Cp.3 Pr. Before The Truth of Black

 涼やかな微風に揺れて鳴る風鈴の音が響く、深く静かな闇寂の夜。

 月の光に青く染まった古めかしくも堅牢な和式造りの屋敷の縁側に、一人の袴姿の青年が腰かけて、冷酒の盃を口にしていた。夜に溶けるような色の長い黒髪は湯上りなのか滑らかな艶を帯びており、それを侍の髷よろしく後ろで緩く一本に結わえている。口にする酒にまどろみながらも鋭さを失わない眼光に、刃のように細く締まった体躯と緩みのない表情。磨き上げられた日本刀を髣髴ほうふつとさせる空気を纏う彼は、さながら現代に流れて生き残る旧き武士を思わせる。

 青い月の光の差し込む庭先には、一本の幹の太い大きな桜の木が立っている。この屋敷と雨風の月日を共にし、今やこの家を護る霊樹と云われる噂も立つ程の名木。時は五月に入り、既に花の盛りは過ぎたその桜の木を、青年はしかし夜桜見物とばかりに悠然と構えながら、月明かりを浴びる庭を静かに賞然と眺めていた。

 一陣、小さな風が吹いて、青年の細面と長い髪を遊ぶように撫でる。

 青年は瞳の奥にあるものを見つめるように小さく目を閉じ、心の眼を研ぎ澄ましてその闇の中に瞬く光の色を捉えると、ゆっくりと目を開いた。

 その時には彼の眼には、夜闇の幻庵に咲き乱れる、桜花の舞が映っていた。

 夜の深い青を染め返すような眩い白桜の花弁の吹雪が、幽幻の風に乗って小さな庭を舞い踊っている。花の吹雪の中心には、薄い白桜色の短い髪をした振り袖姿の少女が小さな扇を手に、風の流れの中に緩やかに舞っていた。彼女の扇の一振りに小さな桜色の波が生まれ、舞い踊る桜光の花弁を風の流れに乗せている。青年は狭い庭を埋め尽くす白花の舞いと、その光景の中心にいる彼女の儚くも艶やかな踊りを肴に、束の間の夜涼みを楽しんでいた。

 やがて、花吹雪の中心で舞っていた少女が、扇の軽い一振りに力を込めた。彼女の心の昂りに惹かれあうように、渦を巻いていた白桜の花弁が少女の扇捌きに合わせ、激流のようにその切っ先の導く軌跡を追従する。その場でくるくると回る少女の周囲を花弁の渦が埋め尽くし、少女を柱に形成された桜光の竜巻は、夜の青までも煌々と照らし出した。

!」

 心気一声、少女が流れるような回転の勢いのまま腕を上に持っていき、パチン、と音を鳴らして威勢よく扇を閉じた。途端、彼女を取り巻いていた無数の花弁は桜色の光となって弾け、しばし柔らかな風に乗って夜の庭を漂った後、夜気の中にすうっと溶けていった。

 庭の中心で舞を終えた少女は小さく息を吐くと、縁側で杯を傾ける青年に静々とした足取りで近づいた。

「いかがでしたか、源十郎様」

「眼福だ。力の顕れにも遜色はない。ご苦労、咲弥サクヤ。お前も飲め」

かたじけなく存します。では、頂きます」

 咲弥と呼ばれた少女は、源十郎と呼んだ青年の隣に腰掛け、彼の注いだ冷酒の盃に小さな桜色の口をつける。源十郎青年は何も言わず、霊質の酒を淑やかに味わう彼女の嫋やかな仕草を愛でるように見ていた。

 眩い桜は夜気に溶け、青い月光が静寂の夜に涼やかに満ちている。

 しばし夜気の中に心を鎮めながら、源十郎と咲弥は小さく言葉を交わした。

「静かだな」

「ええ。月の光も美しくて……素敵な夜でございますね」

 源十郎の呟くような言葉に、咲弥は静かに恍惚を滲ませて答え、縁側に盃をことりと置いた。わずかに伏せられたその瞳の陰りを見た源十郎は盃から口を離し、咲弥に言葉をかけた。

