鮫とハイビスカス

サイトウトモキ

初撃 新たなる拳


 「っし、次で終いだ、歯ァ食いしばれよ!」

 

 「ッガああああああああああッ!!!!」

 

 大判を押し付けられた青年の手の甲が、灼けて震えた。褐色の肌に刻まれた紋様の上を外でそよぐヤシの葉の影がちらちらと踊る。暗い色の木の枠で仕切られた空は青い。

 

 「よぅしお疲れさん。イハ、お前もこれでやっとガームの扉を叩けるわけだな」

 

 掴んでいた判を降ろした腕は、ココナツの幹かと思う程に太い。その甲にも同じように紋様が焼きこまれている。

 

 幾多もの敵対魔生物を葬り去ってきたであろう拳と自身の拳を見比べて、イハの胸はぞくぞくと高鳴る。

 

 「もうこれで魔生物に負ける気しないっす!」

 

 途端、大きな平手が飛ぶ。

 

 「いっっつ」

 「何を言うとるこのばかたれが!」

 

 怯んだ頬を擦りながら正面を向くと、鬼のような形相でダンは腕を組んでいた。

 

 「言っとくが、今日からいきなり出撃できるわけじゃねぇからな」

 「あーもうダンさん、分かってますって」

 

 イハがひらひらと動かした右手を、ダンは強く掴んだ。

 

 「十六の歳で免許皆伝道場卒業。そりゃ立派だがな、ガームじゃそういうわけにゃいかねえぞ」

 

 何も響いていないようなイハの表情を睨みつけながら、ダンはため息をつき、右手を投げ捨てる。

 

 「これから対面式だ。ついてこい」

 

 まだひりつく頬を左手で支えながら立ち上がる。するとダンの広い胸板にぽつりと下げられた、小さな緑の石が内側から光を堪えた。

 

 『こちら通信部アンデラガームに出動を依頼します。直ちに転送陣へ移動してください』

 

 「ダンさん! 俺も行かせてください!」

 

 舌打ちをするダン。

 

 「このばかたれが! 精神と紋様がまだ繋がってないヒヨコなんか取って喰われるだけだろうが!」

 

 緊迫した声が空気を震わす。

 

 「素手でもやれます! 俺も連れてってください!」

 「んなわけあるか! ヒヨコは巣で待ってろ。すぐ戻る」

 

 部屋の隅の転送陣は踏みつけると緑色に閃く。

 

 「俺も連れてってくださいよ!! ダンさん!!」

 

 額に三つ指をつけるサフティ式の敬礼とともにダンの姿は光となって霧散した。

 

 「クソッ! 俺だって闘える! 闘えるのに!」

 

 イハは玩具をねだる子供みたいにして右脚を転送陣の上に何度も何度も踏み下ろした。それに応じて緑の鮮烈な花火がぱち、ぱち、と散る。

 

 「俺だって! 父さんみたいに!」

 

 刹那、ヤケクソになって踏みつけた転送陣が緑色の光でイハを包んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

  

 「角かわして回れ!! 東を塞げ! テェンダの崖に追い込むぞ!!」

 

 怒号。

 破裂音。

 呻き。

 焦げる匂い。

 

 人の背丈ほどの角のついたフナムシが浜を埋め尽くしていた。装甲は翠がかった黒で、遠い国の甲冑のように鈍い光の筋が入っている。

 

 甲虫は砂煙を立て、浜を蹂躙して東の火山へと突き進む。東を塞いでいた槍にぶつかりに行くもの、進路を変えるもの、しかしどれも引き返すものはなかった。

 

 剣と槍の切っ先が踊り、マナ由来の電撃が乱れ飛ぶ。テェンダの崖の付け根ではガームと虫の乱闘が繰り広げられている。イハは大きく息を吸うと、岩の陰から素早く飛び出した。

 

 一撃、体重を乗せた拳が装甲に弾かれる。思っていたよりも硬い。間合いを取ろうと地面をつま先で蹴るが、虫はイハに突進してくる。

 

 角が迫る。

 

 しかし、突き上げんと引いた一瞬を見逃さずに断崖を使って横飛びする。突撃は崖に当てられ、衝撃で浮いた岩がバラバラと虫に襲いかかる。

 

 「やった! 俺だって闘えるんだ!」

 

 「このばかたれが! 今すぐ岩陰に戻って大人しくしてろ!」

 

 拳を空に掲げたイハに、罵声が虫を投げ飛ばしながら近づいてくる。イハはそれに気づいて大きく手を振る。

 

