Cp.1-4 Haze of Deep Grief(5)
三人が待っている間に拓矢は自室で外着の私服に着替え、三人と一緒に家を出て、幸紀の入院している桐谷病院に向かった。
奈美のクッキーを齧りながら、拓矢は放心したように空を見上げながら歩く。広く開けた空は青く澄んでいて、太陽の光がその澄み渡る青の彩度を窮めていた。美しい色彩は、拓矢の心にしかし傷口に沁みるように鈍く滲んで感じられた。その目に映る色彩は、全てどことなく霞むようにぼんやりして見えた。
先導するように由果那が前を歩き、拓矢を守るように乙姫と奈美が両隣に並んで歩いていた。瑠水ではないが、その時の三人の心が自分に向けられているのを拓矢は感じた。
大切な人達が傍にいてくれている――その事実が何よりもその心を語っているように思えて、拓矢は心が温かい水で包まれていくような安堵感を覚えていた。
「拓くん」
しばらく歩いたところで、ふいに奈美が口を開いた。彼女にしては珍しい、控えめながら強い意志を宿した声だった。
「なに?」
拓矢は奈美の方に振り向いた。奈美は俯いて、言いにくそうに言った。
「あの子の……瑠水ちゃんのこと、好きなの?」
胸を突くような、真摯な声だった。
拓矢の心がズキンと痛んだ。それは、奈美への申し訳なさ、だけではなかった。
その時心に浮かんでいたのは、瑠水のことだった。彼女を守れなかったこと、その後悔。それが後悔になる理由に、その時拓矢は気付きかけていた。
そうだ。僕は彼女を守りたかったんだ。
彼女が異世界の存在であるとか、使命を背負っているとか、関わればまた危険な目に遭うとか、そんな理屈はどうでもよくなっていた。今の自分にとって、瑠水はもう大切な存在だった。奈美と、由果那と、乙姫と、幸紀と――自分の周りにいる全ての大切な人達と同じように、そしておそらく今は一番……大切で、特別な人だった。
「……うん」
拓矢は前を向いて小さく頷いた。その言葉には切なる意志が込められていた。
「…………そっか」
奈美はそれを聞いてしばらく口を噤んだ後、寂しげな声でそうぽつりと言った。
由果那は、聞こえていなかったのか、思惑があったのか、何も言ってこなかった。
空はどこまでも澄んでいて、静かだった。青の薫りを溶かしたような爽やかな風がさらりと吹いて、奈美の亜麻色の髪をそっと揺らした。
✢
「おー、よく来てくれた」
個室病室の扉を開けると、病院着でベッドから上半身を起こして、幸紀は拓矢達を出迎えた。その表情は快活なものだった。
「進藤くん……もう、平気なの?」
「平気も平気さ。俺はそう簡単にくたばる体じゃないみたいだ。まあ、だいぶ死線をさまよってたみたいだけどな」
「あんたのタフさは昔からだしね……まったく。無事でよかったわ」
由果那の言葉に、幸紀は笑って応えた。彼はこういう時に無理をした表情を作る人間ではない。逆に言えば、どんな状況でも無理をせずに笑っていられるというのはそれだけですごいことなのだったが。
「で、具合はどうなのよ。ホントに何ともなかったの?」
「ああ、ビックリするほど身体の方は何にもなかったらしい。だが意識が戻るのに二日ほどかかってたらしいな。胸元が血が噴き出すみたいに熱かった以外の記憶がないよ。はは」
「はは、って……笑えないわよ、それ」
「本当に、無事でよかった……進藤君」
「おっと、泣いてくれるなよ奈美。拓矢の分の涙がもったいねえぞ?」
「ふふ、ジョークが飛ばせるようなら心配なさそうね。元気そうでよかったわ」
「おっ、さすが乙姫さん、わかってくれてますね。ありゃしゃす」
あっけらかんと話す友人達の前で、拓矢は心が痛むのを感じた。
(ユキが生死をさまよったのは、僕のせいなのに)
そう感じた拓矢は、幸紀に謝らずにはいられなかった。
「ユキ、ごめん……僕のせいで……」
「あー、拓矢。それはもう言ってくれるな」
拓矢の謝罪の言葉に、幸紀はそれを諫めるように真剣な口調になった。
