7-7:Words spilling outー溢れる気持ちー

「あ……、ありがとうございます! こんなに早く写本を貸してくださるなんて」


 天鵞絨ビロードで仕立てた袋から、約束していた大英雄カティーア叙事詩の写本を出して手渡すと、彼女は両手を差し出して、恐る恐るそれを受け取った。

 銅色あかがねいろの華奢な指が、まるで繊細な硝子細工にでも触れるように優しく本の表紙を撫でる。

 薔薇色の唇から力が抜け、弧を描いた。柔らかく微笑みを浮かべてから彼女は、青葉の色をそのまま閉じ込めた宝石のように輝く瞳でこちらを見る。

 どのような方法で渡すべきかと昨日一日考えていたはずだというのに一瞬、言うべき言葉を忘れて見とれてしまう。

 首を傾げたジュジの一つにまとめられた髪がサラサラと音を立てて流れる。思わず見とれていることに気が付いたオレは、小さく咳払いをしてそっと彼女の腕に抱えられいる写本を指差した。


「書庫で眠っているよりも、君のような人間に読まれた方が本のためだろう。学院こちらの写本は第二十八版だが、こちらは第四版になる」


「薄くのばした赤銅を髪の部分を装飾しているんですね……二十代目のカティーアは赤髪という伝承が多いですものね」


 椅子に座って、机の上に写本を置いた彼女は、表紙を人差し指で撫でる。

 ジュジは、とても優しげな表情を浮かべているように思えた。


学院カレッジの写本は、不特定多数が読むことを想定されている。量産品でも表紙が凝っているものがあるとはいえ、見栄えよりも耐久性が重視される傾向にある」


「壊してしまわないか心配です……あ、でも……これ、強化魔法で保護をしてあるのですね」


「……驚いた。君はよく気が付くのだな。第四版にしては汚れも傷も少ないことを指摘出来る物は数えるほどしかいなかった」


「あ、は、はい」


 魔法院の本塔に出入りするような研究者へ、このようなことを伝えるのは不躾だっただろうか。

 控えめに微笑んだジュジに対して、オレは蔵書の説明を続ける。


蒐集品コレクションは、職人達に頼んで全て強化魔法を施してある。……とはいえ、貴重なものをぞんざいに扱うような輩には貸したりしないのだが」


 言葉がうまく、出てこない。


「君は、きっと大切にしてくれる。返すのはいつでもいい」


 それだけ言って、視線を上げる。


「ありがとうございます……。大切にします」


 写本を両手で胸に抱きしめながら微笑んだ彼女を見て、急に先日ネスルの「そりゃあ恋ってやつかもしれねーですよ」という言葉が思い浮かんだ。


オレが、君に恋をしているのではないかと聞かれたことがあるが」


 先ほどまでなかなか出てこなかった言葉が、今度は止まらなくなる。

 きょとんとしている彼女の表情を目にして、頭の片隅で止まれと微かに思うが、こんな自分のどこから溢れてくるのかわからない気持ちが唇から勝手に零れ出す。


「劣情を伴い、燃え上がるような感情を指すのは恋というものだと、人の機微に疎いオレでも知っている。君に対して、激しく劣情を煽られたり、感情が揺さぶれるような状態は心当たりがない」


「……はい」


「……だが、君といると、まるで育芽の月に降り注ぐ陽だまりの中でまどろみたくなるような心地になる」


「あの……」


オレのようなつまらない男に時間を割いてくれて感謝している」


 何か話そうとする彼女の言葉を遮りながら、頭を下げる。そんなオレの肩に、ジュジが優しく手を添えた。


「顔を上げてください。その、わからないですが……ええと、大丈夫です」


 顔を上げると、息の掛かりそうな距離にジュジの顔がある。

 胸がまた強くいたんで、耳が熱を持つ。味わったことのない高揚感が湧き上がってきて、目の前にいるこの美しい女性に傅きたくなる気持ちを抑えるのに精一杯になる。的確な返答も、急におかしなことを言い出したことの謝罪の言葉も出てこないまま、彼女と見つめ合った。