「少し疲れているようだな、咲弥」

 源十郎の言葉に、咲弥は小さく息を吐くと、申し訳なさそうに言った。

「見抜かれてしまいましたか。お恥ずかしい限りです」

「何を恥じることがある。この程度のことに身を焼いていては、ねやの心持ちなど言葉にできないだろう。お前の身体はさながら香り立つ白桃の果実、酔い覚ましには打ってつけだが」

「お戯れを……源十郎様、お酒が回ってらっしゃいますね。お控えくださいませ」

「すまんな。お前が夜に咲く様があまりに幻妖で、つい我を忘れてしまった」

 源十郎は小さく笑って盃を呷る。咲弥はその言葉にもの言いたげな顔をしたが、すぐにその気持ちを心の中で溶かし、頬を淡く染めながら源十郎に寄り添うように身を寄せた。

 二人が無言の時を交わす中、夜風が風鈴を揺らす音はなおも涼やかに響いている。

 ふいに、源十郎が口を開いた。

「彼女のことか。お前の心に食い込んでいるのは」

 その言葉に、咲弥は源十郎の腕に身を寄せたまま、物憂げに口にした。

「ええ。イェル姉様の狂いようは目を覆いたくなるようでした。あのままではイェル姉様のみならず、他の方々にも何か禍々しい災いがもたらされそうで、胸が重いです。お酒もろくにたのしめません」

「そうか」

 源十郎は短く答えて、空になった盃を置く。

 再びしばしの沈黙が夜の庭に流れた後、咲弥が思い立ったように口を開いた。

「源十郎様。お聞きいただきたいことがございます」

 咲弥の言葉に、源十郎は己の腕に身を寄せる、儚げな少女の桜色の瞳を眺める。

「何だ。話してみろ」

「イェル姉様を治めるために、他の彩姫と命士の方々に協力を仰ぎたいのです」

 決然と口にされた咲弥の言葉に、源十郎は、ふむ、と呟き、徳利から盃に酒を注ぐ。源十郎が聞いていることを見取りながら、咲弥は話を続けた。

「先日の件の時、イェル姉様は確かに私の言葉に応えてくれました。今のイェル姉様には、まだ私達の声が届くのです。今ならば、まだ間に合うかもしれません」

 咲弥の言葉に、源十郎は酒を注ぎ終わった徳利を縁側に置き、ふむ、と小さく唸った。

「だが、その話を誰に振る。他の彩姫や命士が皆、お前のように彼女を助けたいと思っているとは限らんだろう。元々我らを敵と見ている者もいれば、中には彼女に害された者もいる。下手に話を持ちかければ、相手によってはこちらが逆に睨まれるかもしれん」

 源十郎の指摘に、咲弥はしかし臆することなく提案を口にした。

「心当たりがあります。私のこの思いに共感を示していただけそうな方が」

 咲弥の言葉に、源十郎は冷酒を注いだ盃を手に持ちながら、呟くように言った。

「青殿か」

「はい。あの方々なら、きっと私の思いを理解してくださるでしょう。スィリとそのお相手様も信頼には足りますが、あの子にはあまり大きな悩みを背負わせたくありません。なので、まずはルミナ姉様を頼ってみたいと思います」

