ワンダフルライフは終わらない

虚田数奇

第1話 シンプル~斗南拓斗の憂鬱~・1

 斗南とみなみ拓斗たくとは私立G大学の二回生である。

 季節は夏。前期試験も終わり、G大は長い夏休みを迎えていた。

 閑散とする学内を、日陰を選びながらのんびりと歩き、拓斗は目的地のあるゼロ号館へと辿り着いた。入り口のある中二階の階段を降り、第一食堂の入り口にある食券販売機の前へ向かう。

 しばし思案し、百円玉を四枚投入し、チーズカレーのボタンを押す。隣にある『本日のオススメ! ヒレカツカレー』のボタンには目もくれず、食券を手に、食堂のカウンターに歩き出した。

 第一食堂はセルフサービスである。夏休みに入ったからなのか、厨房のスタッフの数が少ない気がした。「いらっしゃい、今日もあっついなぁ~」と声をかけてくるおばちゃんスタッフに食券を渡し、程なくして拓斗の元にチーズカレーが現れた。

 カレーの乗ったトレーを手に、座る席を選ぶべく食堂内を見渡す。昼時を避けたのもあり、ただでさえ閑散としている学内にあって、食堂は更に人影が少なく、窓際でだべっている女子数人のグループに、二人席のテーブルに突っ伏して眠っている男子学生、一人席でうどんをすすっているどこかの学科の教官ぐらいのものだった。

 拓斗は教官から少し離れた一人席に腰を降ろし、カレーを食べ始めた所で、拓斗は券売機にあったヒレカツカレーの項目を思い出した。

 端的に言って、カレーライスは拓斗の好物である。学内で昼食を食べる時、八割強の確率で拓斗はカレーを選択する。そして、それにも彼なりのルールがあって、例えば第一食堂のルーは大味なので、チーズのトッピングを選択する、などだ。

 そんな拓斗のカレーライス美学において、カツカレーというものは許容出来ないものなのであった。

 実は拓斗の好物の一つに、トンカツも含まれている。

 しかし、彼の好みにおいて、『好きなものを好きなものと合わせれば最強』的な暴論は存在しない。それは『最愛の恋人と最高の親友と三人で遊べば楽しさ倍増』という論理と近似値であり、そういったものにメリハリを付けたい気質の拓斗にとって、耐え難い苦痛に他ならない。

 とはいえ、拓斗にもカツカレーを注文する機会がないわけではない。図書館の地下にある教授陣御用達の喫茶店、そこで昼食を摂るとなれば、彼はカツカレーを選択する。しかし、それも結局、カツを別皿に盛り付けて貰うという別注付きで、なのであった。

 自分にとって、カレーライスとトンカツの間は、男と女の間のように、深い溝があり、決して交わるものではないのだ、と若い拓斗は確信しているのである。

 可もなく不可もなくな第一食堂のチーズカレーを食べ終えた頃、拓斗のスマートフォンがメッセージの受信を通知してきた。チャットアプリのメッセージである。


 よーちゃん:おはよー。タクト、今どこー?


 時計を見れば、時刻は十四時を過ぎている。おはようという時間でもないが、拓斗は『第一食堂』と四文字だけ打って返信した。

 よーちゃんというのは同期の女子学生、繁田しげた曜子ようこのあだ名であり、また自称でもある。

 アプリを切り替え、端末をスリープモードにした瞬間、再びメッセージが着信する。


 よーちゃん:今ユーゴー書店に居るとこだから、すぐ行く~


 ユーゴー書店は、第一食堂のすぐ向かい、中二階にある書店だ。どうやら曜子とは入れ違いだったらしい。

「おっす~! おまたせ、って程でもなかった?」

 携帯を仕舞う間もなく、曜子がやって来た。おそらく、こちらに向かいながらメッセージを打っていたのだろう。

「歩きスマホは感心しないよ」

「え、何でわかったの? もしかして見てた?」

「簡単な推理」

「おおー、名探てーい」

 目と鼻の先なのだから、返信せずにすぐに顔を出せば良いのに、とまでは口に出さなかった。そのまま立ち上がり、食器を返却口に返すついでに、四人がけのテーブルへ移動する。これから、友人数人と待ち合わせなのだ。わざわざ、夏休みの学内に来てまで昼食を取っていたのはそのためだった。

「試験どうだった~?」

「別に。普通かな」

「私、文体論ちょっとまずったかもしれない」

「普通に授業受けてれば優とれる内容じゃなかった?」

「いやいや、よーちゃんはタクトみたいに地頭良くないですから。そんな簡単に優とか取れませんから」

「僕だって、別に頭はよかないよ」

「一回生の単位がオール優だった人が言っても説得力ありませーんー」

 向かい合って座り、試験明けのとりとめのない会話を続けながら、友人たちを待つ。

 拓斗と曜子は、文芸学科の学生だ。文芸学科は、主に小説や詩歌、随筆の創作技法を学んだり、研究活動を行う学科である。稀に漫画やシナリオを創作している者もいるが、去年から新設されたキャラクター造形学科が、そういう分野の学生の受け皿になっているようだ。

