Cp.3-1 Calling from Blossom(3)

 朝食を終えて身支度を整えると、拓矢は乙姫に挨拶をして外に出た。

 空は薄白い雲に覆われていて、濾過された陽光が庭に降り注いでいる。さほど重苦しいわけでもなく、穏やかな空だった。

 微かに光る空を見上げて気を引き締めると、拓矢は瑠水に声をかける。

「それで、向こうの場所だけど……どうやって行こう」

「場所なら、案内があります。少しお待ちください」

 現界した瑠水は、右手を前に差し伸べるようにかざし、その手のひらを上に向けて開く。すると、彼女の手のひらの中心から桜色の細い糸が湧き上がって空中で編み上げられるように絡まり、やがてそれは小さな揚羽蝶の形を成した。

「それは……」

「お話しした、サクヤの伝心の力の一形態です。これが道を示してくれるそうです」

 瑠水の説明に、彼女の手のひらの中の蝶が返事のように小さく羽ばたく。

 そこまでは了解した拓矢だったが、すぐに別の懸念が浮かんでくる。

 この蝶が彩姫の力なら一般人の視野的な問題はないだろうが、向かう場所は遠かれ近かれおそらく未知の場所である。果たして、通常の交通機関を使って、時間までに間に合うものだろうか。もし大幅に時間をロスすれば、乙姫達との約束に遅れてしまうかもしれない。ああまで気にかけさせてしまっている以上、拓矢としてもそれだけは絶対に避けたかった。

 拓矢のそんな懸念を感じ取った瑠水が、提案を出した。

「拓矢。もう一度、飛行の練習をしてみませんか?」

「え?」

 言われた拓矢はすぐにその意味する所に辿り着き、懸念が一気に晴れていくのを見た。瑠水が提案してくれたそれは、現状にとって最も有効な手に思えるものだった。

 拓矢の了解を見取りながら、瑠水は念のために説明を重ねる。

「この間はスィリの暴走への対処のための急場の策でしたが、使い慣れるまでには至らなかったと思います。『翼』は移動手段としても役に立つものですし、使い慣れておけば後々にも大きな役に立つはずです。せっかくですし、もう一度『翼』を使ってみませんか?」

「そうだね。空なら渋滞も遅延もしないだろうし」

 拓矢の零した感想に、瑠水は、ふふ、と小さく笑うと、拓矢の背中に回り、拓矢の背に自らの背をぴたりと付けて背中合わせの体勢になると、拓矢に声をかけた。

「では、さっそく行きましょう。拓矢、一緒に詠ってください」

「わかった」

 瑠水の言葉の意味を察し、拓矢は心を静めると、背中合わせの瑠水と心を繋ぐ。心臓から細い管を通して、それを瑠水の伸ばす管と繋げる感覚。瑠水も同じことを試みていた。

 二つの心臓が繋がり、互いの思念が血流に乗って交換される感覚を、二人は共有する。血を通じて溶け合う心を感じながら、二人は同じ調子で魂の歌を紡ぎだした。

「《青き虹の欠片と魂の使徒(L shel auls lind Ixs land Iria)、今、二人、一つになりて翼の願いを紡ぐ(Al im meilte fal emklos)。我が背に宿りし光の双翼(Ze amsheal de lu Rafal)、その眠りより目覚めて星の鎖よりこの身を解き放ちたまえ(La als alkaid e ines milfald)》」

 重なる心、想いの血の熱さを互いに巡らせながら紡いだ言葉は二人の魂を昂ぶらせ、瑠水の彩姫としての存在の力を泉のように熱く湧き上がらせる。それは拓矢の紡ぐイメージに原力として流れ込んで、拓矢の想像力に対応した形態を形作る。

