永い雨宿り

初瀬川

第1話

雨がさらさらと降っている。


人類の完全義体化から二十余年、時にサイバネ・ネイティブと呼ばれる僕たちの世代は、飢えも暑さも寒さも、およそ困難と言われる環境を知らない。各種センサーを千も二千も詰んだ義体からだから、比喩や例え話ではなく実際に水槽へ浮かぶ脳へと送信される電気信号は、ほとんどの不快なものを置き去りにしてしまうし、体を維持するための電力は、ずっと昔になんとかっていう頭のいい人が提唱した世界システムとやらに支えられ、ただ地球上にいるだけで大気圏外を遊覧する人工衛星から送られてくる。AI、ナノマシン、核融合、もちろんサイバネティクスも、かつてSFの中にしかなかった技術はこの五十年で次々と実用化された。すかさず軍事利用されたそれら技術を鑑みれば、どんなに野心的な政治家やその他の主義者であってもこれほどまでに発達した科学を用いての戦争が意味するものを想像せずにはいられなかったのだろう。世界は、ギリギリで、辛うじて、あと一歩を何度も繰り返しながら、平和を保ち続けた。



そんな平和と安寧と言う微睡の中に、一石が投じられたのはもうずいぶん前のことだ。ある冬の日、太陽が真南を少し過ぎた頃、ひどく端的に、事実だけを簡潔に言うとしたら、雨が降った。ごく普通の。それこそ、比喩でも例え話でも、何かの隠語でもない、普通の、ありふれていたはずの自然現象としての雨が。大気圏内に三つ、大気圏外に二百数機の気象操作装置が生み出すネットワークによって、人の住まない森林区でもなければ、週三回、深夜二時から五時の三時間と定められているはずの雨が、この平日の昼日中に降った。子供たちの中には生まれて初めて雨を見るという者もいるから、それはもうはしゃぎまわってご機嫌ではあったのだけれど、分別の付く年頃の者たちにとっては、それは何かの前触れのように感じられた。何か、良くないことの。

予感は的中したと言っていい、降り始めてから5時間後、その雨が、強酸か、ナノマシンかそれ以外の、とにかく未知のもの、進みすぎたと言える私たちの科学にとってもまるで理解できない類のもので、そしてこれは我々の義体に深刻な悪影響を与える可能性がある、などといつものも勿体付けた口調で統一政府が名声を出したのは、既にそんな眠たい説明を聞くまでもなく、あるいは聞くことのできない躯が十分に積みあがった後だった。この雨に濡れたものの体はみるみる錆びつき、一時間もすれば崩れかけたチタンとカーボンの塊になり下がる。ただ、高名な科学者曰くこれは所謂錆とは全く違う現象なんだそうだ。確かに町のコンクリートもガラスもプラスチックも一緒くたに蝕むものが錆なんて尋常のものでないことは承知の上だが、それでも他に表現のしようがないのだから、しょうがないじゃないか。



普段は引きこもりがちのくせにこういう天変地異に限って用事が生まれる僕は、片田舎のショッピングモールで足止めを食っていた。比較的内側に引っ込んだ、なんとか雨の影響から逃れている窓から外を見ると、灰のように崩れ流れる万物に対し、雨脚は不気味なほど穏やかだった。こんなさびれた町の、ショッピングモールとスーパーマーケットの中間のような建物に、まして平日の昼間だというのに訪れていた奇特な人たちは、責任者らしき店員と、妙にリーダーシップを発揮する一人の若者によって集められた。壁も天井も厚く、またそれらから一番遠い中心の広場。館内のスピーカーからは政府の、頑丈な建物か、できれば地下に、速やかに落ち着いて避難しろと言うお決まりの文句が繰り返し流されていた。