 そもそもG大は芸術学部しか学部のない、いわば総合芸術大学であり、一般的な学部のある大学とは、少し毛色が異なる学生が多いのが特徴である。

 教室棟前の広場でジャグリングをしている学生や楽器を吹いている学生がいるかと思えば、写生をしている学生もいるし、体育館近くのロビーでは、本格的なダンスを練習しているグループも多い。絵画系の学科の学生であれば、大きな画板を抱えて歩いていたりもするし、服飾学科の学生であれば、トルソーを抱えながら階段を駆け上がったりもする。実習でテレビや映画の機材を回しながら学内を練り歩く放送学科や映像学科の学生集団もいる。

 決して広くはない大学構内で、実に十五の分野に別れた学科の学生達が、日々を芸術活動に捧げている。中には不真面目な学生もいるが、多かれ少なかれ、皆芸術に心を捧げた人間たちなのだ。

 出身も分野も違う学生達が顔を突き合わせるそんな中で、拓斗が最初に知り合ったのが曜子だった。何を隠そう、拓斗の学生番号の一つ前の番号が、彼女だったのである。

 拓斗も曜子も揃って、地方から出てきた学生の一人で、知り合いが誰も居ない状態でのスタートだった。お互い、高校を卒業するまで地元を離れた事もなかったので、一から人間関係を構築する事に慣れていない頃のことだ。

 ある日拓斗は、創作概論の授業前、早めに着いた教室で一冊の短編集を読んでいた。拓斗が好んで読んでいる作家で、久々に読み返したくなったために、鞄に放り込んでいたのだった。

「あ、あの~――」

 その表紙を見て、曜子は意を決して話かけたのだという。

 何せ、その作家は日本ではマイナどころか、ノーベル文学賞最有力と言われる某作家が翻訳するまで、日本語版すら存在しなかったのだ。拓斗自身、これまでの人生でその作家を知っている人間とは出会ったこともなかったし、それは曜子もまた同様だった。

 それから曜子と話すようになり、意外なほどに読書傾向が近いこと、殆どの授業の時間割が重なっていること、更には映画の趣味まで似通っているなど、行動を共にしてもおかしくないぐらいに、二人は親しくなっていった。

 それから一年ほど経った今も、その関係は変わらない。気の合う異性の友人。拓斗の曜子に対する評価は正にそれだった。拓斗自身はそれで満足していたし、それ以上の関係を望むこともなかった。心地よい距離感だった。

 だが、しかし――。

「ねぇ、タクト。来週あたり、映画行かない?」

 最近、曜子からのこういった誘いが増えたのだ。

「来週さ、梅田のブルク7で『ショーシャンクの空に』のリバイバル上映やるんだって。レイトショーで。キミ言ってたじゃん、一度劇場で観てみたいって。またとない機会だよ~?」

 流石は趣味志向が似通っているだけはある。拓斗が同意せざるを得ない誘いだ。『ショーシャンクの空に』は二人共好きな映画の五指に入る作品であり、彼らが物心付いた頃には懐かしい名作の部類に入っていた作品である。彼らの年代で好き好んで見に行く物好きは少ないだろう。

 なの、だが――。

「それは、二人きりで、ってこと?」

 慎重に言葉を選んで尋ねる。

 しばしの沈黙。

 やがて、曜子が口を開く。

「そうだけど、都合悪かった?」

「いや、予定は空いてるけど」

「そう。じゃ、決まりだね。じゃ、早速チケット予約しとくね」

 言って、曜子は笑顔になった。

 その笑顔を曇らせずに済んだ安堵と、もしかしたら今後曇らせてしまうのは自分ではないのかという仄かな不安に、拓斗は自然と無口になった。

 二人の間に、気まずくはないが心地よいというほどではない、いつもと違う空気が流れる。

 曜子は上機嫌でスマホを弄り、チケットの予約が完了した旨を告げると、飲み物を買いに行くと言って席を立った。その姿を見送ると、拓斗は何か重い荷物を降ろした気分になって、深い溜め息をついた。

「溜め息つくと、幸せが逃げるぜ?」

 驚いて振り返ると、そこには見知った顔が居た。

「――――なんだ、ケンちゃんか」

「なんだってこたぁないだろ、約束の時間には間に合っただろ?」

「珍しく、ね」

「うるせ」

 ケンちゃんことまさき賢治けんじは、遅刻の常習犯である。授業も三回に一回は遅刻するというその男は、逆立てた金髪から流れてくる汗を拭いながら、先程まで曜子が座っていた席に腰を降ろした。

「いや、あっちぃな全く」

 鞄からタオルを取り出して顔を吹きながら、賢治は言う。

「他のみんなは? よーちゃんはさっき売店入っていくのが見えたけど」

 曜子の名前を出されて、拓斗はギクリとした表情になる。

「――――おや、よーちゃんの顔がやけにニヤケてたのは、タクト、お前が原因か?」

 拓斗は再び深い溜め息をついた。憂鬱はまだ続きそうだった。

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