彩雲

森音藍斗

彩雲

 青空は大きくて、そして、私との関係性を一切持たず、ただ、其処に。

 眼前に迫るように。

 落ちてくる。

 思わず私は目を閉じた。




高野たかのさん、進路希望調査出した?」

 あ、ええと。

「今日提出だから、って、昨日の帰りに言ったわよね?」

 すみません。聞いてませんでした。

「今日の帰りまでに、提出して頂戴ね。来週の三者面談に使うんだから——土日挟まないうちに。用紙が無かったら予備があるから言いなさい」

 気の重くなる言葉。

 未来の予定。




 青は滲んでも青だった。青、ひたすらに青だった。

 私の毎日はそうやって過ぎた。

 私はただ青だけに染まっていられた。

 そして実際、私はただ青だけに染まっていたかった。

 理由は簡単だ。

 それが楽だったから。

 下から聞こえる先生の講義の声、回答する生徒の声、ボールを蹴る音、笛の音、喧騒、遠くの方から救急車のサイレン、それらは全て風の向こう側に消えて、私との関係性を一切持たず、ただ、其処に。

 私は屋上で目を閉じる。

 灰は滲んでも灰だった。

 空を覆う澱んだ雲は灰、ひたすらに灰だった。

 大粒の涙を空が零すと、私は誰にも知られることなく、静かに空の涙に自分のそれを紛らした。

 そんな日もまた悪くはない。

 楽だから。

 ついでに風邪も引ければ万々歳。次の日学校を休む正当な理由が出来る。




 ただいま。

「おかえりなさい、おやつあるわよ」

 ありがとう。

 それを持って二階の自室に上がる。机の上に放置された進路希望表が目障りだったので、取り敢えず本棚の本と本の間に刺してみた。

 空いたスペースにおやつの盆を置く。

 ベッドに寝転がる。

 今日も疲れた。

 十八年間過ごした自室の天井は生成り色。

 私が此処から手を上に伸ばしたって、天上には届く筈も無くて、だから私は、手を伸ばしてみようかなと思い、想い、そして思うだけ。

 ベッドの上に立ち上がって、目一杯背伸びをしてみれば、届くのだろうか。どうだろう。分からない。やってみなければ分からない。やってみようかと思いつつ、寝転んだまま呆けていたが、暫くして私は漸く立ち上がり、そしておやつの林檎を一切れフォークで突き刺した。

 ベッドの上で背伸びしたりはしない。

 部屋の外から響くノックの音に、返事をする。

絵莉えりちゃん、掃除したときに見たんだけどね、机の上に、進路希望調査あったでしょう」

 ドア越しの会話。顔は見えていない。

 ああ、うん。

「進路、お母さんはあれでいいと思うけど。まだ鉛筆の下書きのままなのは、迷ってるから?」

 迷ってるっていうか……。

 困ったような声色を出しておけば構わない、見えない会話。枕の染みを見つめながら、無表情の私は、面倒だなあと考える。

「今日、晩ごはんのときに、お父さんも交えて話そうか」

 分かった。

 階段を降りる母の足音が遠ざかり、私は態とらしく溜息を吐いた。




「行きたいところに行きなさい。お金のことは心配するな」

 それは、高校受験のときにも言われた台詞だ。そんなに裕福な家庭でもない癖に。

「相談ならいつでも乗るから、何でもいいなさいね」

 それも、高校受験のときにも言われた台詞だ。そんなに暇な生活でもない癖に。

 それでも笑ってありがとうと言うのが一人娘としての役割だ。

 だから私は笑ってありがとうと言う。

 彼らふたりは、私が授業に出ないで屋上で寝ていることを知らない。

 彼らふたりは、私との関係性を一切持たず、ただ、其処に。

 笑顔の向こう側に霞んで消える。




 土曜日、寝て、日曜日、寝て、とても受験生とは思えない生活だなあと笑って、月曜日も寝る、屋上、今日も晴天。

 太陽に恵まれている。全く。

「うわ、本当だ、鍵開いてる」

 唐突に、階段扉の開く音と男子生徒の声が聞こえ、私は反射的に上半身を起こした。

 金属の軋む音を扉の開く音と瞬時に判断できたのは、私が屋上に入るときと出るとき、いつも聞いているパターンだから。声変わりした男声を生徒の声と判断できたのは、知った人物の声だから。

「うわ、本当だ、絵莉がいる」

 のぞむが私を見て、然程驚いていないように言う。

 誰かに聞いて来たのかと、この距離から問う。教室ふたつぶんの距離は、机も椅子も壁も無ければ案外近い。

「お前の担任にだよ。俺はお前と違って真面目に授業出るからな、あと五分で教室戻るぞ」

 そう。私には関係ない。

「残念ながら、関係あるんだ。お前の進路希望調査を回収するのが、俺の役目だからな」

 なんで、隣のクラスのあんたが態々。

「知らねえよ、幼馴染みだからだろ」

 その事実、割と知られてんだね。高校入ってから、私結構、希と関わらないように努めてたつもりなんだけど。

「あ」

 何?

