第2話
絵を描く作業が始まった。キャンパス、パレット、絵筆、鉛筆、絵の具……その他諸々の画材が広げられていく。それらの準備が終わると、男は私と、私の周囲の空間をじっと見つめ始めた。彼の瞳を通して、自分が切り取られていくような気分。それだけの時間が10分近くも続き、私は座らせられた高級感溢れる椅子の上で体を緊張させた。やがて彼は私から視線を外すと、鉛筆を持ち、猛烈な勢いでそれをキャンバスの上で動かし始めた。
シャーッ、シャシャッ、ガシャシャ、シャシャーッ。
鉛筆で線を描く、あの心地よい音が耳朶を打つ。それはなんとなく、雨の音に似ている気がした。雨は地面に弾かれなければ音を立てない、鉛筆は紙に触れなければ音を立てない。不思議な雨音が、室内を満たしていた。
鉛筆と自分の呼吸音しか聞こえなかったが、私は退屈しなかった。男が絵を描いているのを見ていると、自分も絵画の世界の住人になったみたいで、次第に痛くなっていくお尻と腰や、ぼうっとしてくる頭のことなど気にかからなくなる。ああ、彼は本当に天才なのだなとぼんやり考えていると、男が突然鉛筆を置いた。カランカラン、と渇いた音がして、トリップしていた私の思考が急速に現実に引き戻された。
「今日はここまでです。お茶とお菓子を出しますね。報酬に関しては、すみません、絵が完成してから払わせてください」
「もう終わりですか」
思わず聞き返していた。まだ1時間も経っていないように思える。呆気に取られている私の表情を見て男は困ったような顔をして、私の左手首を指さした。そこには安物の腕時計が巻かれている。首を傾げながらそれを見ると、驚くべきことに、私がこの家に来訪してから3時間もの時が経過していた。
「……うそ」
反射的に呟く。時間を忘れるとはこういうことなのだろう。少し視線を動かすだけで見える場所に時計はあったのに。
「あんまり集中してくれたものですから、僕も時間を忘れていました。この部屋に時計が無いのはあえてそうするためですが、流石に近所のお嬢さんを何時間も拘束するわけにはいきませんから。あなたが時計を持っていて良かったです」
そう言う彼の表情は、少し残念そうだった。まだ満足のいくところまで作業が進んでいないようだ。
「あの、親に話を通して、次からは遅くまでいられるようにします」
「いいんですか」
頷く。あの母親から許可を貰うのは至難の業だろうが、折角天才と言われる人の絵のモデルになっているのだから、彼の満足いく作品を描いて貰いたい。その旨を伝えると男は照れくさそうに頬を掻いた。
「はは、天才だなんて大げさだと思いますけどね。気まぐれに描いた風景画が、偶然お偉いさんの趣味に合っただけですよ。と、この話はこれくらいにしましょう。では、これからよろしくお願いします。午前は仕事用の絵を描くために外に出ていますが、午後からは家にいるはずですので、その時にでも」
「こちらこそ、絵の完成、楽しみにしてます」
これが私と彼の出会いだった。多分、人生の転機というものだったのだろう。
その後、言われた通りお茶とお菓子(これもまた洒落た店の高級品だったが、名前が難しくて覚えていない)を貰って家路についた。
家の鍵を開けると、その音を聞きつけた母が恐るべき形相で駆け寄ってきて、私の肩を掴んだ。
「どこに行ってたの!この不良娘!!」
そんな叫びと共に、私の頬に平手打ちを加えた。鋭い痛みが一瞬脳を麻痺させる。その間にも母親はヒステリックな声を上げ続けた。
「私があなたを育てるのにどれだけ苦労したと思ってるの!?恩知らず!」
今度は襟首を掴んで私の体をガクガクと揺らしだした。何も言い返す余裕がなくなった私は、咄嗟に母の肩を押した。
「いやッ!?」
その行為には思わぬ力が入っていたらしく、母は私に突き飛ばされる形で床に倒れた。怯えを含んだ両目が、私を捉える。そんな惨めな母親の姿に、私の中の何かが切れた。
「いい加減にしてよ、お母さんは私に対して何もしてくれてないでしょう。そうやって自分が良い母親だって妄想をして、悲劇のヒロインぶって、自分が一番不幸みたいな顔しないでよ!お母さんだけが辛いんじゃないんだよ!?わかってる!?」
知らず知らずの内に声が荒くなっていた。喉が痛む。今までこんな声を出したことはなかった。ことあるごとに大声を出す母親が恥ずかしくて、いつしか何があっても大声を上げなくなっていた。
「な、何よ、アタシはあなたの母親なのよ……?娘が母親の言うことを聞くのは当然でしょう……?」
そんな声が聞こえた。私は目の前の人間を、とうとう決定的なところで見放してしまった。バカバカしくて、口角が上がる。
「何、それ。娘が母親の言うことを聞くのは当然?バカじゃないの。他人が私の言うことを聞かないのが許せないって言いたいんでしょ。お母さんが欲しかったのは夫でも娘でもなくて、どんな命令でも聞いてくれる都合の良い奴隷だったの。いい加減理解したら?自分がどれだけ他人に迷惑かけてるか」
自分でも信じられない程冷ややかな声だった。でもそれは間違いなく私の本音だったのだろう。言いたいだけ言って、私は自室に戻り、すぐに鍵を閉めた。もうあんな人、血が繋がっているだけで母親なんかじゃない。あの人は人として大切な何かが欠けているのだ。そう成長してしまったことを、そう成長してしまうことを誰も止めてくれなかったのには同情を覚えるが、それは彼女を認めることには繋がらない。あの人と早く縁を切ってしまいたい。そのためにはどうすればいいだろうか……。
私は夕飯の準備があることも忘れて、ベッドの上に倒れ込んで目を閉じた。
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