「お前が俺に本気で謝ろうとしてくれてるのはわかる。けど、それに自分の取った行動を否定する気持ちがあるのなら、俺はあんまり嬉しくない。あの時俺が取った行動だって、俺の意志でやったことだ。謝られる筋合いのことじゃねえよ」
そう話すと、何より、と、幸紀は拓矢に頼もしい表情を見せた。
「俺もお前も、こうして生きてる。だからもうそれは気にしないでくれ」
そう諭すと、幸紀は安心しろとばかりにまた快活な笑顔になった。拓矢はその笑顔と言葉に心の傷をひとつ埋められた気がした。どこまでも大きな友人だった。
「まあ、でもこれで、お前にもあの時の俺達の気持ちが少しはわかったんじゃないか、って思うけどな」
幸紀はそう言いながら拓矢を見た。拓矢が幸紀に向かい合う中、奈美も由果那も乙姫も拓矢のことを見ていた。
拓矢は幸紀の言葉を理解する。あの時――二年前、傷心した自分が彌原大橋から御波川に身を投げ、命を捨てようとした時。
大切な人が傷つくこと、いなくなってしまうことの恐怖、悲しさ。守れなかった後悔、自分の命を懸けてでも大切な人を守りたかった思い。
今なら、痛いほどにわかる。
「……ユキ。みんなにも、聞いてほしいことがある」
拓矢は、おもむろにそう言った。全員の注意が拓矢に向けられる。
拓矢は意を決して、言った。
「僕、瑠水を助けに行きたいんだ」
そう切り出した後、瑠水が囚われているという現状について話した。
「この世界にはいないって……じゃあ、どうやって助けに行くのよ?」
乙姫が真っ当な疑問を口にする。
「……わからない。どうすればいいのか……」
拓矢は落胆するしかなかった。そればかりは感情論でどうにかなる問題ではなかった。しかし、意外にも道はあるものだった。
「いや……手はあるかもしれん」
口を開いたのは神主の息子、幸紀だった。虚を突かれた拓矢が訊き返す。
「どういうこと?」
「うちの爺さん……先代神主は、神通力……神力の類を少しだが使えるっていうのを聞いたことがある。お前の言う幻想界ってのがどういうものかもわからんし、うちの爺さんが実際に力を使えるかもまだわからん。それに仮に力が使えたとして、それがこの問題の解決になるかもわからんが……他に手がかりが一切ない以上、頼れるのはそれしかないと思う」
幸紀が示したその方策は、拓矢にとってまさに一筋の希望の光に思えた。だが、
「本当?」
「ああ。乙姫さん、電話貸してくれませんか。うちに連絡して――」
「待ちなさい」
その会話を、由果那が鋭く遮った。そして、かつてないほど真剣な憤激を浮かべた表情をして拓矢に告げた。
「あたしは認めないわよ。あんなポッと出のわけのわかんない子のために、またのこのこと危険に晒されに行くなんて」
「由果那ちゃん……」
奈美が由果那を悲しげな目で見る。
「あんたねえ……あんなことになったのに、まだ懲りないの⁉ いい加減に――」
「待て、由果那」
拓矢に突っかかろうとした由果那を幸紀が制した。由果那は納得いかないとばかりに幸紀にもキッと刺すような視線を向けて、反駁する。
「あんたもよ、ユキ! 拓矢がまた危ないことに首を突っ込もうとするのを、黙って見てろっていうの⁉ あんただって危険な目に遭ったのに!」
「さっきも言ったように、俺のことはもういい。それに、どんなことであれ拓矢の気持ちを無視して行動を縛るのは俺は感心しないな」
幸紀のあくまで冷静な言葉に、由果那は辛抱できないとばかりに言葉を連ねる。
「それで拓矢が危険な目に遭うってわかってても、あんたはそんなことが言えるの?」
「勘違いするなよ。俺だって拓矢を危険に晒したくなんてない。ただ、拓矢が心の底から望むことがあるのなら、それを俺達の一存で握りつぶすようなことはしたくないってことだ」
辛辣な由果那に対する幸紀も、どこまでも真剣な口調だった。
「俺だって、拓矢には危険な目にわざわざ遭ってほしくはないし、自分を大切にしてほしい。けど、それと同じくらい、拓矢に自由に生きていてほしいんだ。あの頃みたいに心を閉ざすことなく、自由にな。お前だって、そう思ってるだろう?」