「《蒼聖碧流フル・エリミエル・基礎の形相(エイドス・イェソド)・翼の姿(ウィング)――『蒼の双翼(フェリエ・イオス)』》」

 二人の心の願いが最高潮で一つに融け合い弾けた時、青い光に包まれていた拓矢の背には、瑠水がその力となって形を成した青い光の翼が、鷺のような大きな羽を広げていた。

 発現した「翼」に神経を通すようにイメージして、拓矢と瑠水は心を交わす。

『発現は成功、機能状態も良好……だいぶスムーズになってきましたね』

「そうだね……やっぱり、感覚に慣れてきたっていうのが大きいかも」

 言いながら、翼の機能が問題ないことを確認した瑠水が、拓矢に発進を促した。

『では行きましょうか、拓矢。実際の飛行にも慣れておきましょう』

「そうだね、急がないといけないし……行くよ」

 言葉を返すと、拓矢は空中を飛翔する感覚をイメージし、その感覚に体を乗せるように勢い良く地を蹴って飛び上がった。その想いを巡らせた翼が拓矢の飛翔の願いを事象化し、幻想界の次元に存在位相を移した拓矢に、願いの力での飛行を実現させる。

 どう頑張っても人間が自力では空を飛べないのは翼がないのと重力の束縛によるからだが、幻想界では思念を具現化・事象化する力の使役によってこれを脱することができる。飛翔・瀕死からの治癒・精神への斬撃――これら、現在界の物理法則からは不可能な現象は皆、精神世界である幻想界の性質を利用した、イメージの具現化という形で可能になる。

 これまでの赤組との戦いや翠莉の暴走などでもそうだったが、命士は彩姫の力を発現し使役する際に、その力の異次元性を利用して存在を現実体から幻想体に転移させている。幻想体となった命士は現在界とは位相を異にするため、精神の通った人間以外には現在界からは認識されず、また幻想界における力の行使も現在界に影響を及ぼさないようにできる。

 拓矢は、背に広げた翼を風がすり抜けていくのを感じながら、家の上空まで高度を上げる。そこで落下しないように体勢を安定させながら、背で翼となった瑠水に声をかけた。

「瑠水、さっきの蝶、出せる?」

『ええ、こちらに。少し待ってください』

 翼と化した瑠水の返事と共に、拓矢の胸元、翼の根元が前で交差するあたりがぽっと光り、そこから桜色に光る蝶が姿を現した。蝶は拓矢のようにさほど羽ばたきもせず空中に漂い、やがて小さく羽ばたきながら、拓矢を先導するようにゆっくりと飛び始めた。

「この速さなら、追うのは難しくなさそうだけど……逆に、ちょっと遅いかも」

『飛行は案外速いものです。見失わないように注意して、行きましょう』

 言っているそばから、蝶は拓矢の懸念を察したのか、ぱたぱたと忙しなく羽ばたくと、空を滑るように飛び始めた。拓矢も見失わないように、ゆっくりと前進飛行を始める。

 以前のときと同じようにイメージを崩さないようにするが、以前のときより飛行することに難がない。無我夢中での飛行を経験した後での慣れというのもあるが、背中で翼を展開している瑠水の支えがより安定しているというのもあるらしかった。おかげで低速飛行には不安もなく、拓矢はゆっくりと飛びながら眼下に広がる神住原・彌原の景色を一望することもできた。

 遠く下方、低い空を覆う薄雲の霞の向こうに、神住市・彌原町の街並みが精巧なミニチュアのように広がっており、見慣れた場所から行ったことのない場所まで、全景を見渡すことができた。視線を動かせば旧市の境には街の中央を分かつように流れる御波川の悠然たる流れが、川向うにはガラス色のビルの林立する神住市新都の威容が、視線を上げれば地上と分かたれた薄白く光る空が厚みと深さを帯びて視界を満たしてくるのが見える。

 今までだったら――普通の人間のままだったらとても見ることのできなかった光景をその目に映しながら、拓矢は自身の身の回りの変化に遠望のように思いを向ける。

 空を飛ぶなんて、ずっと叶うはずのない夢物語のようなことでしかないと思っていた。この世界の物理法則は、人間にそんな越境を許してくれるようにはできていない。

 人はこの世界の枠内で生きるしかない。その外にあるものには、触れられない。

 拓矢はそれをそういうものだとわかろうとしながら、それを受け容れられないでいた。永遠に失った大切なもの、その傷跡に、癒えない痛みに、ずっと苛まれ続けていた。どれだけ現実に自分を慣らそうとしても、その痛みは足枷のように心を絶望の内に縛り続けていた。

