Cp.3-1 Calling from Blossom(1)

「ん、っ……」

 夜中、ふいに体に甘い疼きを感じて、瑠水はむずかるように眠りから覚めた。

 まるで愛撫されるような心地よい痺れが、全身に夢の名残のように残っていた。

 軽い火照りを覚えながら、瑠水は思わず、隣に横になっている拓矢を見る。

 拓矢は、安らかそうに、静かな寝息を立てていた。

(拓矢では……ありませんね。誰か、この夜に睦みあってでもいるのでしょうか)

 何処の誰かは存じないが少し羨ましい、と内心で小さく思いつつ、瑠水は心身をじくじくと甘美に疼かせる感覚を体になじませて鎮めながら、探れる限りの記憶を探る。この夜はお互い、いつの間にか眠りに入っていたはずだった。

 瑠水と拓矢は精神を同化させているため互いの心意をいつでも交信させることができるが、逆にその交信を遮断することもできる。夢の中での交信は日常で使う表層意識を使っていないため、現実の頭の疲労に直接は繋がらない仕組みではあるのだが、瑠水は拓矢の心身の健康を慮り、彼の疲れを感じたときは遠慮なく休ませることにしているのだった。

 拓矢には心身ともに休息が必要であることを、瑠水も彼の経緯から承知している。そして、自分が彼のその休息に加われないことを不満に感じていたりはしなかった。

「拓矢……」

 瑠水は呟くように愛する人の名を呼び、その額にそっと手を触れる。そこから、彼の精神の安らかなたゆたいを感じ、瑠水は自らも安らぎに心が満ちるのを感じた。

 自分の存在が彼にとっての安息を与えるものであることを、瑠水は彼の心を感じることで知り、それは彼女を支える確信になっている。自分が彼に与えられる安息と、眠りによる安息はそれぞれに別のものであることも知っているから、瑠水はそれで不安になることはなかった。今は彼の心が安らかな眠りに癒されていくのをただ祈るばかりである。

 言葉を交わさなくても、時に少し離れても、彼は自分を信じ、愛してくれている。それを確信していられることが、瑠水には何よりの喜びだった。

(由果那には相変わらず厳しく言われていますけれど……今なら、私も拓矢の一部と言っても、差し支えないでしょうか)

 瑠水は、拓矢の静かな寝顔に心の潤いを感じながら、自らに問うように呟いた。

 瑠水が拓矢の下に舞い降りてから、彼の家族と友人達を巻き込んだ最初の頃や、翠莉達に巻き込まれた件を経て、そろそろ一カ月になる。今はこれといった他の彩姫や命士の接近や接触もなく、拓矢と瑠水は束の間の小康期間を過ごしていた。

 彼がこの安らかな眠りを手に入れるまでに、自分と出会う前、そして自分と出会った後に、彼が、そして彼を想う周りの人々がそれぞれ魂を削るような途方もない苦難の日々を乗り越えてきたかを、今の瑠水は知っている。そうして培われた彼の心の安らぎの中に自分もその一部としていられることを、瑠水は喜びに思い、誇りに思う。そして、彼の家族達と同じように、その安らぎを守り続けるために戦わなければならないことを、彼女は他の家族と同じかそれ以上にその世界に関わる者として、強く自身に戒めていた。

(いつ、どこで、誰が襲ってくるかわからない)

 そう思うのは、もちろん他の彩姫と命士について、である。特に、過去の二件にいずれも凶悪な襲撃をかけてきた黒の魔女について、瑠水は並々ならない懸念を感じていた。

 先日の緑組と魔女の一件以来、瑠水は拓矢に心労をかけない程度に気をつけながら、警戒を強めていた。様子見程度が多く見られるとはいえ積極的に戦いを続けるつもりの赤組に、争うつもりのなかった翠莉を執拗に追い詰めた黒の魔女の執念、そして未だ接触がなく、動向の把握できない他の彩姫と命士組の動き。

(それに……私の時間も、どれだけ残されているかわからない)

