木の上の女神
ロッドユール
第1話
紫音は一人湯船に静かに佇んだ。
―――世界は無音だった。
涙が流れた。意味も無く無性に悲しかった。無限の寂しさがどこまでもどこまでも紫音の心の中に広がっていく。
「あなた、泣いているのね」
カミュゥが顔を覗かせた。
「悲しみでいっぱいなんだ」
「何がそんなに悲しいの」
「全てさ」
「そう」
「とても寂しいんだ」
「いいところに連れてってあげるわ」
紫音は涙でぼやけた視界でカミュゥを見上げた。
―――「ここよ」
そこには何もなかった。
「何もないよ」
「よく見て」
草原の真ん中に大きな木が一本だけ立っていた。二人はその木の下まで行った。
「木の上の女神よ」
カミュゥが木の上を見上げた。
「木の上の女神?」
紫音もその木を見上げると、女がそこにいた。ごく普通の女だった。
「君は木の上の女神?」
「そうよ」
「なんで君は木の上に住んでいるんだい」
「木の上の女神だからよ」
「なぜ君は木の上の女神なんだい」
「知らないわ」
風が木の上の女神の長い髪を揺らした。
「僕は天使に会いたいんだ」
「お安い御用よ」
木の上の女神は初めて笑顔を見せた。
小型のヘリコプターが遠くの空から、カラカラと軽い音を辺りに響かせながら近づいてきた。
「天使が来るわ」
木の上の女神が言った。
「天使がヘリコプターに乗ってる」
「天使だって近代化するのよ」
その時、天使のヘリコプターが木のてっぺんに止まった。
「さあ」
木の上の女神にそう言われて、紫音は木を昇った。
ヘリコプターの中はとても狭かった。天使は紫音が隣りに座ると、大きな羽を苦しそうに小さな操縦席に押し込め、ヘリコプターをゆっくりと上昇させた。
ヘリコプターは来た時と同じようにカラカラと軽い音を立てていたが、その音とは関係なく、ふわふわと飛んでいった。
天使は何もしゃべらず、巨大な色素の薄い透明に近い目だけをぎょろぎょろと動かしていた。でもなぜか、とても心地の良いやさしい雰囲気を紫音は感じた。
窓から夜空を見上げると、天国が見えた。
神さまがちょうど、笑いながら大きな鉈で人間を処刑するところだった。その近くで天使たちが巨大なペニスを更に膨張させ、逃げ惑う女の子を追いかけまわしている。その向こうで巨大な女神さまたちがアヘンの煙を吸い、夢見心地のとろんとした目で人間を楽しそうにいびっている。
窓から下を覗くと、今度は世界が見えた。
美しい女王様が豚みたいな政治家を華麗な鞭さばきで調教している。生まれたばかりの赤ちゃんが絶叫で軍歌を歌っている。永遠にサラリーマンの男が、額から血を大量に流しながら、壁に何度も頭をぶつけペコペコと謝っている。生きていることを失った学生が、一人眠れない夜に高速で何度も射精をしている。目を血走らせた主婦が、深夜に返り血を浴びながら、大きな豚を脂と肉に分けている。胸の大きな女子高生が、嬉しそうに一粒三十円の飴玉で汚いおっさんたちに体を売っている。山ほどの人間を殺した帰還兵が、泣きながら銃を乱射している。
「僕は世界の本当を初めて見たよ」
天使は少し微笑んだ。
「みんな寂しいんだね」
紫音がそう言うと天使は、やさしくうなずいた。
ヘリコプターは木の上の女神のいる木の上に戻ってきた。
「ありがとう」
紫音が手を振ると、天使は少し微笑み、ヘリコプターを再び上昇させ、行ってしまった。
「もう戻らないかと思ったわ」
カミュゥが言った。
「僕は僕に戻るしかないんだ」
「結局そうね」
「木の上の女神がいない」
紫音が木の上を見上げた。
「木の上の女神は木の上の女神をやめたのよ」
「木の上の女神が木の上の女神をやめて何になるんだい」
「さあ、何の女神にだってなれるでしょ」
「そうだね」
「さあ、帰りましょ」
「うん」
二人はまたもと来た道を歩き始めた。
「ごめんよ」
紫音がカミュゥに言った。
「君も寂しかったんだね」
「いいのよ」
二人は、明け始めた夜空を見上げた。それは半分白で半分黒だった。
木の上の女神 ロッドユール @rod0yuuru
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