ユキ……その、ありがとう」

「いいって。困った時はお互い様さ。それにおかげでお前に話し掛ける口実もできたしな」

「え?」

 思わぬ言葉に虚を突かれた拓矢に、幸紀は真摯な口調で言った。

「あの日以来今まで少し話し掛けづらかったが、ちょうど良かった。少し、話をさせてくれないか。あいつの……永琉についての話なんだが」

「あ……」

 しかし、拓矢がそれに答えを返す前に、始業のベルが鳴り響いた。

「まあ、今は時間もそんなにないからな。昼休みあたりで頼むわ」

 そう言い残して、幸紀もそそくさと教室内に消えた。

(何だか……今日は気の休まる暇がない日なのかな)

 後に残された拓矢は、この一日の展開の速さと大きさに半ば呆然としていた。

 瑠水はまだ姿を現さず、無言のまま拓矢の心の中に控えていた。

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