冥界のストレイゴースト
村瀬香
第1話「どうやら俺は死んだらしい」
耳が痛くなりそうなほどの静寂に包まれた真っ白い空間。
その中で、張り詰めた緊張を解きほぐすよう、青年はそっと息を吐いた。
目の前には、芸術家も息を飲みそうなほどに緻密で美しい細工を施された漆黒の門が聳える。
靄で上部がやや霞むほどに巨大なその門を見上げていた青年は、ごくりと固唾を飲んで開かれた門へと一歩、また一歩と踏み出した。
門の向こうは青紫の濃い煙に包まれており、先はまったく見えない。
だが、それは青年のいる門の外側もさして変わりなく、周りは白い靄に囲まれている。靄の向こうには何があるのか、それともそこで終わっているのかさえ分からない。
門の傍らには、腰ほどまである銀髪にエメラルドの瞳が特徴的な美しい少女と、その足もとには一匹の黒猫がいる。
少女が身に纏うタートルネックの黒いワンピースは、パーティーにも着ていけそうなデザインだ。膝が見え隠れするスカートは何枚かのシフォン生地を重ねており、袖も肘までは腕に沿ってその細さを強調しているものの、肘から先はゆったりと広がっている。また、デコルテ部分はレースになっているため、白い肌が透けて見えた。
黙って立っているだけでは人形かと思うほどの現実離れした美少女に、青年は初見で感動に近い感情を覚えたものだ。
少女の手には黒く、先の曲がった細長い杖とそれにぶら下がった正二十面体のランタンがある。ランタンには青い炎が灯っており、見ると不思議と心が落ち着いた。
ただ、そのランタンはつい先ほどまで、可憐な少女には似つかわしくない、青い炎を纏う巨大な鎌だったのだが。
――そう。あの子と猫は所謂『死神』で、俺はもう死んだ。だから……門の向こうに逝くしかないんだ……!
青年が目を覚ますと、既にこの空間にいた。
それまで何処にいたのか、何をしていたのか覚えておらず、自分の名前すら思い出せなかった。
ただ、不思議なことにある程度の知識は薄れているものもあるが残っており、『死神』もとい『グリムリーパー』と名乗った少女にも、死神がどんな存在であるか疑問を持たずに受け入れられた。
そして、そのグリムリーパーの少女と黒猫から、自分が死んだことや、目の前にある『転生の門』をくぐって新しい命に生まれ変わらなければいけないと聞き、今に至る。
自身を鼓舞した青年は目を固く瞑り、見えない門の先への恐怖心を押し殺しながら門の敷居を跨いだ。
煙が顔に吹き付けたのか、閉ざした瞼の向こうで肌がぶわりと撫でられた。
――ああ……。これで、本当に、俺は……。
魂を輪廻転生の輪に入れ、「自分」という存在は無くなるのか。
意識がふわりと吸い上げられる中、青年は薄らと目を開けた。
直後、頭上から響き渡ったのは、荘厳な空気に似合わない、やや間の抜けたブザー音だった。
「……へ?」
何事か、と青年は目を瞬かせながら振り向く。
門の横にいた少女と黒猫が愕然として青年を見ている。それでも門内に踏み入らないのは、ふたりが転生を許されないグリムリーパーであると強く示しているようだ。
意識が遠退く感覚もなくなり、何があったのか問おうと口を開いた青年だったが、ふいに巨大な影が降ってきた。
今度はなんだ、とまた振り向いた青年だったが、生臭く、生暖かい風が顔に吹き付けてきて目を閉ざす。
「グルルルル……」
「……ん?」
低い唸り声がすぐそばで聞こえ、恐る恐る目を開けば、まず、視界に飛び込んできたのは黒い毛で作られた壁のようなもの。
ゆったりと動く壁から少しずつ下がって全体を見る。そして、その行動を激しく後悔した。
後ろに現れたのは、顔だけで自身の背丈と変わりないほどに大きな黒い犬だった。
ゆっくりと、唸る犬を刺激しないよう数歩下がった青年は、犬の顔が三つあると気づくと同時に門の外へとUターンした。
「ガウガウガウ!!」
「バウバウバウ!!」
「ガァァァァ!!」
「うわあああぁぁぁ!!」
三つの首がそれぞれ吠え立てながら青年に食らいつかんと顔を伸ばす。
駆け出した青年は必死になるあまり、門の外へ頭から飛び込んだ。
白い地面に倒れ込み、腕をつきながら上体を起こした青年に別の黒い影が掛かる。
「え?」
「手間掛けさせるんじゃないわよ」
「っ!?」
不機嫌さを隠すことなく青年の目の前で大鎌を体の横に引いた彼女は、容赦なく振り抜いた。
尻餅をつきながら慌てて腕を顔の前に翳した青年だったが、刃が腕ごと頭や首を斬ることはなかった。まるで、大鎌もしくは青年が存在しないもののように、体をすり抜けたのだ。
「な、何が――……」
呆気に取られたのはほんの一瞬で、すぐに襲ってきた強い眠気に抗えず、意識が沈んでいく。
落下にも似た感覚は、前にも何処かで感じたことがある。
それが何処だったのか。何故なのかをうまく思い出せないまま、青年はその場に崩れ落ちた。
『なんだぁ? この「ストレイ」は』
最後に聞こえたのは、少し低めの男性の声――人語を操る黒猫の訝る言葉だった。
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