魔女泣かせの魔法

大村あたる

第1話

 地に足がつかない、という感覚を体験したことはあるだろうか。あるいは、足元がおぼつかない、と言い変えてもいい。

 例えば寝不足の朝、朝の眩しい日差しの中を歩いている最中、視界が一瞬真っ白になったときに感じる、気持ちの悪い、まるで足が地面と平行に滑っているようなあの感覚。

 だけどまさか時も、同じような感覚を得られるとは思っていないかった。おかしい。昨日の夜はぐっすり寝たはずだ。

「悪い冗談。長い夢だよな」

 そう言いながら目の前にかざした手のひらは五時間前と何も変わらず、その先の黒板を透かして見せた。




 死んだ、らしい。あるいは幽体離脱。エクトプラズム。大穴で透明人間。とにかくそういった感じの、つまりは健康的な身体じゃないオカルトななにか。制服を着たままの体は半透明に透き通っていて、空中に浮かんでいる。他の、俺から見れば健康な体を持っているやつらには声は届かないし触れもしない。そのくせ壁や床をすり抜けたりはできない。物体に触ろうとすると、なんというか、間にゴム毬でもあるかのように弾かれる。おかげでさっきも言ったとおり、足は地面をつかめずただ漂うばかり。

 いやに冷静だなと思われるかもしれないが、そりゃあ俺だって目が覚めたときは驚いた。ぽつぽつと登校を始めたクラスメイトの目の前で、暴れた喚いた泣き叫んだ。いつもなら目立たないように教室の端で寝たふりをしている男でも、こうやって騒ぎ立てればだれか見てくれるんじゃないかと望みをかけた。だが現実は非情で残酷で、クライスメイトはだれ一人として俺の狂行に目を向けることはなかった。あるいはこんな痛々しい男のことなど視界に入れたくなかっただけかもしれないが、意図的に目をそらすような輩はいなかったので多分それはないだろう。おそらく。そうだったらまた泣く。

 そして、これが一番重要なのだが、俺はこの教室から出ることができない。登校してくるクラスメイトが開けるドアの横を通ろうとしても、日直が換気のために明けた窓から出ようとしても、床や壁と同じように例のゴム毬に阻まれる。おかげで俺は朝礼が始まってから放課後の今まで約十時間、誰にも気づかれないまま自分のクラスの宙に漂うことしかできなかった。そりゃそれだけ何の変化もなく放置されれば、精神のほうも落ち着かざるをえない。

 他にも自分の頭で思いつくことはすべて試したし確認した。自分をつねってみようにもまず触ることができず。昼の十二時になっても腹の虫は鳴く気配すら見せない。唯一収穫があるとすればスカートの中を直視しても怒られなかったことぐらいだろうか。ただし股間は反応しなかった。これは俺の名誉のために言っておくが、俺は断じて不能などではない。これも幽霊になった弊害だろう。

 大体自分が死んだときのことを覚えていないのに、自分が死んだということを受け入れられるほうが間違っている。そう、覚えていないのだ。俺は自分が死んだときのことを覚えていない。黒板の日付を確認したところ、おそらくここ一か月くらいの記憶がすっかり抜け落ちてしまっている。最後の記憶はいつだか分からない夜自室のベッドに潜ったところまで。ぐらいの記憶気付いたら自分の教室に浮いていた。

 放課後の現在、教室には既に俺しかない。クラスメイト達はいつもと同じように帰宅したり、部活に行ったり、あるいは塾、あるいは思い人との逢瀬に向かった。授業の行われているときはクラスメイトを見ていればいいので退屈しなかったが、こうなると本当に娯楽がなに一つとしてない。無だ。完全なる無。自分の声と風の音、校庭でときたま響く球音くらいしか刺激物がない。ありていにいえば。

「暇だ……」

 そんな言葉をつぶやくくらいしか、もはや俺に残されている選択肢はなかった。こんなことなら天国、いや地獄でもいい、とにかくどこかに送られたほうが百倍マシだ。地縛霊浮遊霊にしたって同じようなやつが周りにいてそいつらと話せたりとか、生きてるやつらを驚かせるためにポルターガイストぐらいは悠々と起こせるもんじゃないのか。そんなことを考え始めたらイライラしてきて、今日何度目かの叫び声を窓に向かってたたきつける。何回叫んでも喉がやられないのはいいが、どんなの大きく叫んでも窓ガラス一つ揺れないのはなにか物悲しい。せめてあの人に一言、もう一度思いを伝えたい。そう思っていたそのときだった。

「う! る! せーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」

 叫び声が聞こえた直後、背後でバンッ、と大きな音がした。

 何事かと降りかえってみると、教室の引き戸はレールから外れ内側に倒れており。

「……魔女、先輩」

「……だーかーら、真白だっての」

 倒れた扉の上に立って、不服そうに頬をふくらませる彼女は、たしかに俺のほうを見ていたのだった。

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