 加えて、彩姫である彼女が存在の根本として架せられているイリスとの存在齟齬の問題も、何一つ解消されたわけではない。彼女が感じた体の疼きが仮に他の彩姫の感覚を共有しているイリスの存在を通じて感じ取ったものだとしたら、それはわずかばかりでも彼女の中にあるイリスの存在が活性化している可能性と見られる。今はまだイリスに意識を阻害されている兆候はないが、この状態もいつどのように変化してしまうかわからない。

 脅威や懸念となりうるものは、まだいくつも考えられる。

 自分はそれらのすべてから、拓矢を守らなければならない。

(せめて、手を取り合える仲間でもいれば、少しは気も楽なのでしょうけど……)

 胸中で呟き、思わず口から青色吐息を零した瑠水は、すぐに自分を戒める。

 たとえどれだけの相手を敵に回したとしても、彼と自分を守れるのは自分しかいない。弱音を吐いているわけにはいかなかった。

(拓矢……あなたのその安らぎを、私は必ず守ります)

 瑠水は拓矢の前髪をそっと撫でながら自らに誓うように心の奥でそっと呟くと、ふと気の乱れを鎮めようと思い立って、窓のカーテンの中にそっと身を滑り込ませた。

 夜空を煌々と照らす青白い月の光が、ガラス窓越しに瑠水の全身に降り注ぐ。

「素敵な夜空ですよ……拓矢」

 氷のように冷たい月の光に心を洗われながら、瑠水は陶然と呟いた。この心の静けさと清らかさを分け合いたいと思うくらい、それは美しく澄み切った青い夜空だった。

(……?)

 と、瑠水は静かに澄んでいく心に、ふと小さな違和感を感じた。さながら、この空に満ちる青い闇の中に、ひとつの小さな光が紛れ込んできたような。

 瑠水は一瞬警戒を抱いたが、やがてその感覚が徐々に近づいてくるにつれて、それが警戒するような敵意を全く持ち合わせていないことを感じ取った。むしろ、そこにはこちらの心に触れようと試みているような、穏やかな接触の思いがあった。

 やがて、その感覚の正体は、夜闇の中をひらひらと舞い飛んで、瑠水の元まで現れた。

 それは、鱗粉のような光をきらきらと振りまいてゆっくりと飛ぶ、桜色に光る蝶だった。夜闇の中を漂うように飛んでいた蝶は徐々に瑠水の眺めている窓の方に近づき、やがてガラスの窓をするりとすり抜けて、瑠水の広げた手の中に舞い降りた。

「これは……」

 瑠水がその「力」に見当がつくと同時、手のひらの中の蝶が、瑠水だけに聞こえる言葉を仲介する。

『ルミナ姉様。夜分に失礼いたします。起こしてしまわれましたか?』

 控えめながら折り目正しい、落ち着いた調子の言葉と、伝わってくる風雅の心。

 瑠水はそれでこの蝶の出所を完全に察し、警戒の緊張がほぐれるのを感じた。

「ちょうど夜涼みに起きていた所です。気にしないでください、サクヤ」

『そうでしたか……お相手の方もご一緒ですか?』

 蝶の先にいる声の主――《幽白彩姫フラウ=イリア》咲弥の言葉に、瑠水は穏やかな心持になりながらも、事情を計ろうとする。

「拓矢は休んでいます。ところでどうしたのですか、サクヤ。こんな夜中に、何かお話でも?」

『ええ。夜分に申し訳ありません。善は急げと思いまして。ルミナ姉様とそのお相手の方を信用して、お頼みしたいことがあるのです』

「頼み……?」

 突然の話に面食らう瑠水に、蝶の先の声――咲弥は続けた。

『こんな時間に長話も何ですので、近い内に機を見て私どもの所まで来て頂けますでしょうか。場所はそこの蝶を介してご案内いたします。できることなら、久々に姉様のお顔を見ながら、ゆっくりお話がしたいです』

