第4話「定番なものだったら」

 □□□□□□

 

 あの夜から一週間が経った。

 もちろんあの男はうちの職場の人間ではなかった。

 真田中尉を抱いたはずの男は。

 お陰で中隊長や先任に報告する必要はなく、俺の中でさーっと消化してそこらへんの便器に流すことができた。

 そう、別に騒ぐことではない。

 職場の女がどこの誰と寝ようが関係ない。

 俺がミハルさんと不倫をしようが中隊には関係がないように。

 何も変化はない。

 彼女と俺も職場で会う。

 すれ違いざまに敬礼をするぐらい。

 いつものように「うーっす」と言いながら俺は敬礼をする。向こうもいつもどおり「おつかれさま」と答礼をする。

 まったく気にもならない。

 職場での彼女はとても二十七歳には見えない容姿だった。

 背も低く、化粧も薄いからかとても幼く見える。

 もっと化粧っ気をなくせば学生達と同化してしまうと言っても過言ではない。

 美人というほどではないが男が圧倒的に多い職場ではそのかわいらしさで、モテモテだ。

 うちのゴツイ野郎どもの目じりが下がるのがよくわかる。

 そんな顔をしていないのは先任上級曹長センニンの中川曹長ぐらいだ。

 あのクラスになると人の心を捨ててしまって、鬼の心だけ残しているはずだからしょうがない。

 学生に関して言えば男子だけでなく女子にも人気がある。

 かわいい癒し系教官というような扱い。

 すでに一学年のガキ共にもなめられていると聞いている。

 そんな天然キャラの小隊長。

 それにしても俺は職場の女というのがどうも苦手だ。

 しょうがない、馬鹿か阿呆しかいない野郎どもの中で十年近く生活していたんだから……二年前にこの職場に転属してから男だけの世界から、女もいる世界に来てしまった。

 未だに彼女達との『正しい』接し方がわからない。そんな事をぶつぶつ文句いいながら、事務所でひとり人事書類を片付けていた。

 なんと日付はとっくに変わってる時間だ。

 春は学生達が入ってくるものだから、それの整理にいくら時間があっても足りない。

 ここの中隊には二百人ほどが所属しているが、ものがものだけに書類は俺ひとりでこなさないといけない。

 お手伝いの作業員下さいとはいえない。

 兵隊は二三〇〇ニーサンマルマルには寝る義務があるってのに……。

「くっそー! なんで人事なんてやってんだ、俺……メンドクセー! ちくせう! 俺に鉄砲もたせろ! 走らせろっ! ああ、道場で殴りてええ! 投げてええ! 事務所でタバコ吸わせろ、分煙の馬鹿野郎」

 ひとりで叫んだ。

 どうせ誰もいない夜の事務所。

 ――綾部軍曹、まじぱーねえっすね、大変っすね、でもいいじゃないっすか、体使わなくていいなんて、きつくないっしょ。 

 アホのひとりがヘラヘラしながらそう言ってきたことを思い出す。

 くそっ。

 あいつら本当に好き勝手言いやがって……。

 だんだん腹が立ってきた。

 今から営舎に行って、アホ面でイビキかいて寝てる、体だけ使っとけばいいボケどもをひとりひとりパワーボムしてやろうか。

 うん、やろう。決定!

 ……とは思ったが一応俺も三十手前の中堅下士官だ。

 まあ、大人だ。

 うん大人になれよ、と自分に言い聞かせる。でも、前言撤回。

 やっぱり腹の虫が収まらん。

 あの野郎に腹パンぐらいは入れておこう。きっと神様も仏様も哀れな俺を許してくれるだろう。

 よし、もう少しがんばって、下宿に帰るついでにぶん殴ろう。

 うさ晴らしの方法も決めたし、ちょっと休憩とポケットの煙草を取り出した。

 だが、神も仏もいないのか中身は空。

 買いに行くのも面倒なのでうめき声をだしながら机に突っ伏した。

 入り口のドアが開いたのはその時だった。

「お疲れ様……綾部軍曹」

 缶コーヒーを持った真田中尉が現れた。

「あ、ども」

 俺は制服のズボンにタンクトップという格好だ。

 PCやコピー機がウンウンうなっているから部屋の中は暑い。

「遅くまで大変ね」 

「そーですね」

 彼女は机の近くまで来る。そして「これ、差し入れ」と言って缶コーヒーを俺に渡した。

 受け取りつつそれをとりあえず机に置く。

 きっと不審な表情をしてしまったのだろう。しょうがない、あの夜のことを考えるとどうしても身構えてしまう。

「……この前の夜はほんとうに寒かったと思いませんかー? そんな夜にどうしたんですか? あんなところをひとりで歩いて」

 彼女は笑顔のまま、いつもの明るい声でそう言った。

 さすがに「不倫していた人妻に捨てられた後」なんて言えない。

「たまたま、通りがかっただけですが」

 PCのウインドウから目を離さずに答えた。

 しばらく沈黙が続く。

「……私の」

 彼女はあの笑顔を貼り付けたまま話だした。

「前の部隊での出来事は知ってますよねー」

 俺は沈黙で応じた。

「あの男の人とお付き合いしてるって言っても信じてもらえないかな?」

 彼氏のことをあの男と呼ぶ人間がどこにいる。

 ――つけられているってわからなかった、さすがは遊撃持ちだなー。

 と彼女はつぶやいた後、ふふんと笑う。

「どこまで知っているのかなあ?」

「何の話かさっぱり」

 俺がそう言うと、今度は彼女が沈黙と笑顔で答えた。

 一体何が言いたいんだろう、この人は。

 彼女は顔に似合わないため息をつく。

 沈黙。

 時間が過ぎる。

「どうせ調べは付けられているんですよねー」

 彼女は俺を見据える。

「なんか、変な男から問いただされたって後からクレームが来て」

 ――その彼、怖くてついついお金で買いましたーって言っちゃったらしいんだけど。

 お金? 買う? 男を問いただす?