「そうだったんだ、やっぱり」

 彼が悲しそうな顔をしたことに、私は何も言及できないまま、風だけが吹き過ぎた。

「で、進路希望調査」

 彼の喉が空気を震わせ、風に支配されかけた空間を、人の手に戻す。歩み寄る彼の足音は、自分のものじゃない足音は、独りの屋上に響く足音は、初めてで、怖かった。

 彼は私の腕のその先に無造作に放棄された学生鞄を手に取る。

 女の子の鞄、勝手に見ちゃ駄目だよ。

「じゃあ、自分で出せよ」

 彼がその場で立ったまま、私に鞄を突き出す。その腕は地面と真っ直ぐ並行で、まるで漫画のようだと思った。私はあの重量の鞄を、そんなふうに梃子の端っこに提げたまま、腕を前には伸ばせない。

 動かない私に彼は肩を竦め、胡坐を掻いてファスナーを開けた。

「うわ、これ、今日の授業の用意? 出ないのに持って来てんの?」

 五月蝿い。

「ごめん」

 え。

 やけに素直だと思った。

「どこ? このファイルの中?」

 勝手に鞄を開けながら、必要以上に鞄を引っ掻き回さないように、訊くところは訊く彼も。

 そう、その、青のクリアファイル。

「ん。了解。ありがとう」

 手間を掛けさせただけの私に、礼を言う彼も。

「じゃあ、俺戻るから。また」

 私が授業に出ないことに文句をひとことも言わない彼も。

 どうしたの。

「どうしたって?」

 ……いや。

「あ、そうだ」

 思い出したように、唐突に彼は言う。

「今日、放課後、正門で待ってる」

 そしてちょっと考えるように空を見、首を捻り、付け足す。

「皆が帰る波が収まったらでいいから。人が少なくなったらで。授業が終わる時刻は——吹奏楽部のトランペットが鳴り出すから、授業出てないお前でも分かるな?」




 いつもの正門からいつものバス停まで辿る道は、いつもと違う道。

 知らなかった、こんなところに可愛い猫の置物があること。知らなかった、こんなところに小さな神社があること。

 私がいつも大通りしか通らないことを彼に伝えると、彼は、安全第一、と笑った。

「あ、見て」

 彼が空を指差す。

 見慣れた青に浮かんだ、白い雲、否、あれは、なにあれ、私は足を止める。

「彩雲だ。ラッキー」

 彼が数歩先に行き、立ち止まった私に気付いて振り返る。

「あれ、見るの初めてだった?」

 私は無言で頷く。彼はまたからからと笑う。

「毎日あんなに空見てるのにな」

 そうしてさして珍しくもないかのように歩き出す彼に、私は無意識に手を伸ばしていた。

 触れられる筈もない距離に、私の指先は、虚しく空を掻いた。

 再度振り返り、促すように首を傾げる彼に、私は小走りで追いついた。

 どこに行くのと尋ねると、お楽しみだよと微笑む彼の、後ろを俯いて歩く。

 手の届かない距離。




 どのバス停で降りればいいのか私は知らないのに、彼はバスに空席を見つけると、あっという間に眠り始めた。

 自分の家とは反対方向。慣れぬ風景、バス停の名。先へ。

 ねえ、と、右隣で船を漕ぐ彼の膝に抱えられた鞄を揺さぶってみると、彼は漸く意識を引き戻し、次で降りるよと告げた。

 私が起こさなかったらどうするつもりだったのと訊くと、はじめから起きていたとふてぶてしく答える。

 彼が指定したバス停の名は、私の志望する大学の最寄り駅である旨を分かりやす過ぎる程鮮やかに示していた。




 高校の授業が終わってすぐに大学に向かっても、まだ大学では講義をしている時間らしいということを、今はじめて知った。

 慣れた様子で彼は歩く。制服姿の彼も私も、キャンパス内を行く人々は誰も気に留めない。見学に来る高校生は、珍しくないということか。

 彼は過たず並木道を進み、ひとつの建物に入る。陽射しが急に遮られ、思考が一瞬停止する、しかし彼は歩いていく、私は後ろを追っていく。彼がひとつのドアの前で立ち止まる。私も慌てて足を止めて、数歩下がって距離を保つ。彼が扉をノックする。