「あ、ジュジ先生ちょうどいいところに」


 突然聞こえた声の方へ、ジュジは顔を向けた。

 図書室の入り口から入ってきたのは、豊かな褐色ブルネットの髪を腰まで伸ばしたふくよかな年配の女性だ。

 温厚そうな笑みを浮かべた彼女は、身の丈は小さいが、金糸で縁取りをされた黒いローブを羽織っていることから学院カレッジの教員だとわかる。


「ええと……錬金術のタイミヤ先生、ですよね。その、私に何か用事が?」


「授業に協力してくれるはずの先生が怪我をしちゃって寝込んでるのよ。それで、代わりの人を探していたのだけれど、いいかしら?」


 差し出された肉付きの良い手が、ジュジの細い手首にそっと触れる。

 一瞬、体を強ばらせた彼女は、眉尻を下げて自分よりも少しだけ背の低い女教員の顔へ目を向けた。


「軟膏を作る授業があってね、薬草に詳しい人がいてくれないと困っちゃうのよ。お礼もするから、頼めないかしら?」


「え? あ、ああ……えっとセーロス、その……」


 本を入れた天鵞絨ビロードの袋をしっかりと片手に抱きながら、ジュジはこちらを見上げた。

 タイミヤと呼ばれた女教員も、彼女に釣られるようにして深い青色をした瞳をこちらへ向けてくる。

 彼女が何か予定を入れることに、オレが何か意見を求められるとは思っていなかった。

 優しい彼女のことだ。きっとオレの予定でも気にしているのかもしれない。しかし、困っている同僚がいるのならば、私的な用事よりもそちらを優先すべきだ。

 所詮、臨時の教員であるオレなどよりも、長年勤めている教員から助力を求められているのならば、それはおそらく良いことなのだろう。


「……オレのことは気にしなくてもかまわない。写本を渡す目的は果たした」


 胸の辺りが締め付けられるような感覚を無視して言葉を続ける。

 しかし、ネスルのいう通り、きっとこれは傷や病の類いではないのだろう。耐えられない痛みではない。

 ジュジは、オレからタイミヤへ視線を戻すと微笑みを浮かべた。


「じゃ、じゃあ、その、私でお役に立てるかわからないですが」


「よかったぁ。せっかくのデートを邪魔しちゃってごめんなさいね。じゃあ、ちょっと高等部の魔法塔まで一緒に来てちょうだい」


「デートというわけでは……」


 オレの言葉を聞かずに、タイミヤはジュジの手をそっと掴んで早足で図書室から出て行く。

 ジュジは去り際に小さく頭を下げて、彼女と共に学院カレッジの奥にある魔法塔へ去って行った。

 いつも通りのちょっとした肌寒さを覚えながら、この後の予定をどう埋めようか思案しながら歩いていると、気が付けば中庭に辿り着いていた。


「お……セーロスじゃないっすか。さっきタイミヤ先生に引っ張られてるジュジちゃんとすれ違ったけど、逢瀬のあとっすかぁ」


 背中を丸めたままこちらへ近付いて来たネスルは、そう言って渡り廊下の向こうにある魔法塔を顎で指し示す。


「逢瀬というわけではない。ただ、蒐集品コレクションを貸しただけだ」


「は? あんたが……他人に……英雄叙事詩の写本を盗みに入った賊をわざわざ魔法院の正門まで引きずってきた後に四肢を切り落としたり、書庫に入りたいとねだった貴族の令嬢をこっぴどく振ったりしたあんたが……」


 大袈裟に上半身を仰け反らせるネスルの目を覆うように伸ばされている前髪が揺れる。

 すぐに元の背中を丸めた格好に戻ったやつは、腕組みをしたままオレの返答を待つようにじっとこちらを見つめてきた。


「……同好の士に手助けをしただけにすぎない」


「で、逢瀬に邪魔が入ってがっかりってとこっすか?」


 右手に持っていた箒を、肩に担いだネスルは魔法塔の方を見た。

 逢瀬というわけではないのだが……と前置きをして、オレはさきほどまでのことを説明する。


「というわけで、この後はどうすべきか思案していたらこちらに足を運んでいた。残念だという気持ちは少なからずあるが、業務が差し込まれたというだけのことに対して邪魔というほどの悪感情は……」