「……っ……」
幸紀の言葉に由果那は悔しそうに唇を噛む。言いくるめられていることではなく、彼の言いたいことがわかりすぎるほどにわかるゆえに、根本では同じことを思っている自分達がそれでも食い違ってしまうことが、もどかしいのだった。
「そんなの、わかってるわよ……あたしだって、拓矢に元気でいてほしい! 無理しないで、笑っていてほしい! でも、だからこそ、拓矢に危ない目に遭ってほしくなんてないの!」
激した由果那は、しばし荒い息を吐いた後、熱を秘めた冷静な口調で言った。
「……あんたの言ってることもわかるわよ、ユキ。でも、あたしはやっぱりそうですかって簡単には思えない。あんただって、自分が死にそうな目に遭って拓矢がどれだけ心配したかぐらい、想像できるでしょ。あんたもあたしも、それと同じ思いをしてたってことも」
由果那はそう言って幸紀と視線を交わした。拓矢はそれを見ていながら、交錯する二人の視線が、ぶつかり合うと同時に何かを通じ合わせようとしているように思えた。
拓矢の意志を尊重しようとする幸紀と、拓矢の身の安全を願う由果那。その想いの表し方が異なっているだけで、二人の想い――拓矢に生きていてほしいという願いは同じものだった。
そうなった場合、二人だけでは解決できないならば。
皮肉にも、『彼女』は立場としても意志としても、その間にいた。
「奈美。あんたはどう思う?」
由果那が問いかけ、幸紀も拓矢も奈美に目を向ける。今この状況で、彼女の意見は方向を決めうるものになりえた。
そして――彼女にも、思うところがあった。
「私は…………」
奈美は心の奥に渦巻く想いを感じながら、拓矢を見つめた。
見つめ返す拓矢の答えを待つ切実な瞳の、その心に映っている人の姿が、奈美には見えた気がした。
奈美は拓矢の瞳にそれを見取って、胸に深い悲しみを覚えた。
拓矢に想いを寄せる奈美にしてみれば、拓矢に無事でいてほしいという願いはこの場の誰にも負けないほど強い。それが、恋敵のようなものである瑠水を危険を冒してまで救けに行くなどという話になれば、奈美はどちらの方から考えても止めに入るというのが自然なはずだった。
拓矢に生きていてほしい。そばにいてほしい――奈美にとってその想いはこの場の誰とも同じように強く、そして同時にその質と温度を異にする、特別な強さを持っていた。独占欲や打算というのではなく、それは拓矢を想うがゆえの、純粋な気持ちだった。
「……私も、拓くんには危ない目に遭ってほしくない。……けど」
だから、それ故に――拓矢のことを想って、奈美は心を決めた。
「拓くんがあの子を大切に想っているのなら……守りたいと思うのなら、守ってあげてほしい」
「奈美……あんた……」
奈美のその決断に、由果那は驚きを隠せなかった。
「そんな……あんた、本気なの⁉」
「うん」
重く、思いを込めた頷きを返す奈美に、由果那が奈美を考え直させようとしたのか、彼女なりに正当に考えられる理由を突きつける。
「あの子に関われば拓矢が危ない目に遭うかもしれない。それにあの子が戻ってくれば、拓矢はあの子に取られるかもしれない。あんたにとっていいことひとつもないじゃない!」
しかし、由果那の切実な問いにも、奈美の決意は揺らぐことはなかった。
「……うん。そうだね。でも、いいの」
「何で……! 拓矢のこと、好きなんでしょ!」
「うん。だからだよ」
由果那の目を真っ直ぐ見つめながら、奈美は一言ずつ自分の心を確かめるように言葉を紡ぐ。
「私は、拓くんが好き。でも、拓くんが私を好きになってくれるかは、拓くんの気持ち次第。私がわがままを言えることじゃない」
「奈美……」
「今、拓くんはあの子を守りたいと思ってる……それはきっと、大切だから。私たちと同じくらい、あの子のことを大切に想っているからだと思う。だったら、私は私の気持ちのために拓くんを縛り付けたくない。それが拓くんの想いなら……私は、拓くんが本当にいいと思えることをしてほしい」
