Cp.3-1 Calling from Blossom(4)

 瑠水の言った通り、空中飛行は思いのほか速い速度で進んでいたらしい。拓矢がふと下を見下ろすと、パノラマのように眼下に広がる風景はいつの間にか彌原町をゆうに過ぎて、神住市の郊外近くにまで来ていた。雲の上ほどの高度を移動するとなると、体感する速度も時間も距離感も地上のそれとは感じが変わるらしい、と拓矢は一人納得していた。

 そんなことを考えながら白く光る蝶に付いて徐々に高度を下げていった拓矢は、蝶がその先に居を構えている古めかしい和風の屋敷に向かって行っているらしいことに気付いた。空の上、遠目からでも結構な敷地、そしてそれらしい風格を持っていることがわかる。いわゆる旧家という奴だろうか、と拓矢は思った。

 拓矢の思惑も知らず、蝶はそのまま屋敷のそばの地表近くまでゆっくりと降りていくと、そのまま屋敷の中までひらひらと入って行ってしまった。後に残された拓矢はそのまま門を飛び越えて中に入るのも不躾だと思い、ひとまず門前まで降りると、眼前に厳と構える瓦葺きの大きな門の風格を前に、しばし圧倒されてしまった。

「ここ……なのかな?」

「そのようですね。サクヤの気配を中から感じます。ひとまず《聖化》を解きましょうか」

 拓矢の呟きに答えた瑠水が、拓矢の肩から天女の羽衣のようにふっと離れる。微かな名残惜しさを覚えさせるその動きに合わせ、拓矢を《異次元化》していた聖域が解除された。

 鏡面のような輝きを映えさせていた視界が、元の粗雑さを取り戻す。

「おや、お客様ですかな」

 同時、立っていた門の脇からふいに声をかけられ、拓矢は肝を縮めた。

 ふと声のした方を見ると、紺色の襦袢を着た壮年の男性が、箒と塵取りを手にこちらを見ていた。どうやら門の威圧感に気を取られ過ぎて、こちらが彼に気付かなかったらしい。

「あ、その……」

 拓矢の額を冷や汗が伝う。

 聖域を解除して、現在界の中に姿が認識されるようになった今の状況は、一般人から見ればこうなる――誰もいない所に、突如として人が現れたと。単に気付いていなかっただけ、と内々で思ってくれていればよいが、なおも悪いことに周囲には人通りもほとんどなかった。指摘されたらどう説明すればよいのかわからない。

 内心で焦る拓矢を、その男性は穏やかな眼差しでしばらく見つめた後、その人の好さそうな眼差しに違わない、しかし筋の通った声で言った。

「さては、あなた方が若と姫様の仰っていたお客様ですかな。お待ちしておりました」

「え……?」

 男性の言葉に、拓矢は一瞬、頭が真っ白になった。

 彼が、自分の来訪を知っていたこともそうだが――もう一つ。

 この男性は今――拓矢を見て「あなた『方』」と言った。

 つまり、この男性には、瑠水が見えている……?

 虚を衝かれた拓矢に、男性は好々爺の笑みを浮かべて、箒と塵取りを手にゆっくりと歩き、

「ささ、若と姫様がお待ちです。この老爺がご案内致しましょう」

 そう言って、大きな門の脇にある小さな扉を開け、拓矢に向き直った。どうやら中へ入れ、ということらしい。何が何だか整理が追いつかない拓矢を、

「行きましょう、拓矢。この先に、サクヤが待っているはずです」

 隣に蒼白い髪を流す姿を現した瑠水が、そっと一言、促した。


「いやはや、若と姫様の他にもそのような御方様方がおられるとは。この爺もそれなりに長いこと生きてきたつもりでしたが、よもやこのような奇縁に囲まれるとは思いませなんでしたな」

 はっはっは、と和やかに笑う男性――「爺」と御呼び下さいませ、と拓矢は言われた――の後に続いて、拓矢は門を潜り、「若」と「姫様」の待つという屋敷の中の廊下を歩いていた。

 空中からもある程度見えてはいたが、いざ歩いて入ってみると、その荘厳さは思わず息を呑むほどのものだった。敷地の大きさもさることながら、年紀を重ねて擦れた灰色の模様を見せる玄関前の敷石や、枯山水を思わせる庭の銀色の砂利や岩木の配置、そして今案内されている廊下の板木や柱の深みのある檜皮の色合いに、畳や襖に仕切られた空間に満ちる燻された若草のような古風な香り……この屋敷のどこかしこに感じられるそれらの悠然かつ厳粛とした雰囲気のどれもが、その中を行く者をも自然と畏まらせる威風を満たしていた。静かに、しかしよく調律された箏の弦のように心地よく張りつめた空気の中を歩きながら、拓矢は幸紀の実家である彌原神社の森厳な雰囲気を思い出していた。