 持っていない……そう続けようとして、向かい合っている相手の纏っている空気が変わった。思わず口を閉じると同時に、けたたましい鳥の鳴き声が聞こえた。

 その瞬間、長い前髪の間から垣間見えるネスルの三白眼がスッと細められる。


「……ちょっとまずいかもしれねぇなぁ」


 静かな声でぼそりと呟いたネスルは、頭をらんぼうにガシガシと掻くと、両腰に手を当ててかぶりを振った。


「仕方ねぇ。気に入らねぇが仕事は仕事だ。あんたはジュジちゃんの様子を見ててくれ……っす。何も無きゃそれでいいが」


 慌てて元の口調に戻したようだったが、それもすぐに荒々しい口調に戻っている。

 こいつが学院カレッジでこういう話し方が出るのは珍しい。慌ただしく姿を消したネスルになにも聞くことが出来なかったオレは、よくわからないまま魔法塔へ足を運ぶ。


 嫌な予感がする。

 気が焦る。

 魔物が街や村を襲ったと報告を受けたことは一度や二度ではない。

 言葉に表すことすら阻まれるような惨状を目の当たりにした。

 任務の邪魔だという理由で、人間の命を奪うことにも躊躇ったことはない。魔物よりも非道だと言われればオレはその評価を甘んじて受け入れるだろう。

 だが、どうしてだか学院カレッジの教師……、いや、ジュジがそういった目に遭うかもしれないと思うと胸の近くがぞわぞわとざわめく。

 ネスルの考えすぎであれば良い。そう願いながら、すれ違う人々を除けながら普段は踏み入ることのない魔法塔へと向かう。

 中庭から本舎へ入り、渡り廊下を走り抜けた。階段を駆け上がり、幾つも並んでいる教室を見渡す。


「……どこだ」


 思わず舌打ちをして、廊下に横並びになっている両開きの扉の数を数える。廊下に窓のようなものはなく、外からはジュジがどの部屋にいるのかを、外から覗うことは出来ない。

 近い扉から開いていくしかない。そう判断して一番近くにある扉に手を掛けた。


「これ、は」


 ぞわりと足下から湧き上がるような寒気が這い上がってくる。

 頬や耳をそっと見えない何かに撫でられたような感覚がして、背筋が震えた。

 腰にぶら下げていた剣の柄へ無意識に手が伸びていた。そのまま剣をいつでも抜けるように構えながら、冷気や敵意に似たものが強くなってくる方向へ足を運ぶ。

 扉の前に立って固唾を飲んだ。まだ、悲鳴や血の匂いはしない。

 オレは、魔術や魔法に疎い。

 だから、扉を開いた途端にこれが勘違いで、魔法に疎い剣士は大袈裟だと生徒達やジュジに笑われても構わない。

 オレは魔法の才能がない。耳長族たちのように妖精とやらを見ることも、生き物の形を借りる前の魔物を察知することも出来ない。

 だが、殺気と嫌な予感にだけは良く気が付く。今の気配は、殺気にとてもよく似ている。


 目線よりも少し下にあるドアノッカーに手を掛ける。

 グッと手に力を込めて両開きの扉を開くと同時に、吸い込んだ息ごと体の内側が凍りそうなほど冷たい空気がこちらへ向かって流れてきた。


「セーロス先生……」


 どこか緊迫したような雰囲気の教室へ押し入るようにして入ったオレは、そのままタイミヤと並んで教壇に立っているジュジの腕を取った。


「ジュジ」


 小さく震えていたジュジは、視線を上げて首を左右に力なく振る。

 よく見ていなかったが、その腕は透明なガラス製の蓋を抑えていた。その中には煌々とした青い光を発している魔石が浮いている。


「ダメ、です。みなさんを連れて逃げてください」


 寒さからか、緊張なのか判別できないが、上擦った声でジュジはそう呟いた。

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