 「ダンさん! 見ましたか?! 俺のかっこいいとこ!?」

 

 「バカ、後ろ!!!!!」

 

 イハはダンの言葉に慌てて振り返ると、すぐ目の前に黒い角が迫っていた。

 

 あとこぶし一つ。

 

 全身の毛穴が萎縮するのが分かる。

 

 走馬灯のように景色がゆっくりと揺らめいて見える。

 

 ダンはありったけのマナを巡らせて加速したが、それはあまりにも遠すぎた――。

 

 「うあああああああああああッッ!!!!!!」

 

 火薬でも使ったのかと思わせる程の鈍い音がダンの鼓膜を叩いた。

 

 黄色い土煙の煙幕が沸き起こる。

 ダンは加速に当てていたマナを瞼に寄せながらも走った。

 

 「イハ! お前――」

 

 叫ぶ口は途中でむせた。火山灰も交じるこのフビジ浜の砂は、口に入ると酷くじゃりつく。くそ。唾液を吐き棄てながら足を動かす。すると、砂煙の幕に屈んでいる人影が透けた。

 

 「――まさかさっきので、お前、」

 

 裏の小難しそうな脚の機構を丸出しにしながら虫がのたうち回る。

 

 「ダンさん! さっきの俺すっげえかっこよくなかったっすか?!」

 

 頭の前で十字に組んだ腕には紋様がぎっちり詰まっている。ダンはその緻密さに一瞬目を見開いたが、すぐにイハを片手で抱え上げた。イハは立てないほどに消耗していた。

 

 「……このばかたれが。吸収と放出を間違えおって」

 

 さっきの衝撃でおそらく肋をやったのだろう、岩陰に投げ込まれた身体は力なく崩れ落ちる。汗で濡れた全身にびっしりと黄色い砂が張りつく。

 

 「お前は終わるまでここでじっとしてろ。言っとくが、これは指示じゃなくて隊長としての命令だ」

 

 「くそっ」

 

 まだ闘える気がするのに。いやに冷たい日陰の砂を握りしめる。情けなさに唇を噛むと鉄の味がして、思い出したように肋骨が痛みを叫び始めた。







 

 イハを投げたダンは、虫たちと対峙していた。

 

 「とんでもねえ数だなあこりゃ。一匹一匹は大したことねえんだが」

 

 虫が砂埃を巻き上げて突進してくる。

 

 左手に紋様を集めて構成していく。

 

 そしてゆっくりと左手を突き出した。

 左手に角が触れた瞬間に、虫の突進は運動量を失っていった。

 

 衝撃と紋様を媒介にして魔生物からマナを取り戻し、鎮静化させる。そして奪ったマナを身体強化に当てて敵を撃破する。それがガームの基本的な立ち回りである。

 

 紋様でのマナ吸収のためには、精神と紋様の融合が必須になる。通常三ヶ月はかかる融合を、イハは三十分でやってのけてしまった。

 

 そしてあの紋様の構成力。緻密に組めば組むほど高感度になるが、短時間で咄嗟に高密度の紋様を組むのは、二十年経験を積んだダンでも難しい。

 

 

 ――三日で融合したガイがもはや伝説になってるってのによ、あのバカ、とんでもねえ野郎だな――

 

 

 マナを上半身に巡らせたダンは右手を固く握り、砲よりも重い突きを放った。虫は衝撃を吸収しきれず潰れ、細かく砕け塵になって消えた。

 

 しかし息をつく暇もなく、虫の濁流に飛び込んでいく。

 

 止めて、吸収して、投げる。

 

 投げられた虫とそれに押し潰される虫。三、四匹を一気に潰していく。異変に気がついたのは、浜辺を覆っていた虫がほとんど消滅させられてからだった。

 

 「いったいどうなってやがるんだ?」

 

 すっかり少なくなった虫たちが、列をなして海へ突っ込んでいく。

 

 『こちら通信部アンデラ。引き続き警戒をお願いします』

 

 「分かってんよ。俺二十年やってるけどよ、こんなの見たこたぁねえぜ」

 

 『そうでしょうね。記録にもありませんでしたから』

 

 全ての部隊が固唾を飲んで波打ち際を見つめていた。

 静けさを陽ざしがきつく灼いている。

 ついに最後の一匹が海に消えた。

 

 「なんだ、結局逃げ帰っただけかァ?」

 

 ゼーの部隊が切っ先を下げようとした瞬間、

 

 「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 

 声なのか音なのかも分からない呻きと共に、足の長い波が浜辺を攫った。

 

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