ブラッドクロス

黒猫時計

トランシルヴァニア編

プロローグ

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 夜のしじまを、一発の乾いた銃声が切り裂いた。

 トランシルヴァニア西部、ベスラナ。霧立ち込める石畳の街、閑静なその裏路地。

 朧月夜の仄かな明かりの下、狭い小路には微動だにせず屹立する黒い巨躯があった。

 体長はおよそ二メートル。赤錆色をした瞳に、頬まで裂けた口から覗く鋭い牙。体毛は一切なく、隆々と盛り上がる筋肉は鋼を思わせる。その鋭い鉤爪には、付着した血と肉片がぬらぬらと鈍く光っていた。

 道路脇には打ち捨てられた人間の大腿部。ひしゃげた骨の断面から相当な力で噛み千切られたことが窺える。

 今しがた穿たれた化物の左胸の風穴からは、赤黒い液体が止め処なく溢れていた。それは体を伝い、石畳のピースをなぞっては、やがて水溜りを作る。

 不意に、ぐらりと化物が傾ぐ。膝が折れ、前のめりになって倒れこむ。

 ズンッと重たげな音に重なるように、粘性の嫌な水音がした。

 その向こうで、煙が細く尾を引く拳銃を、油断なく構える一人の人間が立っていた。状況から見ても、その人物が殺ったのだということは明白だ。しかしその相貌は、薄闇に紛れてよく見えない。

 やがて雲の切れ間から月が差し、裏路地をぼんやりと照らし出す。

 キラリと、十字の首飾りが胸元で煌いた。

 闇から切り取られたその人物は、金色の髪の見目麗しい少女だった。氷のような青い瞳は、十台後半の乙女にはそぐわない冷酷な殺意だけを灯し、倒れた化物をただ見下ろしている。


「これで今夜、四体目」


 可憐な唇はまるで花弁のようで。けれど、溜息交じりに紡いだのは辟易とした言葉だった。

 彼女が殺したのは、屍食鬼グールと呼ばれる魔物だ。理性もなく、主人に忠実な傀儡。大方主人からはぐれて、この辺りで人間を漁っていたのだろう。

 狂いなく心臓を射抜かれ、今はタールのような赤黒い血液を下敷きに絶命している。

 そういえばと、少女はふと思い出す。この付近で、身元不明の死体の一部が見つかったと報告を受けたことを。恐らくこいつにやられたのだ。

 路地に転がっている大腿部はその被害者のものに違いない。

 少女は瞳を閉じ、静かに十字を切った。


「――ノエル、別働隊からの要請だ。商業区にも屍食鬼が現れた」


 ノエルと呼ばれた少女の後方にはもう一人。

 彼女と揃いの黒いコートに身を包む、不精髭で茶髪の男性が立っていた。年齢は三十台前半。肩にクロスボウを担ぎ、壁に背を預けて煙草をふかしている。十字の紋章が描かれた左腕の腕章もまた、彼女と同じものだった。

 煙草を投げ捨て靴底で火をもみ消すと、男は地図を開いた携帯端末を少女に見せる。確かに街の商業区に赤い点滅が二つ。そして一つの青い点滅は味方の信号だ。

 その二色は限りなく近い位置にあることから、今まさに交戦中であることを示している。


「まだいるんですか。ヴィンセントさん、ここ最近多くないですか?」


 少女はそれを見て、うんざりしたように顔をしかめた。

 ここ最近、屍食鬼の出現頻度が増している。少女はさらに眉間へ薄く皺を刻む。


「発情期なんだろ、盛ってるのは」

「そういう冗談は嫌いです」


 ノエルは軽蔑するような眼差しで目を細める。


「悪かった」軽く言いながら肩をすくめ、「でもまあしょうがないだろ。あの屑どもの駆逐が、俺たち『執行者』の仕事なんだ。頭のお前が愚痴ってどうする」


 ヴィンセントと呼ばれた不精髭は、ため息交じりにさも当然のように答えた。


 ――執行者。

 バチカンに教皇庁を置く聖十字教が設立した、トランシルヴァニアは聖ヴァレリア大聖堂を本拠地とする聖櫃教会。その特殊部門に所属し、魔族、特に吸血鬼を専門とする殲滅機関の者を指す。そして魔の眷属を致死させ得る物理的攻撃手段、『聖霊銀』の使用を、教皇から正式に認められている対魔族戦のエキスパートだ。


 その執行者たちの頭領をしているのがノエルだった。弱冠十七歳の彼女だが、祖父からハンターとしての知識と技を幼少時から叩き込まれている。

 初めて屍食鬼を狩ったのは七歳の頃だ。


「――そういうつもりじゃないんですけど……」


 同僚からの手厳しい一言に、少女はむっと眉根を寄せる。その瞳には焦燥が揺らめいていた。

 ノエルと行動を共にするようになって早八年のヴィンセントが、その感情に気づいていないはずはない。雑魚ばかりで肝心の目標に行き当たらない、焦りと苛立ち。

 そんな時、ノエルは唇を噛み視線を流す癖があるのだ。

 だが――


「出現範囲が狭いってことは、やっぱりこの近くにいるんですね」


 少女は確信をもって呟く。


「だろうな」

吸血鬼ヴァンパイア……」


 憎々しく呟くノエルの瞳は鋭く、天を射貫いた。

 視線の先には綿を千切ってばら撒いたような疎らな薄雲が広がっている。その向こうでは上弦の月が笑みを刻んでいた。七日もすればもう満月だ。

 魔族が一番活性化する夜。嫌でもあの時の記憶が蘇ってくる。

 両親を吸血鬼に殺された、十五年前の、あの満月の夜の記憶。


「行くぞ、ノエル。欠片の回収もあるんだからな。あるかどうかは知らんが」


 促され、少女は強くかぶりを振った。今は過去を思い出している場合ではない。

 最後に、物言わぬ屍に無慈悲な一瞥をくれる。放っておけば、日の出とともに灰になるだろう。しかしそこで、違和感を覚えた。

 それは屍食鬼の首筋。あるはずの、吸血鬼の牙痕がなかったのだ。

 気にはなる。が、今は応援に行かなければ。ヴィンセントの姿はすでにない。

 ノエルは疑問を頭の片隅へと追いやった。

 祖父から譲り受けた、特注の5インチ44口径回転式拳銃デュランダルをスイングアウトし、残弾数を確認。円筒型の弾倉には計四発残っている。

 聖霊銀の銃弾には限りがあるため、あまり無駄にはしていられない。弾倉を振り戻し、腰ベルトのホルスターへ銃を収めた。

 強い意思を表すように、ノエルは唇を固く引き結ぶ。

 そうして金髪碧眼の少女は、蒼炎にも似た静かな殺意を瞳に灯し、薄暗い路地へと消えていった。

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