Cp.1-4 Haze of Deep Grief(4)

 翌日、拓矢は学校を休んだ。

 学校だけでなく、どこへ行く気にも、何をする気にもなれなかった。自分が空っぽになったように感じて、糸の切れた人形のように何も心に浮かばず、動こうとも思えなかった。

 乙姫が「同居人の健康上ののっぴきならない理由」という理由で仕事を休んだ。普段ならば拓矢に気を遣わせないようにめったにそんなことはしないのだが、この時ばかりはそうもいっていられない事態だった。

 拓矢は、存在としての、心の危機に立たされていた。

 乙姫は拓矢の危機を知り、彼女の打てる策を打つことにした。

 インターフォンが鳴る音を拓矢は遠い世界の物音のように耳にした。乙姫が応対に出る音と、玄関に並ぶ二つの靴音を拓矢は聞いた。

「おじゃましまーす!」

 家に入ってきた、やたら威勢の良い声に、拓矢の心は反応した。

 続いて廊下を歩く足音が重なり、すぐに二つの人影が拓矢の部屋に現れた。

 由果那と奈美が、そこにいた。

「拓くん……」

「あー、あんたねえ。今何時だと思ってるのよ。もう三時近くだってのにまだ寝間着?」

 奈美と由果那がそれぞれに言葉をかける。しかし二人とも、どこか様子を窺うような態度を見せた。特に由果那は、口調こそいつものように強気だが、いつものように遠慮なしに拓矢に掴みかかろうとしない。

 まるで、拓矢に触れることをためらっているかのように。

 あるいは、恐れるように。

「――――――――」

 拓矢は、奈美と由果那の心、乙姫の思惑も、その時は感じ取ることはできなかった。

 ただ、胸に鈍い痛みが走るのを感じた時、二人の姿が、滲んで見えた。

「――――――ふ…………――――――」

 涙が目から溢れ出した。心の底から、感情が洪水のように溢れ出してきた。

「うわ、ちょっと、拓矢⁉ どうしたの⁉」

「拓くん‼」

 由果那と奈美が涙を流す拓矢に駆け寄る。俯いていた拓矢は、近寄った二人の手を縋るように掴んだ。拓矢の腕にぎゅっと引き寄せられ束ねられる由果那と奈美。

「ちょ、拓矢……」

「拓、くん……?」

 二人とも、あまりに突然のことに一瞬戸惑った。だが、

「――いかないで」

 拓矢の縋るような言葉を聞いて、すぐにその心は塗り替えられた。

「奈美……由果那……姉さん……みんな、死なないで……いなくならないで……お願いだから……っ……」

 拓矢は二人の手を握りながら、震えて泣いていた。その様子はまるで、一度見失った母親に抱きつく幼子のように、不安に震え、喪失に怯えた心が、もう一度大切なものを見つけることができた時の安堵にも似ていた。二人は一瞬顔を見合わせたが、

「ったく……あんたに黙っていなくなるわけないでしょ。世話かけるんだから」

「いいよ、拓くん。私たちは、ずっと一緒にいるから。ね」

 由果那は少しばかりばつの悪そうな顔で、奈美は全てを許すように優しく、しかし二人ともそれ以上戸惑いを挟むことなく、拓矢を受け容れ、彼の震える体を包み込むように抱いた。彼の心を救うために、二人が迷うことは何もなかった。

 拓矢はそのまま二人の腕の中でしばらく嗚咽を漏らし続けて、ようやくわずかに落ち着きを取り戻した。絆を失うことに恐怖した彼を救うのは、やはり大切な人の存在なのだった。

「もういい?」

 しばらくして由果那がかけた言葉に、拓矢は小さくこくりと頷いた。

「じゃあ、シャキッとする!」

 それを見た由果那は早々に拓矢の体を奈美の側へ追いやり、体を放した。体勢を崩しかけた拓矢の体を奈美が全部受け止める形になり、奈美の胸に顔を埋めた拓矢と、拓矢を抱きとめた奈美は揃って赤面した。

 ようやく生気を取り戻した拓矢は、涙の跡を拭いながら、由果那と奈美に訊いた。

「二人とも……何でここに」

「何よ。友達の家に訪ねに来るのに何か理由がいる?」

 由果那は何でもないように言ったが、隠す必要もないと思い、種明かしをした。

「乙姫さんからあんたの様子が危ないって聞いて来たのよ。今日は珍しく学校も休んでたし、何かあったと思ってね。お見舞いよ、お見舞い」

「あ……そうだったの、姉さん」

「心配だったから、この子たちの顔を見れば少しは気分も晴れるかと思ってね」

 乙姫は種が明かされたことに少しばかりはにかみながら言った。

 彼女のその判断は大正解だった。拓矢は、大切な人達が生きていて自分の側にいてくれること、自分を想っていてくれることを体感して、心に一筋の光が差すのを感じた。

「……ありがとう、みんな」

 拓矢は微かな笑顔を浮かべて言った。か細い声だったが、その言葉には再び心の力が確かに宿っていた。

「拓くん……これ」

 奈美が控えめに言い、拓矢に可愛くラッピングされた小さな包みを差し出した。

「これは……」

「焼いてきたの。拓くんに元気になってほしくて……よかったら、食べて」

 受け取った拓矢が恐る恐る包みを開くと、中にはクッキーが入っていた。奈美の丹精込められた逸品であることは言うまでもない。

 まだほんのりと温かい。乙姫の話を聞いて、今日ここに来るまでの内に作ってくれたのだろう。おそらく準備にかかる時間のために学校も休んで。

 奈美の溢れる心遣いに、拓矢はまた涙しそうになった。

「ありがとう、奈美。貰っていいかな」

「うん、どうぞ。拓くん、クルミ、好きだったよね」

「えー、ズルい! 拓矢、あたしにも一個よこしなさい!」

「だめ、由果那ちゃん! 拓くんのために作ったんだから」

 由果那の横入りを胸の温まる思いで聞きながら、拓矢はクッキーを齧った。小麦とクルミの香ばしい香りが口に広がり、程よい甘味が相まって胸を甘く柔らかい思いで満たしていく。拓矢の表情は自然と綻んでいた。

「おいしいよ、奈美……ありがとう。少し、元気出たかも」

「よかった……」

 拓矢の柔らかに戻った笑顔を見て、奈美は涙ぐむように、表情を安心に崩していた。

 生気を取り戻す拓矢と、それを見守る奈美の温かさに、その場の空気が柔らかに和む。頃合いを読んで、奈美が拓矢に話しかけた。

「ねえ、拓くん。これから進藤くんのお見舞いに行こうと思うんだけど……一緒に行かない?」

 奈美の言葉は控えめながら、そこにはいつものような自信なさげな影はなかった。

 拓矢にその誘いを断る理由はなかった。あの夢の後ということもあって、なおさら幸紀の様子が気になった。体のだるさは心に伴うものだったのか、体に芯が通り動けるようになっていた。

 拓矢は考える間もなく決断したが、言葉は一瞬出遅れた。

「わかった。ちょっと待ってて。支度するから」

 彼はまだ寝間着のままなのだった。奈美は顔を赤らめた。


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