獅子の王

M.FUKUSHIMA

第1話 獅子の微睡

 終鈴が鳴ってそれなりの時間がたち、ようやく仕事にきりがついた。未だに公務員は定時で帰るというイメージを持っている人が多いが、決してそんなことはない。俺の所属している市民課など、窓口業務が終わってからが自分の仕事の時間になる。ということは、残業確定ということだ。

 さすがに月曜からの残業はうんざりする。とっとと帰るに限る。

 別れの挨拶もそこそこに、外へ出る。日はもうすっかり落ちている。通勤時間は徒歩15分。基本、怠惰な俺はその時間をいつものんびりと楽しんでいる。

 が、今日はそうは言っていられないようだ。

 皮膚が焼けるような臭いが風に乗って漂ってくる。不吉な予感もして、俺は臭いの元をたどることにした。

 眼鏡をとってポケットに入れた。眼鏡自体はごく普通のものだが、これをとることが俺にとっては精神的なスイッチになる。

 臭いは川の方か。俺は走り出した。

 俺にとっては力を抜いた走りだが、それでも100M8秒台は出ているはずだ。当面の目標を忘れ、ついつい走るのを楽しんでしまった。慣性だけで、体はぐんぐん前に進む。足を地面に着かないわけではないが、その頻度は最小限で、ほんの一瞬に過ぎない。それは飛んでいるような感覚だ。一部のスプリンターのみが至る境地だ。

 臭いの元にたどりつく前に、くぐもったうめき声と笑い声が聞こえてきた。ところどころ人を殴打する音が混じる。さすがに気持ちを当初の目的に戻し、少しスピードを上げる。

 河川敷、橋桁のたもとに複数の人影があった。橋の街灯で少しは光がある。夜目の利く俺には十分すぎる明かりだ。5人いるようだ。一人が橋げたに背を預けており、4人がそれを取り囲んでいた。どうやら皆学生のようだ。

「何をしてるんですか」

 やんわりと声をかける。取り囲んでいた4人がこちらに目をむけ、値踏みするような視線を投げかけた。どうやら彼らにとって俺は望ましい相手だったらしい。一斉に笑顔を浮かべた。ただし、そうとういやらしい笑顔だ。

「おっさん、あんたには関係ねえ。いっちまいな」

 一人がそう言った。

 そうとう俺の評価は低かったらしいな。無理もない。たいてい俺の外見上の評価は、「人が好さそう」が精いっぱいの褒め言葉だ。

「そうはいかないよ。どうやらイジメの現場に行き当たったらしい。大人としてほっとくわけにはいかないな」

 彼らにしては予想外の反応だったのだろう。顔つきが完全に変わっている。

「後悔するなよ」

 さっき声をかけてきた男が殴りかかってきた。避けてもよかったんだが、甘んじて頬で受けた。なかなか綺麗なストレートがぶち当たる。

 悲鳴を上げたのは向こうの方だった。

「いってえ」

 当然の帰結だ。鉄板を思い切り殴れば、たいていは手の方が負ける。もっとも、俺の頬の方が鉄板よりもずっと硬いが。

 残る3人が仲間を戸惑ったように見た後、さらに凶悪な顔でこちらをにらんだ。

「何をしやがった」

 一人が言った。

「見てただろ? 何もしてないよ。殴ってきたのはそいつだ」

 3人のうち二人は恐怖の表情を浮かべた。しかし、自分で自分の感情に対して半信半疑のようだ。ときどき戸惑ったような色が混じる。

「なめられてたまるか」

 残りの一人が凶悪な顔を維持したまま懐に手を入れた。抜いた手には折り畳みナイフ。すぐさま刃を開き、腰だめにして俺に突進してきた。さすがにこれは避けないと危ない。相手の方がだ。

 体を右に流しながら左に回転気味に、相手の腕を抱え込んだ。ちょっと力を籠めると苦痛のうめき声とともにナイフが草むらに落ちる音がした。

 4人は共に完全な恐怖の表情を浮かべ、一目散に逃げだした。

 俺はとりあえず落ちたナイフを見つけ出し、ポケットに入れた。それから残されたイジメの被害者の方に歩み寄った。不意に相手は走り出した。反射的に、しかし最大限力を加減して相手の腕を掴む。袖はまくれており、いくつか火傷のあとがある。さっきまで彼がいた場所のタバコの吸い殻を見れば何が起こったかがはっきりと分かる。これが俺をここまで導いた臭いの元だ。