 中から返事がする。

 扉を開けて、にこやかに挨拶する彼は、、私との関係性を一切持たず、ただ、其処に。

 私の方を振り向いて私を部屋に入れようとする彼は、私との関係性を一切持たず、ただ、其処に。




「二年前卒業した、うちの高校の先輩がいてね」

 彼の動く口を、ただ見ている。大学北の交差点を斜向かいに渡ったファストフードのチェーン店、全国展開、全世界展開、ちょっと歩けば何処にでも見える象徴的な看板、風景の一部、入ったのは初めてだった。

 戸惑う私をちらりと見て彼は二人席を探し出し、私をソファ側に座らせると、独断と偏見で多彩なメニューを買い込んで、お盆を持って戻ってきた。

「好きに食べていいよ」

 でも、今食べちゃったら夜ごはんが入らない。

 台詞と裏腹に鳴る私の腹の虫に、彼は気付かない振りをして、ストローを一本開封する。紙袋の外から手探りで、ストローの関節部分で袋を破り、長い方の紙袋を抜いて蓋のされた紙コップに刺す。短い方の袋の端くれはストローに被さったまま、私の前にそれを出す。

 それからもうひとつのストローを雑に開け、もうひとつの紙コップからジュースを飲む。

「旨いよ——俺は旨いと思ってるよ、ってのが正しいかな。別にお前が旨いと感じなくても構わない」

 私はそれを手に取った。結露した紙コップは予想より据わりがよくて、ひとくち吸って驚いた。

 ジュースじゃないの?

 ひとくち吸っても、口の中に入って来ないんだもの。

 笑う彼を正面から睨みながら、私はストローをさっきより深く咥え、強く吸う。溶けたアイスクリームのような、どろっとした液体が、口内を冷やす。

「美味しい?」

 私は頷くことしかできない。

 お盆に積まれたハンバーガーとフレンチフライとナゲットとパイの山を片付けつつ、彼は着々と事務的な話を続けていく。

 即ち下書きのままの、私の進路希望調査票について。

「まあ、分かったと思うけど、俺もここ第一志望にしててさ」

 そう、なんだ。

 勉強、してる?

「してる。一日中勉強してる」

 そう、だよね。

「まあ、俺はね。足りないから、お前と違って」

 苦笑する彼に、私は目線を落としたまま首を横に振る。人生はじめてのミルクシェイクで冷たくなる指先に意識を集中し、熱くなる目頭をじっと堪える。

「大丈夫?」

 頷くことしかできない。

「大丈夫じゃなかったら言っていいんだよ」

 頷くことしかできない。

「続けてもいい?」

 頷くことすらできない。




 まだ、青い空を見つめていたかった。

 まだ、青だけに染まっていたかった。




「おかえり。遅かったね。夕飯温めるからちょっと待って」

 あ、ごめん。

 夕飯は要らない。明日の朝ごはんにしておいて。

「あら。食べてきたの?」

 ん。

「それとも、体の調子が悪い?」

 大丈夫。

 頷くことすらできない。

 要らない。

 青しか要らない。




 それなのに色採りどりのあの雲が、瞼の裏から離れない。




「高野さん、進路希望調査出した?」

 あ、ええと。

「金曜日提出だったでしょう? 希くんとは話した?」

 すみません。あとペン書きだけです。

「今日の帰りまでに、提出して頂戴ね。三者面談に使うんだから——お休み挟んじゃったけど。高野さんの面談は、今週の金曜日。連絡行ってるわね?」

 はい。

 俯く。




 行きたいところに行きなさい。

 何でも相談しなさい。

 授業でなくても出席日数出してくれるって、先生たち。

 テストはできてるんだからね。

 学校には毎日来てるのね、授業の用意して。偉いね。

 大丈夫じゃなかったら言っていいんだよ。

 授業出てないの、あなた。そうやって驚く母の顔が怖くて、悲しむ父の顔が見たくなくて逃げた筈の屋上で、私は青空の下で、泣いた。

 そんな私の頭を、彼がずっと撫でていた。

「こないだのミルクシェイク、どうだった?」

 美味しかった。

 でも、お腹壊した。

 彼は豪快に笑って、そして、

「どうすんの」

 そう言った。

「どうすんの?」

 あのね。

「ん?」

 彼の声は優しい。

 真面目に勉強しようと思うの。

「いんじゃね」

 素っ気ない。

 ああでも私は、幸せだなあと思いながら、目を閉じた。

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彩雲 森音藍斗 @shiori2B

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