「待って……せめて教えて。その話というのは、何について?」

 瑠水の追及に、咲弥は一呼吸を置いてから、告げた。

『姉様方に、ご協力いただきたいことがあるのです。私達彩姫の、今後の方策について。そして……イェル姉様の暴走を止めるための行動について』

「!」

 告げられたその言葉に、瑠水は一瞬でサクヤの伝えようとする事情を理解した。それが、自分達をも動かす避けられない転機であるということも。

 咲弥の、控えめながら落ち着いた声は続く。

『僭越ながら、姉様のお相手の方はイェル姉様のことについてまだ多くをご存じないご様子でした。それをご説明させていただく場にもなるかと思うのですが』

 咲弥の提案に、瑠水はわずかに思案した後、小さく息を吐いて、答えを返した。

「そうですね。彼女がここまで危険になってしまっている以上、いつまでも真実を隠したままにもしてはおけない。けれど……」

 瑠水はそこで、言葉を濁してしまう。

 彼女が拓矢に黒の魔女の真実を話せなかったのには、理由がある。それは彼女に関わることであると同時に、拓矢自身にも関わることだったからだ。その真実を明かすことは、拓矢に再び予期し得なかった懸念を与えてしまうことになりかねなかった。

 だが、咲弥に言った通り、彼女――黒の魔女がこのまま放置しておけないほど危険な存在になりつつあるのもまた事実だった。咲弥の思惑も含め、彼女に対する心構えを形作る意味でも、彼女のことについては今こそ話しておかなくてはならないことだった。

 そういう意味では、咲弥のこの接触は、瑠水にとってまさに好機だった。瑠水は迷いを振り切り、蝶の先にいる咲弥に告げた。

「わかりました。拓矢には後ほどその旨を話しておきます。彼の了承を得られたなら、二人でそちらへ伺わせてもらいます。そのことについては、また後ほど伝えればよいかしら」

『はい。差し支えなければ、そちらに遣わせた蝶を姉様の中にお収めください。私はそれを介して事情を了承しますので。無論、姉様方の邪魔をするようなことはいたしません』

 事情の了承に喜びの色を滲ませる咲弥の言葉に、瑠水は最後にひとつだけ、問いを発した。

「サクヤ。あなたは……あなた達は、私達を信用しているのですか?」

 瑠水の問いに、咲弥はわずかな間を置いた後、落ち着いた声で答えた。

『勿論です。姉様こそ、私を信用してくださらないのですか』

 心持ちどこか不満げな、打算のない、素直な言葉。

 伝わってくるその真摯な心に、瑠水はほっとした。

「いいえ、そんなことはありません。ただ、ここ最近いろいろと重なって、少し心が毛羽立っていただけです。疑ってごめんなさい、サクヤ」

『お気になさらないでください。誰が信に足るかわからない以上、不安に思われるお気持ちはわかります。そんな中だからこそ、私は姉様にお話を差し上げたのです』

 咲弥のその言葉には、疑心暗鬼を乗り越えようとする確とした意志が現れていた。瑠水は彼女のその意志を感じ取り、自らもその意志に向かうのを感じた。

「ええ、ありがとうサクヤ。では、この蝶は少しお借りします。返事は少しだけ待っていてください」

『畏まりました。源十郎様共々お待ちしております。それでは、どうか良い夜を』

 咲弥のその言葉が切れると共に、瑠水の手のひらの上にあった蝶が桜色の光の繊維となって解け、瑠水の手のひらの中に流れ込むように融けていった。溶け込んだ蝶は瑠水の霊魂の血流と同化し、瑠水の力と混ざって彼女の体内に収められた。

 夜の中、唐突に訪れた一連の会話を終えた瑠水は、事態が少なからず動き出す予感を感じていた。

 咲弥の話、黒の魔女の話……いずれも、自分達の状況に何らかの新しい情報や変化をもたらすことになるだろう。場合によってはそれらが新たな行動の方針や引き金になるかもしれない。

「ひとまず……明朝、さっそく拓矢に伝えなければいけませんね」

 安らかな寝息を立てる拓矢の寝顔を横目に見ながら、瑠水は拓矢を刺激しないよう胸中で呟くに留めながら、唐突に訪れた転機に向けて、気を引き締めていた。


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