 決意を秘めた咲弥の言葉に、源十郎は、そうか、と呟き、口元を渋くする。

「あくまで己が身に咎を背負うつもりか。不相応な無茶をする」

「申し訳ありません。ですが、このことは私自らの想いによりますゆえ、私が背負うより他にないのです。たとえ、ルクスや他の姉様方に目を向けられるとしても」

 その細い身に全ての責を背負おうとする咲弥の言葉に、源十郎は腕を回し、その細く可憐な肩をそっと柔らかな力で抱き寄せた。

 いきなりのことに驚く咲弥に、源十郎は言う。

「痩せ我慢をするな。お前は私を癒す花、私はお前を守る剣。そう誓った仲だろう」

「源十郎様……」

 突然のことに虚を衝かれた咲弥に、源十郎は諭すように言葉を重ねた。

「他者をなるべく傷つけないよう心掛けるのはお前の美点だが、それではどうにもならない時のために私がいる。私はお前の力として、お前を助けると決めた身だ。いかなる責も、お前ひとりには背負わせん。それが私の『善』――私の力になると誓ってくれたお前との、自らに課した誓約だ。そうだろう、咲弥」

 源十郎の柔らかな力のこもった言葉に、咲弥の心の緊張がほぐれていく。

「申し訳ございません、源十郎様」

「謝ることはない。お前がお前の願いを果たすように、私は私の役割を果たすというだけだ」

 言って、源十郎はもう一度ぐっと盃を呷ると、視線に刃のような鋭さを見せた。

「それに、お前の見込みは間違っていないだろう。現状でこの話を持ちかける相手としては、私も彼らが最も妥当だと思う。行動の機としても、早きに越したことはなかろう」

 そして、隣に身を寄せる伴侶たる幽霊の身を力を込めて抱き寄せ、己が意志と使命を確かめるように言った。

「かつてお前が私を助けてくれたように、私はお前の命士として、お前を助ける。それを果たすべき時がようやく来たというだけのことだ。お前が気に病む必要はない」

「はい。ありがとうございます、源十郎様」

 やわらかくほぐれた咲弥の言葉に、源十郎は空になった盃を置いた。

 しばし、酒の巡った二人は、静かな夜気に頭と頬を冷やす。

 ふいに、自分を抱く源十郎の腕に微かな情感が走ったのを、咲弥は鋭敏に感じ取った。

「咲弥」

 源十郎が、呼びかけてくる。

 その声色に含まれるものを察しながら、咲弥はつとめて冷静に答えた。

「はい」

「だいぶ飲んでしまったようだ。酔い覚ましに、桃が食べたくなった」

 その言葉に滲む感情を察した咲弥の全身に、甘い緊張の痺れが走る。

「爺様に取って来ていただきましょうか?」

「その必要はない。実に見事な桃が、目の前にある」

 その言葉と共に、咲弥を包み抱いていた源十郎の腕がゆっくりと動き、細い肩から滑らかな背中、小ぶりな尻に至るまでを愛撫するようにじっくりと撫でまわす。

「源十郎様……」

 総身にぞくりと甘美な緊張を感じながら、咲弥は頬を染め、控えめに口にした。

「私の身など、味わうには未熟に過ぎますよ」

「構わない。果実は瑞々しいものが好みだ」

 源十郎の言葉に、咲弥はゆっくりと伏せていた顔を上げて、自らを包み見下ろす源十郎の顔を腕の中から見上げた。透き通る桜石のような瞳が、潤いを帯びて月の光に煌いていた。

 月明かりの下、二人はそっと唇を重ね、その甘さをついばみ合う。その間に、咲弥は源十郎の手に手伝われながら振袖を解いていた。腰帯が解けて桜模様の衣が緩み、白桃のように甘く香り立つきめの細かい真っ白な肩が露わになる。

「白く、甘く薫る……実に瑞々しい」

「ん……お戯れを……」

 愛でるように呟く源十郎に、咲弥は最後の抵抗とばかりに小さく身をよじった。それを目にする源十郎は、その答えをわかっていながら口にする。

「嫌か?」

 源十郎の問いに、咲弥は初花のような恥じらいに火照る身体と頬を薄紅に染めながら、ゆっくりと首を振った。

「いいえ……源十郎様が、およろこびになるのなら」

「そうか」

 源十郎は静かに答え、月影が落とす影の中、咲弥に身を寄せていく。

 それきり言葉はなく、咲弥の漏らす甘い吐息の中、二つの影は重なっていった。

  

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