 瑠水は、その境の先へ、叶うはずのなかった世界へ、自分を連れ出してくれた。

 それが、今視界いっぱいに広がっている光景だ。だから、今は彼女を翼にこの空に漂っていることが、今までは見られなかった世界を彼女と一緒に見ていることが、それだけで嬉しかった。瑠水がいてくれることで、自分は魂の自由を得られたように感じていた。

 出逢ってからここまでに経験してきたことは、すでに自分のそれまでをすっかり変質させていた。今や自分は、瑠水の存在を、その影響を抜きに自分の現在を語ることができない。

 瑠水は今や、自分の存在の一部だ。

 である以上、彼女が抱えている問題は、自分にとっても無視できないものだった。

 拓矢はおもむろに口を開き、背中で翼となっている瑠水に声をかけた。

「ねえ、瑠水」

『はい、何でしょう?』

「これから、どこへ行くんだっけ」

 青い空に歌うような澄んだ声に心を洗われながら訊いた拓矢に、瑠水は答えた。

『今向かっているのは、白の彩姫とその命士の御元です』

「白の彩姫って……別のイリアの組の所ってこと?」

 その話を聞いた途端、拓矢の胸中に反射的な警戒心が湧く。

 彩姫と命士の全員が全員赤組のような好戦的なペアではないという話も聞いてはいるし、先日の翠莉と真事のことを見ていればそれもわかるのだが、今度これから会う相手は果たしてどちらなのか。先日までの二件を経て、さすがの拓矢も別のペアと会うことには警戒しないではいられなかった。そのことへの配慮にも長じている瑠水が自分から会いに行くというのなら、そこまで危ないことにはならなさそうだが。

 拓矢のそんな胸中の不安を拭うように、瑠水は説明した。

『はい。《幽白彩姫フラウ=イリア咲弥サクヤ。白の色彩を司る彩姫です。彼女から私達に内密な話があるということで、こうして向かっている所です』

 瑠水の口調は、まるでこれから会いに行く昔馴染みを思い出すように穏やかだった。少なくとも接敵を警戒しているようには思えない。その様子に幾分心中の不安が晴れるのを感じながら、拓矢は訊いた。

「その子は、会っても大丈夫そうな子?」

『ええ、それなら心配はいらないでしょう。拓矢は先日、私達がスィリを助け出した際に、『花弁』を使ったことを憶えておいでですか?』

 瑠水の言葉に、拓矢はその思い当たる所を思い出す。

 先日、翠莉を助け出す戦いの時、幾度となく奇跡を起こしその行動を助けた、光の花弁。

 拓矢が思い当たったのを見取って、瑠水は続けて話した。

『あの花弁は、サクヤの力です。あの子は黒の魔女に侵されたスィリを助けるために、力を貸してくれました。であるのなら、心配はいらないでしょう』

 瑠水の言葉に、拓矢は頷く。そういうことなら、心配はなさそうだった。少なくとも、出逢い頭に衝突、ということにはならなそうだ。何もなければ、だが。

 疑惑が一つ氷解した拓矢だったが、すぐに別の疑問が首をもたげる。

「そうだといいんだけど……にしても、話って何なんだろう」

 それも、わざわざ個別で連絡を寄こし、直接の面会を希望するとは。仮にも敵対関係になりかねない他の彩姫や命士に不用意にそんなことをするとしたら、若干ハイリスクなように思えた。それだけの場を設けなければならないだけの話ということだろうか。

(話を聞いた限り、瑠水だからこそ信頼してもらえての話ってことだったけど……)