「そこら中に地下鉄の通った都会じゃあるまいし、こんな田舎に地下なんざあるかよ。」

誰ともせずつぶやく声がする。誰に向けたわけでもないだろうし、答えるものは誰もいない。

受信するこの建物のアンテナが壊れたのか、あるいは送信する側のアンテナが壊れたのかはわからないがスピーカーの声はやんだ。雨の音だけが聞こえる。



降りだしてから五か月がたっても、雨は降り続いたままだった。アンテナ二本でなんとか接続できているインターネットは、この雨は世界的なものであること、核やその手の大量破壊兵器に対してのシェルターにすらなりうるこの時代の一般的な建築材すら少しずつ侵していること、この辺りはまだ大分マシな方で、ひどいところではスコールのように雨が降り、ひと月を待たずに更地になったことなど、何の夢も希望もない情報ばかりを伝える。この建物の中にいる人数もずいぶん減った。果敢にも雨の中に飛び出していったもの、ありあわせの資材で器用にも傘を作って脱出を試みたもの、絶望して家族で手を取り合い自ら雨に身を投じたもの。そして、座ったまま動かなくなったもの。季節は夏真っ盛りだったが、この体は暑さも寒さも飢えもない。なのに危険を冒して飛び出していくものがいるのは、あるいはその生に絶望する者がいるのは、そんなこの体にも訪れる確実な死があるからだ。義体は、9か月に一度、専用のドックでメンテナンスをする必要がある。怠れば関節が強張り、接触不良に似た麻痺が表れる。送受信のエラーと、パーツの劣化による異音を経て、その場で彫像のように、死を迎える。不思議なもので、肉体が、と言っても今の義体にもはや生体部品はないが、とにかく体が死ぬと同時に、脳も活動をやめる。かといって、前の義体を停止して、新しい体に移すこともできない。医学、科学的にはできるはずなのに、その後の脳死から回復した例はない。限りなく肉体の枷から解き放たれてなお、人は不老不死になれない、と言うのは少数派となった神を信じる者達の常套句であった。尤も今では、誰もが神に祈り続けているのだが。



9か月がたった。この建物に残る動けるものは少ない。幸か不幸かあの未曽有の大災害の直前にメンテナンスを行ったはずの僕の体も、いよいよ動きが悪くなっていた。膝を抱えたまま彫像と化した躯たちは、まだ動けるものによって、さながら本物の彫像のように広場の端に整列させれている。全面核戦争にも耐えるという触れ込みのこの建物も、外壁は溶けきり、なんとか化なんとかニウムかんとかみたいな長ったらしい名前の、やたら丈夫な内壁を残すのみで、それも少しずつ侵されているのだろう。世界が滅びる瞬間は、なんとなく、大爆発で何もかも一瞬で消し飛んでしまうようなものだと思っていたけれど、こうして時間をかけて、静かに、真綿で首を絞めるように滅ぼされていくのが似合いなのかもしれない。雨に崩れる砂の城のように。

サイバネ・ネイティブたる僕は、暑さも寒さも、飢えも感じないとは再三言ったが、感じないということを意識しないほどに感じなかったことが、もう一つあった。孤独だ。物心ついたころにはすでに脳に直接膨大な情報を流し込んでいたインターネットは、一月前に閉鎖された。外には雨と、それが揮発して形を成した霧が立ち込めている。それが深刻なレベルで地上に満ちたことで、電波そのものがついに妨害され始めたんだそうだ。統一政府、尤も政府と呼べるほどの人数が未だ稼働しているのかはわからないが、それは、送信できる制限された電波を、まさしく文字通りの生命線である電源にのみ集中することに決めた。それでも暫くは一日に一回ニュースが届いたのだが、それも更新されなくなって久しい。

僕は孤独を紛らわすものを、インターネットの代替を会話に求めた。この建物に残る、未だ稼働している人間は僕を含め四人。明日にも、もっと言えば今すぐにでも止まってしまいそうな老人に、二か月前から座禅を組んで、ピクリとも動かない仏教徒らしき壮年の男。そして、一番窓際で今時個人所有しているのはそういうコレクターぐらいだろうという、ハードカバーの紙の本を読む少女。他の二人は会話などできようもないので、僕は彼女におずおずと話しかけた。

「どうもこんにちは、何を読んでいらっしゃるんですか。」

パーツの劣化、と言うより、単にずっと使っていなかった声帯のパーツの不調なのか、多少がさついてはいたが、存外すんなり声が出てよかった。彼女は少し驚いた顔はしたものの静かに答えた。

「おかしいでしょう、今時紙の本を、まして、同じ本を何か月も読み続けるだなんて。」

彼女はからかうように笑う。作られた、そういう風に造形されたのだから当然かもしれないが、彼女は、とても美しかった。

「まさか、僕も本があればそうするところなんですが、生憎ないもんで何か月も正面の壁についた傷を数える羽目になりました。おかしいですかね。」

「まさか。」

彼女がくすくすと笑う。やはり、きっと同じ顔を使っても、ほかの者ではこうはならないだろうと確信できる、そんな、内から出でるような美しさが彼女にはあった。これをつり橋効果とかストックホルム症候群とか名前を付けて片付けるのは簡単だが、そうするには惜しいものだと思った。