「いつもやられてるのか?」

「関係ないだろう」

「そうはいかないな」

 相手はしばらく抵抗していたが、やがて諦めて力をゆるめた。こちらも力は緩めたが、油断はしなかった。

「その制服は北高だな。名前は?」

真下進ましたすすむ

「進君か。明日にでも学校に電話してやるよ」

「余計なことはするなよ」

「するさ、これでも大人だからほっとけないって言ったろう。なんなら、しばらく付いてまわろうか? 俺が味方だって姿勢を見せるだけでも、あいつらは手を出しずらくなるだろう。勝てない相手だということは身に染みただろうから」

 一瞬間が空いてから会話が続いた。

「そういえば、さっきのあんた強かったな」

 さっきの場面を思い返していたのか・・・。

「そうでもないさ」

「いや、強かった。あいつら相手にまったく余裕だった。俺もあんたくらい強ければあいつらなんか叩き潰してやるのに」

「強いっていうのは腕っぷしだけの話しじゃないさ。今日君は俺とかかわりができた。うまく使えばそういった人脈も自分の力となる。ああいうやつら相手になら、俺の力を利用してもらって構わない。まあ、常識の範囲内でだけどな」

「そういうことじゃない。あんたの力に頼ったりしたら、俺は一生負け犬だ」

 俺は頭を掻いて見せた。

「そんなことにこだわる必要があるのかね? 平和に暮らせればそれでいいだろうに・・・」

「あんたは強いからそんなこと言えるんだ」

 進は突然激高した。

「あんたなんかにわからないよ。毎日押さえつけられ、殴られることがどんなにみじめか。俺にだって誇りはあるんだ。あいつらも同じ目に合わせてやりたい!」

「そんな必要なんかまったくない。力は負けない程度にあれば十分さ。相手より強くなってやり返すんでは、相手と同じだよ」

「あいつらがやっているのと同じことを俺がやってなにが悪い!」

「勘違いしなさんな。誰がやっても悪いんだよ」

 進は黙り込んだ。反論できなかったのだろう。

「強くなりたい・・・」

 長い沈黙の後、ぽつりと進は言った。

「強くなるってことは、それだけ自分の力を抑制する力も身につけなければならないってことだよ。武士道とか騎士道とかあるだろ? 東洋でも西洋でも、力を持った人間は自分の力を野放しにせず、規範に則って行動する。それができる人間を『誇り高い』って言うんだよ。本当に誇り高い人間は何よりも自分に厳しい。もっとも、昨今は『自虐』と『自制』の区別のつかないバカもうんざりするほどいるがね。強くなりたければむしろ、何よりも正しい道を進め。そのための手助けならいくらでもしてやるよ」

「あんた爺さんみたいに説教臭いな・・・」

「紀元前生まれなものでね」

 進は一瞬きょとんとした。

「わけがわかんねぇよ」

 進は背を向けた。俺ももう留めなかった。

「学校には報告するぞ」

 そう声をかけたが、いらえはなかった。

 俺も振り返り、帰路についた。


 進に「紀元前生まれ」と言ったが、それは単なる事実だ。俺の名は成田怜王なりたれお、一応30前だが紀元前に生まれた前世の記憶を持っている。しかも人外のだ。

 俺の前世は「ネメアの獅子」だ。ギリシア神話を知らなければなんのことかわからないだろうが、星座の由来に詳しい人間なら、12星座の獅子座の由来になったライオンだと言えばわかるかもしれない。

 神話の中での俺は大したエピソードをもっちゃいない。英雄ヘラクレスに課せられた12の難業の最初のひとつで、ぶっちゃけ単なるやられ役だ。

 現実の人生もそう大したものではなかった。刃が通らないなど、普通のライオンにはない能力をいろいろ持っていたが、基本的にネメアの谷で好き勝手に暮らしていた。そりゃあライオンだから、時々迷い込んだ旅人を襲ったりはしたから、人間にとっては迷惑だったかもしれないが、普通に生きていただけだ。

 そこに突然現れたのがあのヘラクレスだ。いきなり喧嘩を吹っかけてきて、結果として負けて俺は死ぬことになった。こちらから見ればかなり理不尽な成り行きだったが、今さら文句を言っても始まらない。こうして今、普通の人間として、次の人生を生きている。もっとも、いくらか前世での能力を引き継いではいるがね。

 それにしても、前世が「レオ」の俺に「怜王」なんて名前を付けるなんて、うちの親は霊感でもあったのだろうか。まあ、親父が大のライオンズファンだということ考えると、やはり単なる偶然なんだろう。

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