第3話
次の日起きると、いつも起きるのだけは矢鱈と早くて(すなわち寝るのも早いということなのだが)様々な命令をしてくる母は起きていなかった。多分今日は私と顔を合わせることはないだろう。自身に牙を剥いた奴隷に、彼女はおののいているだろうから。私はなんだかおかしくなって唇を吊り上げた。面倒だから母の分の朝食は作らなかった。あの人は食べるのが遅いから片付けに時間がかかる。今日はそんなことはなく、随分朝の時間に余裕が出来た。あの画家のところに行くのは昼からだから、しばらく外出しようと思った。自主的に外出するのは父母が離婚して以来だろう。母が外出しようと言わない限り、私は家から出ることを許されなかったのだ。
外に出て、向かったのは書店だった。私は小さい頃から本を読むのが好きだったけれど、外出を制限されてからは学校の図書室から借りて、母の言いつけの合間を縫って読むのが精一杯だった。お小遣いも貰っていなかったし、バイトなんか当然出来なかった。そこまで思い返して、笑いがこみ上げてきた。これがうら若き乙女の生活であるものか。家が厳しいというクラスメイトの話は良く聞いた。門限が7時までだとか、バイトが夜遅くまであるだとか。苦労自慢、不幸自慢がしたいわけではないけれど、私は学校から帰れば外には出られないし、報酬も無しに母の言うことを彼女が寝るまで聞かなければならなかったのだ。私より不幸な人はいくらでもいるだろう。私より早死にをした人もいくらでもいるだろう。けれど、私の生活だっておよそ現代の日本人がするべき生活ではないと思う。精神的に飼い殺されていたのだという表現が適切だろうか。母と上手く折り合いをつけよう、少しでいいから、自由が欲しくなった。
結局本は買えなかったけど、今どんな本が売れているのかとか、店員さんのオススメだとかを聞けて、久々に楽しいと思える時間を過ごせた。心に血が通ったような気がする。私の精神は、この太陽が照りつける夏の中、家庭環境のもたらす寒さに強張っていたらしい。
私はそのまましばらく街を散策した。父の気に入っていたラーメン屋がいつの間にかつぶれてしまっていてスイーツ店になっていたり、小学生の頃友人達とよく行っていた駄菓子屋がまだのこっていたり。変わっている場所と変わっていない場所、色褪せない思い出達が頭の中で弾けていた。
随分、世界と遠ざかっていたのだな、と画家の家に行く道中でぼんやり思った。私の世界は長い間あの家と、精々学校くらいのものだった。母親がそう仕向けていた。
深呼吸をする。もう母親のことを考えるのはやめよう。気持ちが悪い方向に向かうだけだ。歩を進める。別世界に足を踏み込んだかのような錯覚を覚えさせる洋館は目前だった。
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