 その意味がわかったとき、俺はさすがに目をそらした。だが、問いただした男ってだれなんだ。

「中隊長からですか? 調べろって言ったのは、人事係の綾部さん」

 笑顔。

 ただ、さっきまであった子供っぽい声質が抜けた。

 それに対して俺はいつもの顔――副官の日之出中尉から「軽薄」と言われるヘラヘラ顔――に戻した。

「だから、たまたま」

「でもおかしいんですよ、一週間たっても中隊長には呼ばれないし」

 彼女は座っている俺に覆いかぶさるように顔だけ近づけた。

「何で黙っているんですか? あのこと」

 笑顔が崩れない。

 そりゃ、あのことは彼女の過去のこともあるし、中隊長に報告すべきかどうか迷った。

 ――大丈夫です、職場内では手をだしてません、外の男でしたよ。

 なんて言ってどうなることでもない。

 言ってもしょうがないと思った。

 ……しかし、お金をもらっているって。

「あーあ、手の込んだ脅し方しますよね、軍曹」

 彼女はくるりと後ろを向いた。

「……は?」

「ちょっと調べたんですが、前の職場で綾部軍曹は暴力事件を起こしてここに来たんですよね」

 俺の頭がグラリとする。

 ちょうど三年前、窃盗した部下をぶん殴った。

 加減して怪我をさせてはいないが、その調査が入った時に、窃盗した本人から『殴られた』と訴えられた。そして俺も停職の処分を受けた。

 そして事実無根の噂だが、俺は裁判で負けて損害賠償五百万とか一千万とかを支払うことになってしまっているらしい。

 実は綾部軍曹は借金まみれとか……そういう陰口が叩かれているのは知っている。もちろん、裁判沙汰にもなっていなけりゃ借金もしていない。

 とりあえず、言っていた奴はぶん投げといたけど。

 それをに受けているのだろうか?

「お金はないですよー」

「なっ」

 こいつ、俺をなんだと思っているんだ。

 本当に俺があんたを脅していたとか思っているんだろうか。

「でも、中隊長に言いつけるのはやめて欲しいーってのもあるけど」

 彼女はまたくるりと回り、顔を近づける。

 昼間とは正反対である中尉の表情。

 その唇が官能的な動きする。

「定番のものだったら」

 中尉はそう言うと俺の太ももに手を当てる。そして前かがみになった。

 そんなに大きくない胸だけど、その格好になったことで強調されるものだから、つい目がいってしまう。

 俺は少し、いやとても混乱した。

 なんだこの光景は……と。

 そういえばこの間、営舎にあったエロ本に同じ似たようなシチュエーションがあったことを思いだす。

 二ページ目で「身体で払うんだよ」と悪人面あくにんづらでデブのおっさんが人妻を脱がしていた。

 俺はそれを読みながら「いくらなんでもはえーよ」と突っ込みながらゲラゲラ笑ったのだ。

 が、目の前で本当にそういうことが起きると、しかもその当事者になったものだから混乱する。

 一瞬固まった。

 非日常すぎる光景に。

 だが固まったのは一瞬。

 すぐに別の感情が俺の頭の中でパンクしそうになった。

「こういう事、嫌いじゃないでしょ?」

 笑顔。

「ここじゃ、最後までできないかなー」

 彼女は太ももに跨る様にして座る。そして胸を俺の頭に押し付けてきた。

 生唾を飲み込み、そして見上げるようにして彼女の顔を見る。

 やっぱりあの笑顔のままだ。

 俺はヘラヘラしていた顔が引きつるのを自分で感じた。

 どうしようもない。

 怒りの感情が顔の筋肉をひっぱるから。

「馬鹿野郎!」

 大声が出た。

 バカ、アホ、マヌケの兵隊を声だけで動かす、そんな軍隊生活で鍛えられた怒声。

 彼女は電気が走ったようにビクッと立ち上がり、それから俺の膝から離れた。

「つけてもない! あんたがどこの誰と寝ようが知らん! 金のことは知らん! 中隊長には言ってないし、言う気もない!」

 彼女はさっきまでの笑顔、強気の笑顔が剥がれ落ちていた。

 笑顔が震えている。

「いいか! よく聞け! 俺は仲間を売ることはしない! 以上、それだけだ」

 俺は缶コーヒーをつき返した。

 彼女を追っ払っうように。

 まるでつき返した缶コーヒーに魔法が働いているかのように、彼女はそのまま扉の向こうに無言で出て行った。

 むしゃくしゃが収まらず、しばらくして怒りがぶりかえす。

 いったいなんなんだ、あの女。

「くそがっ!」

 机を蹴って、バタ、バサリと派手な音を立てながら書類が飛んだ。

 そして二十分後。

 どことなく悲しくなり、誰もいない夜中の事務所で俺はそれを拾っていた。

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