君は青い空を見たことがあるか?

訳/HUECO

第1話 特攻、そして死

鹿児島の海軍鹿屋基地を飛び立ってから、彼是一時間が経とうとしていた。

天候不順の中での飛行にも関わらず、落伍機はエンジン不調による一機だけであった。 間もなく沖縄に到達する。正確には突入する。

既に米國軍のレーダーに捉えられているに違いないが、未だ敵追撃機は現れない。雲が我々を隠してはいるが、逆も然り。敵機動部隊を発見出来るのかと焦りもする。

この先、どのような未来が待ち受けているのか? 上手く敵艦船に体当たり出来るのか? それとも海の藻屑と消えるのか? 後僅かばかり残された人生を想像してみた。國井愼一郎として生きた、この二十二年の終焉を。

徐々に、雲が薄らぎ始めた。そう思った次の瞬間、 突然、目の前の風景が変わった。

暗闇の如き海面は、エメラルドの宝石のような淡い緑色の、水彩画の水で薄く引き延ばしたかのような、きらめく鮮やかな南海となり、空は遥か先まで、何処までも青々としていた。それこそ、絵の具のチューブをじかに画布の上に出して塗り広げたような色合いだ。青一色に。

目を奪われんかの光景に見惚みとれていた。エンジンの小刻みな振動、手に握る操縦桿そうじゅうかん、目の前の風防、そして周囲を飛ぶ僚機、現実に繋がる物は存在すれど、全てを無に変えていた。何もかも忘れさせた。

青い空。

その前面の一ヶ所に、僅かに小さな靄(もや)が掛かった。ゆらゆらとして、何かがもがいているような。

それは次第に動きを緩め、元の姿に戻るかの如く……灰色の、無数の点となった。

「敵機来襲ーっ!」

無線から怒号が響き渡る。

一気に血が逆流したかのように、全身が沸き立つ。現実に引き戻された。

無数に見えた灰色の点は、更に数を二倍、三倍と増やして、もはや黒点と化していた。

時期に米國の戦闘機が襲い掛かって来る。

後少し、後少しで、敵の機動部隊に辿り着けるというのに……

俺は右舷の僚機に目をやった。風防の中に居る加藤は頭を激しく振り、周囲を見渡していた……が、此方こちらに気付いたようで、漸く動きを止めた。

目を凝らすと、加藤が笑っていた。満面の笑みで。

俺を元気付けようとしているのだろうか? 加藤はそういう奴だ。俺も笑い返して、さよならの手を振る如く、敬礼をした。

嗚呼、前面の黒き点は蜂の巣を突いたかの状況だ。完全に周囲を包み込みつつある。

先程まで空を覆いつくしていた雲は、もう何処にも一つさえ見えず、逃げ場など無かった。

先頭を行く味方の護衛機が早くも接敵し、火花を散らした。編隊が崩れ始めて、各機突入という状況になった。右舷にちらりと目をやったが、どれがもう加藤の機体か分からない。

真っ直ぐ飛ぶのは自殺行為だと教えられていたが、俺は腹を決めて、真っ直ぐ行くこと事にした。ぐるぐると回避行動を取ったとしても、俺の技量で、しかも二百五十キロ爆弾なぞ抱えては土台無理だ。ねぎを背負った鴨だ。

敵戦闘機の機銃掃射の中を構わず、左右上下に細かくジグザグに機体を滑らす。鬼ごっこか、何かの要領だ。ははっ。流石に操縦桿が異様に重い。折れてしまったら、折れてしまえだ。

ん?

目の前に再び空が広がった。周りには一機も飛んでいない。後方を確認すると、無数の飛行機が縦横に乱れて飛び交っていた。幾つも、あちこちに黒い煙が立ち込めていた。

どうやら一機だけ、幸運にも抜け出せたらしい。

前を向き直して、俺は目を疑った。前方直下には幾つも船が浮いているのがうっすらと見えた。とてもじゃないが、数え切れない程の。米國の機動部隊だ。

空母は?

空母を探したが、何処にも居ない。あそこに、一際目立つ艦が居る。巨大な砲塔の塊が三つ確認出来る。戦艦だ。あれにしよう。

こんだけデカければ当てるのも余裕だろうと、夏祭りの縁日の射的でもやるかのように、俺の気持ちは楽となった。

閃光が無数に打ち上げられて、海面と空を覆い尽くす。機体の周囲に、小さな爆発と共に黒い噴煙が幾つもいくつも、次から次へと現れる。

俺一人の為に、眼下の何十隻もの敵船が相手をしてくれるとは、愉快なものだ。

だが、笑ってばかりもいられない。機体に一発、二発と直撃を食らい出した。更に、もう一発。

対空砲火の餌食になりつつあった。

敵の戦艦は細々とした構造物さえはっきりとしてきた。

後少し、という思いとは裏腹に、エンジンに一発食らう。カウルの隙間から煙が吹き出し、操縦席にも臭いが漂ってきて、鼻をついた。出力が上がらない。回転が不安定となり、幾度か止まりかけて、遂には息絶えた。

操縦桿も足のラダー・ペダルも既に何も効かなくなっていた。惰性で中に浮かんでいるだけだった。もう何も出来る事はなかった。唯一出来るのは只、操縦席に座っている事だけだ。機体はゆっくりとコースを外れて、海面へと突き進んでいた。

俺は遠ざかる意識の中で、そっと操縦桿から手を離した……

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