第7話「あれはノーカウント」

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 喫煙所で俺はひとりタバコを吸おうと火をつけたところだった。

 まったく嫌な世の中だ。

 四階建ての建物なのに一階の隅っこにしか喫煙所がないなんて。

 もちろん屋根もない、青空喫煙所。

 春秋冬は、日陰でじめじめしてそして冷たい風が強く吹き、クソみたいに寒い。

 夏はなぜか日当たり良好で、風も吹かずタバコを吸うか熱中症になるかを選択しなければならない。

 だから春なのに寒い風に打たれながら、ちびちびと煙を吸い込んでいた。

「一本もらってもいーい?」

 不意に声をかけられた。

 子供のような声。

 ちらっと見る。それは予想した通り、真田中尉だった。

「どうぞ」

 彼女はぎこちなくタバコを受け取り、じーっと珍しそうにそれを観察している。

「つけてほしいなあ」

 と言って今度は俺をじーっと見てきた。

 あの夜とは違う顔、昼間に見せる顔の真田中尉だった。

 天然ぶってる。

 今ならそうわかる表情。

 俺は彼女が口にしたタバコに火をつけると、ぎこちなく彼女は吸ってみて、軽く咳き込む。そして眉をひそめながら俺を見上げる。

「綾部軍曹は、ふたつ上なんですね」

 年齢のことをいっているのだろうか。

「ええ」

「もっとおじさんかと思った」

「そりゃ、どうも」

「……中隊長に言いましたね」

 言ってない。

 知っていた。

 まあ、ここでそんなことを言っても、しょうがない。

「……」

「怒られませんでした、その代わりに『見合いしろ』って」

「……」

「辞めろって言われるかと思って、覚悟していたんだけど」

 彼女はその天然ぶった笑顔を崩さず話している。

「俺は正直、中尉にはお辞めになって頂いた方がみんなのためになると思いますが」

 なんだかその笑顔に対し、ぞわぞわした気分になったため、意地悪なことを言ってしまった。

「意地悪」

 と、直球で返された。

 続いて「それに軽薄、嘘つき」と少し子供っぽく口を尖らせて言ってきた。

「ちょっと待って下さい、俺は軽薄だってのは認めますが、嘘つきは認めません」

「軽薄は認めるんだ」

「しょうがない、みんなそう言う」

「嘘つき」

「何が」

「いいか、よく聞け! 俺は、仲間を売ることはしない! 以上、それだけだ」

 俺の口真似をするわけでもなく、彼女はジト目かつ棒読みでそう言った。

 いや、ちょっとまて、それは反則だ。

 勢いでってのもあるが、あれを今ここで思い出すと、羞恥プレイもいいところだ。

 あんなに臭いことを言ってしまった自分の口をもぎ取りたい衝動に駆られる。

「本当に中隊長に告げ口はしていない」

 告げ口。

 小学生か俺は。

「……軽薄、信じられない」

 彼女は子供っぽさのない声でボソッと言った。

「あのな……」

 俺は吸い終わったそれを灰皿に押しつける。そして、備え付けの針金で吊るされてゆらゆら揺れる、頼りないペットボトルを適当に加工して作った消火用の水にそれを突っ込んだ。