 いまいち腑に落ちない様子の拓矢に、瑠水が答えるように肩越しに言葉をかけた。

『サクヤは慎まやかで頭の良い子です。彩姫同士が敵対関係になりかねないことも理解した上で、交渉の相手に私達を選んだのでしょう。信頼を預けられるとは光栄なことです』

「ふーん……信用されてるってことなのかな」

 実感なさげに呟いた拓矢は、そう言えば、と、背中にいる瑠水に問う。

「瑠水は、その咲弥ちゃんがどんな話をしたいのか、聞いてるの?」

 拓矢の問いに、瑠水はわずかに間を置いて、いいえ、と答えた。

『私も、サクヤからは詳しいことは知らされていません。聞かされたのは……』

 そして、言うのを迷ったのか、さらに一息の間を置いて、言った。

『イェルの――黒の魔女の処遇に関わることだ、ということくらいです』

 黒の魔女。

 その名を耳にした途端、自らの胸中に複雑な思いが過ぎるのを、拓矢は感じた。

 瑠水を、そして翠莉を狂気の内に弄んだ、文字通りの黒い魔女。

 決して許すことはできない――最初の内は何の疑いもなくそう思っていた。

 だが、今彼女のことを思う時、拓矢の脳裏にはある忘れられない記憶が蘇る。

 翠莉を救うための戦いの中、一対一で対峙した時の、自分に向けられた彼女の目。

 黒く燃える炎のような、明らかな意思を宿して、自分に――白崎拓矢に向けられた瞳。

 そして、その時に彼女が口にした、明確な敵意を持って鋭く放たれた言葉。

 ――誰のせいだと思っているの……白崎拓矢! あなたが、あなたさえいなければ……‼

 まるで、彼女の凶行の原因が白崎拓矢じぶんにあるかのような色を帯びた言葉。

 仮にその仮想が本当だとして、拓矢にはそんな因果に思い当たる節が一切なかった。事実、拓矢は瑠水を救出する際より以前にあの黒の魔女と何らかの接触を持ったことは誓って一度もない。故に、恨まれるような因果もないはずだった。ただ、一つだけ――瑠水の奇策で彼女の心理を垣間見た時に見えた光景、そこから想像がつく、ある仮説を除いては。

 あの時から、拓矢は黒の魔女について、判然としない思いを抱き続けている。

 おそらく、彼女があのような凶行に走るようになったのには、何か理由があるはずだった。だが、それに自分がどのような関係を持っているのか、それは謎のままだった。あるいは自分が知らないだけの隠れた因果があるのかもしれないが、それを語るにしても、自分はそもそも「元・彩姫」であるという彼女のことを知らなすぎる。裏側がわからないのも道理だ。

 いずれにせよ、あの言葉が何を意味していたのか、拓矢は未だ十分に掴み切れていなかった。そういう意味では、黒の魔女について語るという今回の談話の場は、あるいはそうした疑惑を解く良い機会になるかもしれない。

 拓矢の胸中に複雑な思いが渦巻き始めたのを察したのか、瑠水が言葉をかけた。

『拓矢、情報がない以上、一人で下手に悩んでも仕方がありません。サクヤのことですから、おそらくこちらの欲しい情報にも当てをつけてくれているでしょう。せっかく厚意の招待を頂いたことですし、ここはこの機会を有効に活用させてもらいましょう』

「そうだね。一人で下手に悩んでも仕方ない、か」

 由果那や乙姫に折々指摘される、自分の悪い癖だ。

 瑠水の言葉に少しだけ自分の痛い所を突かれたような気がして、拓矢は小さく苦笑する。その目の先で、水先案内を務めていた白紅の蝶が、ふいにゆっくりと空を下り始めた。

「降りていく……?」

『どうやら、もう近いようですね。追いましょう』

 瑠水の言葉に拓矢は従い、白光の蝶を追って空を降り始めながら、ふと思案した。

 今度の話次第では、自分の抱えている疑惑のいくつかでも解明する糸口が掴めるかもしれない。

 だが……何故だろう。

 拓矢はその肯定的な見方とは何か別の違和感が、胸中に靄のように湧くのを感じていた。

 それは、本当にそれこそ自分の悪癖のせい――そう、単なる考え過ぎなのかもしれない。

 瑠水が、自分から黒の魔女のことについて――自分と同じ「元・彩姫」であり、旧知の、姉妹同然の仲でもあるはずの彼女のことについて、あまり説明をしてくれていない、などと。

 ましてや、瑠水がそのことについて意図的に説明を避けようとしている、と考えるなどと。

(考え過ぎだよね……きっと)

 つまらない憶測を頭の中から追い払い、拓矢は目的地に近い飛行を続けた。

 しかし何故か、どうしてもそのつまらない疑念は、なかなか晴れなかった。


 その疑念が的外れでなかったことを、拓矢は、少し後に知ることになる。


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