言葉を失う由果那を前に、奈美は弱さを感じさせずそう言い切った。
それが、彼女なりの答え――拓矢のためを思った選択だった。
「……本当にいいの? それで……」
「うん。それよりも大事なことがあるし。それに……」
奈美はそこで言葉を切り、由果那の方を薄く微笑みながら意味ありげに見た。
「奈美……?」
「――由果那ちゃん。今まで、話に付き合ってくれてありがとう」
そう言うと、くるりと身を翻し、今度は拓矢の方に向き直った。
「拓くん」
奈美は、決然とした瞳で拓矢の目を見つめた。その瞳は、拓矢が長い付き合いの中でも見たことがないほど強く深い想いを秘めていた。拓矢はその瞳の力に思わず気圧された。
奈美は弱さを見せず、強い微笑みを浮かべながら、真っすぐな瞳を拓矢に向けて、決意と想いを込めた言葉を口にした。
「私、拓くんのことが好き。まだ、諦めてないから」
「……!」
その力強い言葉に、拓矢だけでなくその場にいた誰もが驚いた。あのか弱かった奈美が、こんなにも強く自分の心を言葉にするなんて。
「拓くんが、あの子のことが好きでもいい。それでも、私は拓くんのことが好きでいたい。拓くんが幸せでいられて、そんな拓くんのそばにいられるのなら、私はそれでも幸せだから」
その言葉は悲しみに沈むことはなく、彼女なりの希望が込められていた。
「私は、拓くんに生きていてほしい。元気でいてほしい。笑っていてほしい。そして、ずっと、拓くんと一緒にいたい。きっとその想いは、みんなも同じ。私は、拓くんを信じてる。ずっと、私たちと一緒にいてくれるって」
溢れ出すように想いを言葉にして、奈美は最後に笑顔でこう言った。
「だから……あの子を連れて、無事に帰ってきて。私は、拓くんに心から幸せでいてほしいから」
「奈美……」
その言葉に、拓矢は胸を貫かれる思いがした。
それは、奈美の決意の強さに心を打たれただけではない。彼女の、さらには由果那や幸紀の、もっと言えば乙姫を始めとした、自分を思い、助けてくれる大切な人達の、自分を想う気持ちを実感したからだった。みんな――家族も友達も、自分を信じていてくれている。それに改めて気づかされたことは、彼の心に強い力を与えた。
「まあ、間違いじゃないな」
「うーん……まあ、ね。奈美のとは少し違うかもしれないけど」
幸紀と由果那も、それぞれの言葉で奈美のその言葉を肯定した。それが、拓矢の心をますます強くした。
「奈美……ありがとう」
拓矢は喜びに泣きそうな思いで奈美に微笑みかけた。それを受けた奈美も、潤んだ瞳でやわらかく微笑みを返す。
そして、その言葉を聴いたことで、拓矢の決心は固まった。
「ありがとう、みんな。それと、心配かけてごめん。でも、やっぱり、僕は瑠水を助けたい。みんなが大切なように、今の僕には、彼女も大切だから」
そして、自分をここまで助け続けてくれた大切な仲間達に、改めて決意を告げた。
「僕はもう、僕のせいで誰も失いたくない。守りたいんだ…瑠水を」
深い心の水底から汲み出された清泉のように澄み切ったその想いは、守るべき今のために己が身に刻まれた傷痕の痛みを乗り越え、救いの光へ向けて踏み出そうとする、白崎拓矢という人間の存在を懸けた決意だった。
堂々たる想いを口にしたその体を、後ろから乙姫がそっと抱きしめる。
「姉さん……」
「いい友達を持ったわね。本当に……心配かけるんだから」
泣き笑いのような声で、乙姫は愛おしそうに強く拓矢を抱きしめた。
「でも、奈美ちゃんの言っていたことは本当よ。私達はみんな、あなたに元気に生きていてほしいって心から願ってる。何があっても……たとえ、あの子に関わることで何があっても、それだけは、絶対に忘れないで」
それは、真心だった。強く、正しく、美しい想いだった。
「……うん。ありがとう、みんな。必ず……必ず無事に帰って来るよ」
拓矢は乙姫の体と友達の心の温もりに包まれて、力強く言葉にした。
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