それから、僕と彼女は毎日、ずっとではないが、ポツリポツリと話すようになった。とりとめのない、平和だったころの話を。彼女は大学生なんだそうだ。文学部に通う二年生で、僕の一つ下にあたる。驚くべきことに、僕と彼女は同じ大学の学生だったのだ。僕のことを平日の昼間からふらふらしているろくでなしだと思っていた諸君、僕もれっきとした大学生だ。言っていなかったと思うけど。ともかく、同じ大学に通うとはいえ彼女の通う文学部があるキャンパスと、僕が根城にしている理学部のあるキャンパスはまるで別の場所なので、同じ大学であるという以上の接点はまるでなかった、それでもこんな世界では、それすらとても大きなものに見えた。




僕と彼女が話すようになって二か月が過ぎた頃、もはやこの建物には僕と彼女の二人しか残っていなかった。インターネットは閉鎖されたままで、外からは雨の音と、いよいよ限界の近いこの建物が上げる、悲鳴に似た軋みだけが聞こえる。もしかしたら僕たちが人類最後の二人で、この建物の外にはもはや、人っ子一人いないのかもしれない、なんて冗談めかして言って笑いもしたが、それを否定できる材料はひとつもなかった。

雨の音と建物の軋む音、それらに、小さいが確実に、機械が唸るような、引っかかるような異音が混ざり始めたのはいつのころからだろうか。彼女の義体は、僕よりほんの少し早くメンテナンスを終えてしまっていたことと、女性型と男性型の義体では、ほんの少しだけ男性型の方が耐久性が高い。そんなほんの少しが積み重なって、彼女の体の限界を僕より早めていた。僕も、右手と左足は動かず、左目はスプリングが外れて開かない有り様ではあるけれど、彼女はもはや、いつもの、一番窓に近い、呪わしい雨が一番よく見える定位置から、動くことすらできなくなっていた。

「どうやら、私ももうすぐみたいですね。」

彼女は微笑みながら言った。手元に本を置き、窓辺に座る彼女は、とても、絵になっていた。

「もうすぐあれから一年、この体も、良く持ってくれたものです。」

僕は彼女の顔を見ることができなかった。この一年弱、多くの義体が、人が死ぬところを見てきて、すっかり慣れ切ったはずなのに。

「私ね、最初は雨が降ってきたから、ほんの少し雨宿りするだけのつもりだったんです。どうせすぐやむだろうだから、ほんの少しって。まさかこんなに長くなるなんて思いませんでしたけど。」

こともなげに言う。義体の死に苦しみはない。それは眠るようですらなく、最後の瞬間まで覚醒し続け、電源を切るように途絶えるものだ。だがそれでも、死を恐れないわけはないのだ。

「いつかこんな日が来るんじゃないかと思ってはいましたけど、同時に、この雨も嘘みたいに晴れて、いつも通りの日々が戻ってくるんじゃないかって、本気で思っていたんですよ私。おかしいでしょう。」

「まさか。」

掠れた声を絞り出す。

「僕だって思っていましたよ。気が付いたら空には雲一つなくて、止まっていった人たちも動き出して、死んだ人なんて、失われたものなんて何もなかったら、どんなに、いいか。」

ふいに彼女の、唯一動く左手が、僕のほほを撫でた。僕は驚いて顔を上げる。彼女は僕の目を真っすぐに見て言う。

「今も、思っていますか。」

答えられない。こんなにはっきりとした絶望を突き付けられて、それでも希望を持つことができるか。こんなにも掛け値なしの絶望の、一切隙間のない暗闇の、どこに希望なんてものが入り込む隙間があるというのか。雨が止む?死者が蘇る?それこそ・・・。