 小さな音だが、いつにも増してジジーという音が響いた。

「その、俺はよくわからないんですが、民間人でいい男みつければなんとかなるんじゃないんですか」

 彼女は慣れない煙を吸った為か、答える前にちょっと咳払いをした。

「お見合いなんて」

 そう言った彼女の翳った顔を見て、俺の中でいつもの「やめろアラート」が鳴り出す。

 これ以上は立ち入ってはいけない。

 これ以上は関わってはいけない。

 そんな時に、そういう空気を感じたときに頭の中で鳴り出すそれをそう名付けている。

 今までそういうことに巻き込まれまくったことを思い出す。

 そんな大した自慢にもならない経験値を糧に、そういうものを空気で感じることができるようになっていた。

 だが、残念ながら一度も役に立ったことはない。

「私の内側を少しでもさらけ出したら、たいがいの男は逃げるんだけど」

 その言葉はさすがにひく。

 どんだけ痛いんだ、この女。

「今、痛い女と思ったでしょう」

「正解」

 正直に言った。

「ショック」

「俺、軽薄だから、ぜんぜん気にしなくていいと思いますよ」

「上官に対してその笑顔、すごいむかつく」

「痛い子を見る目です、真田中尉の『ぶった』笑顔よりマシです」

「……」

 彼女は黙って手に持ったタバコを灰皿に押し付けた。

「うまくやっているつもりだったんだけど……前のところで失敗したから、心配させなように、部隊の男には手を出さなかったから」

「いや、あんた俺に手を出したでしょう」

「あれはノーカウント」

 なぜ、ノーカウントなんだ、おい。

「くわえてないし、いれさせてない」

 彼女が心の中の問いに答えるようなタイミングだったので、俺は一歩下ってしまった。

 怖えよ。

 どぎついことを可愛い顔で言うからまじで恐ろしい。

 だが、俺も反撃をする。

 負けてられない。

「ところで、なんでお金を」

 頭の中のアラートが鳴り響く。

 なんでそんなこと聞くんだ俺……入り込むなよ俺。

「お金を挟めば後腐れがないから」

 さらりと、二十七歳には見えない顔で言う。

 そのギャップがすごくもの悲しく感じた。

「……」

「前のところは後腐れしちゃってもつれちゃったから……それに綾部軍曹も知っているとおり、ここの人達に手を出さないことがこの部隊にいる条件でしょ? だからムラムラっときたら買ってもらう」

 もう迷惑をかけれないと彼女は呟いた。

「秘密にしてくれるなら、買う?」

 笑顔で安くするからと付け加えた。

「……」

 もしかして腹いせで挑発しているのだろうか。

「前みたいに怒らないんだ」

「あの時は、俺が侮辱されたから」

 俺は嘘をついた。

 人から誤解されているが、俺はあんまり自分が馬鹿にされても怒らない性質だった。

 俺はあの時、別のことに怒っていた。それに、今は挑発に乗ってはだめだと自分の中の経験値さんが言っている。

 俺はもう一本取り出すと、それに火を付け、ゆっくりと吸った。

 あの時と同じ。

 同期でもう辞めてしまったが、ひたすら風俗におぼれ借金を繰り返し、そして同期のよしみで借金を繰り返し、そのまま脱走した男。

 ただ何故か憎めなくて、でも、俺のそういう同情につけこむようにいろんな方向から攻められ、そして結局俺は金を貸した。

 あんな経験を繰り返しては駄目だ。

 俺は立ち上がらず、無言でフィルターギリギリまで煙草を吸い続けた。

 ただ、あいつとはちょっと違う。

 あいつは軽かった、薄っぺらかった。

 目の前の女は、深々とした痛々しさが浮き彫りになっている。

 一瞬、ミハルさんの細い背中と重なった。

「なんだ、怒るのを期待していたのに」

 彼女のか細い声が一瞬にして風にかき消される。

 だから、聞えなかったことにした。

 彼女が立ち去ってからしばらく経った後、やっと重たくなった腰を上げた。

 手と足が重い。

 ぽいっと灰皿の中に吸い終えたタバコを投げ入れる。

 面倒なことはごめんだ。

 もう、巻き込まれるのもごめんだ。

 投げ入れたつもりのタバコは見事に外れて転がり、地面の割れ目に挟まる。

 俺は棒っ切れで必死に取り出し灰皿にやっと入れることができた。

 少しでもゴミを散らかしていると、嫌煙家の中隊長にどやされることになる。

 マナー違反、はい撤去。

 笑顔でそういうことをやる上司。

 まったく。

 今日はついていない。

 あの女と会話したことも。

 タバコが転がったことも。

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