「今や天に名立たる神住市の方には、このような古い屋敷は珍しいですかな」

「あ、いえ……とても大きくて、立派なお屋敷だと思って」

 先を歩く爺の諧謔めいた言葉に返した拓矢に、瑠水が言葉を続けた。

「そうですね。荘厳な木霊の霊気が屋敷中に漂っています。ここの空気に包まれているだけで、魂が引き締められていくよう……よほど、長い時をかけて練られたもののようですね。尊敬に値します」

「それはそれは。お褒めに預かり光栄ですな。特に姫様の方は霊気の流れに通じておられるようで」

 はっはっは、と穏やかに笑い、爺は、つまらぬ話ですが、と語り始めた。

「このお屋敷は、かつて古き神住の地を切り拓いたと伝えられる神代より続く武家の一家・斯道家の代々の土地でしてな。今はしがない古屋敷として剣術道場を営むばかりですが、歴史の影に隠れて生き残っているだけでも、この忘れられた名家の誉れに影はございませぬ。日輪の照らす浮世を見守る、日陰の剣――それが、この斯道家の生業でありますゆえ」

 そう、過ぎ去りし時を懐かしむようにしみじみと語ると、爺は後ろの拓矢に声をかけた。

「ときに、拓矢殿と申されましたな。剣術の心得などはございますかな?」

「え……いえ、特にそういうのを習ったりしたことは、ないですけど」

 爺の言葉に答えている間、拓矢はこれまでの戦いで剣を振るった感覚を思い出していた。言葉の通り、拓矢は生まれてこのかた、剣術などを習ったりしたことはない。であるにも関わらず、過去二度の戦いにおいて、拓矢は瑠水の形成した剣を少しの迷いもなく使えていた。おそらく瑠水の何らかの神経の力が働いたのだろうとは思うが、今思うと、剣など手にしたこともなく、ろくに誰かと戦ったこともなかった自分があれほどまでに剣や力を使って、迷いなく戦えたことは、不思議なことだった。

 拓矢のその内心を読み取ったのか、爺は興気に言葉を継いだ。

「然様ですか。でしたら、若に――源十郎様に剣の手ほどきを受けられてはいかがですかな。見た所、貴方様は筋が良さそうだ。『道』の精神に相応しい器をしておられるように見受けられる」

「え……『道』、ですか?」

 言われたことの意味を十全に理解できない拓矢に、隣を歩く瑠水が言った。

「そうですね。最初の戦いの時、あなたに託した私の『勝利の形相』は、ごく自然に『剣』と『弓』の形を取って、あなたはそのどちらも迷いなく使いこなしていました。武具への練度を語る以前の、全てに通じる『道』の精神が通っていなければできないことでしょう」

「成程。であるならばやはり貴方は筋が良いようだ。若に引き合わせる甲斐がありますな」

 はっはっは、と楽しげに揚々と笑う爺に、拓矢は訊いていた。

「お爺さん……あなたには、瑠水が見えるんですか?」

「おそらく、咲弥姫様が若のお傍に付かれた影響でしょうな。この老骨が代々の長きに渡り、この神代の家に仕えていたというのも、あるいはあるのかもしれませんが」

 不可思議なことを勘繰るように言うと、爺はふいと声から力を抜いた。

「まあ、そこから先は若様方に引き継いでいただきましょう。さ、あちらです」

 そして、爺の先導に従った拓矢は、開けた桟敷の間に出た。広く涼しげな空気を漂わせる草の匂いのする畳の広間は森とした静けさに満ちており、部屋の奥にある木段の違い棚には小さな生け花と茶器、それに一振りの古びた色をした木刀が飾ってある。飾りの少ない質素にして静謐なその部屋に漂う空気は、屋敷全体に漂っている霊気が集まっているような、木蓮の薫りのような深い色濃さを感じさせていた。

 その畳敷きの部屋の外、襖を隔てた庭に面した桟敷に、一つの人影が腰を下ろしていた。艶のある黒髪を武者の髷のように頭の後ろで紐止め、白灰色の羽織を羽織ったその人影は、ここに来るまでに拓矢達が感じていた、この屋敷に漂う霊気と同色の雰囲気を放っていた。静謐にして高貴、柔和にして荘厳、穏健にして鋭利――彼がこの屋敷の主であることは、言葉を待つまでもなく自然と察せられた。

 桟敷に静かに腰掛け、微風を浴びている彼の傍、線の細い少女がその腕に身を預けている。輝くように白い桜模様の振袖が、風に揺れて薄桜のように淡い彩を浮かべている。

 風に揺れる柳のような悠然としたその佇まいに、拓矢はその場に満ちる静謐を乱すのを恐れるように、動きを忘れて立ち尽くしてしまった。

「あちらが、源十郎様と咲弥姫様です。若、お連れしましたぞ」

 爺の言葉に、名を呼ばれた青年――斯道源十郎が、ゆっくりと目を拓矢の方に向ける。

 鋭くして穏やかなその視線が重なった時――深みを湛えたその黒い瞳には、その底に何か、自分のそれに似た暗いものが宿っているように、拓矢は感じた。


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