「まさか、ですか?」

僕は沈黙するしかなかった。逃げるしかなかった。卑怯にならなければ、とても耐えられなかった。どこにもない希望を探すなんて、そんな絶望を背負うことは、僕には。

「私、今でも思っていますよ。そんなまさかが起こるって。そう思って眠ろうと思います。だから怖くないんです。また起きられるって知っているから。」

「そうですね。その通りです。」

嘘だ。僕も彼女も、機械の体の僕たちは、眠ったことなんてないくせに。

「また必ず起きられます。だから先に寝ててください。そして、ちゃんと僕を起こしてくださいね。僕きっと、朝に弱いタイプだと思うので。」

「ええ、もちろんです。」

彼女は屈託なく笑う。僕はちゃんと笑えているだろうか。

「そうだ、私は先に寝ちゃいますけど、あなたが寝るまでの少しの間、これを書いておいてもらえませんか?」

彼女が差し出したのは、一冊の本だった。最初に話しかけたときに読んでいた。あの時代遅れのハードカバー。


「実はこれ、本じゃなくて日記なんです。だからあの時は、何を読んでいるんですかって聞かれても、答えられなくて。」

照れたように笑う。本当に、笑顔の素敵な女性だと、心から思う。

「私、ずっと日記をつけていたんですけど、雨が降り出してからは書けないでいたんです。楽しいことなんてなかったから、読み返して、楽しい思い出に浸るだけで。」

「でも、今はこの一年のことも、日記に残しておかないともったいないって思うんです。辛いこともいっぱいありましたけど、きっと、それだけじゃなかったから。」

「だから、私の代わりに書いてください。起きたらちゃんと書いてるかチェックしますから、ふざけちゃだめですよ。あと、」

僕と彼女はそう長いつきあいではないが、そんな中でも絶対に珍しいと思えるほど、見たことないような真剣な顔で彼女は続けた。

「もう書いてある私の日記は、絶対に見ないでくださいね。乙女の秘密ですから。」

妙に改まって、大真面目に言うものだから、僕はつい笑ってしまった。それを見て彼女は少し怒り、笑い、そして。

「おやすみなさい、また明日。」

そういって目を閉じた。眠るように。



それから数日、何とか僕がこの日記を書き上げるころには僕もまた、定位置に座って動けない体になっていた。窓辺で彫像と化した、いや、安らかに、楽しい夢を見るように眠る彼女の、正面でなく、隣でもない、真っすぐ顔を上げても彼女と目が合わない、臆病者の場所に。彼女と同じように左手だけが残ったのはなんだかむずがゆくなるような気分になるけれど、実際僕は右利きなのだから、後半はミミズがのたくったような字になってしまっている。起きた後さぞ怒られ、あきれられるだろうけど、僕もこればかりは仕方のないことだったと開き直るつもりだ。なんとか一年弱を耐えきったこの建物も、もはや天井にも壁にもところどころ穴が開き、雨がぽたぽたと床を打って、白い煙を上げている。

まだ、雨はやまない。インターネットは回復せず、人の気配はなし、人類最後の一人であることを、最近はあまり疑わなくなってきた。そんな中、一つだけ希望もある。どうやらこの雨は、人工物、と言うと正確ではないが、例えばコンクリートやプラスチックなどの人の手によって生み出されたものを溶かすのであって、そうでないものは溶かさないらしい。例えば、紙とか。これは実に素晴らしい発見だった。まぁもっと早く気づいていれば脱出できていた。と言うわけではないが、もはや観葉植物すらVRかポリマーでできているこのご時世に、傘にできるほどの大きさの天然由来の物質はどんなにかき集めてもない《《》》。だがたとえこの建物が跡形もなくなって、この世界から全ての人工物が消えても、この本は残る。これで唯一の不安も消えた。雨に濡れてインクは滲み、紙はぐちゃぐちゃになってしまうかもしれないが、その時はその時だ。

実際のところ僕は、またこの本を彼女と読む日など来ないと思っているのかもしれない。否、思っているのだ、本当は。この数日、強まる異音を聞きながら何度も考えて、考えて、考えた末の結論がそれになってしまった。僕は弱い人間だから、夢を見ることなんてできない。じゃあ何故、それでも僕はこの日記を書いたのかと言えば、それは、意地だ。彼女が夢を信じて眠りについたなら、ともに信じることはできなくとも、その夢を壊すことだけはしまいという、何の意味もない、本当にちっぽけな、僕の意地だ。

体の内側から聞こえる異音が大きくなる。終わりが近づいているのがはっきりわかる。僕は手遅れになる前に、書くか書くまいか悩み続けていた一文を左手で走り書くことに決めた。なんというかあらかじめ言い訳しておくと、こういう行いは男らしくないかも知れない。が、書かなければならないと思うんだ。だから書くことにする。


雨はさらさらと降り続けている。この、永い永い雨宿りを終えたら、僕は君に



文はここで途切れている。

これはオルト星との星間戦争において、オルト星側の先制攻撃として使用され、人類とその文明の八割を消滅させた消滅雨の跡地から発見された犠牲者の手記である。この後、地球はオルト星に侵略されたが、今から百二十年前の闘技場会議において自治権を回復した。現在では惑星間の国交は密接となり全面惑星間戦争の危機は遠ざかったように思えるが、現在でも宇宙では数多くの宇宙戦略級兵器が保有されており、真の平和には、惑星間の更なる交流と、軍縮への取り組みが必要となる。

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永い雨宿り 初瀬川 @paiotukaide-

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