第51話 涼音の苦悩

 一縷いちるがラギの二階に越して数週間が経ったある日、涼音すずねが青白く苦痛に歪んだ顔で店に戻ってきた。


「どうしちゃったの? そんな顔して?」

 マリエルが驚いた声をあげる。


「どこか悪いの? ずっと寒いし風邪でもひいた?」

「ううん。……ママ、悪いけど彼と二階に上がっていい?」

 マリエルの返事を待たず、彼女は重い身体を引き摺るように階段を登った。一縷いちるはマリエルの表情を確かめてから、その後を追った。


「どうした? 気分悪いの? いいよ、ベッド使って」

 そう言いながら、一縷は涼音の額に自分の額を当てる。

「熱はないみたい。寝不足?」

 涼音は一縷の言葉には無反応のまま、部屋の中を見渡した。特に何も買い足していないし、最初に持ち込んだ荷物から何ひとつ増えていない。部屋は殺風景なままだ。カーテンだけは涼音が遮光の濃いブルーのものに掛け替えたが、三方の薄汚れた壁はもとのまま、薄暗い蛍光灯の下で寒々しい。


「ほら、寒いからベッドに入りな」

 一縷はそのくらいの言葉しか思いつかない。ここに越してからは機嫌のいい涼音しか見てこなかった彼は、涼音の体調だけを心配している。そんな一縷の様子を確かめて、涼音が重い口を開いた。


「一縷…… スマホ見てる?」

 その言葉と、今日、彼女が教養部に行ったことを思い出した一縷は、涼音の身に起きたことにハッと感づいた。


「そっか、今日は火曜日か…… 」

「うん…… 」

「キャンパスで誰かに会った?」

「…… 」

「待ち伏せされた…… そう言う方が正確かな?」

「…… 」

 彼女は無言で頷いた。本当はこの話をしたくもなかったのだろう。

 

「そうか…… ゴメン、巻き込んだな…… ホントにゴメン」

「そんなことはいいの。ただ…… ホントにこれでいいのかな、って……」

「これ? ボクがここにいること?」

「…… 」

 ふたたび彼女は小さく頷いた。そして俯いたまま、涙をぽとりと零した。


「居場所を教えなきゃ、あなたのお母さんに連絡して捜索願いを出してもらうしかない、って……」


 そう言うと、彼女は両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。あの彼女が…… 議論では、相手のちょっとした矛盾を見逃すことなく、舌鋒鋭く切り返すことのできる彼女が…… 今は誰かの言葉にうちひしがれている。


 一縷は片手で彼女の肩をそっと抱きしめ、もう片方の空いた手でスマホを取り出すと、届いていたメッセージをひとつひとつ確認した。ここに越してからは涼音からの着信以外は無視したし、メッセージは開くこともなかったから、そこには見慣れた名前からの未読メッセージがずらりと並んでいた。


「確かに、私はあなたの人生をめちゃくちゃにしているのかもしれない……」

 涼音は俯いたまま独り言のようにそう呟いた。


「バカなこと言ってるよ」

 メッセージを読みながら、一縷は吐き出すようにその言葉を否定した。


「…… ごめんな。結局、楽なのはボクだけで、涼音はボクのために辛い目に遭ってる」


 彼女はうんとも、ううんとも言わずに涙をぽろぽろ零した。


「心配しないで。ボクがちゃんと話をしてケリをつければ済む話なんだから。涼音は知らん顔してればいいよ」

「…… ケリをつけるって?」

 弱々しげに一縷の目を覗き込む彼女は、これまでの強気で激情に駆られた姿からは別人のようだった。


「ちゃんと、ボクは涼音と付き合うんだということを話せば済むことだろ?」


 すべてのメッセージを読み終えた一縷は、きちんと涼音に向き合ってはっきりと自分のすべきことを言葉にした。結局、自分のどっちつかずの行動が招いた不幸を、彼女一人が背負っていたのだ。こんな簡単なことになぜ今まで気づかなかったのか、一縷は自分の浅はかさに呆れる思いだった。


「簡単なことだよ。すぐに終わる話」

「…… どうするつもり?」

「呼び出して直接伝える」

「…… 会うの?」

「会わなきゃ同じことの繰り返しになるだけだよ。

 もうはっきりさせるよ。

 ここで数週間過ごしてボクはようやくわかった。

 ボクは驚くほど今までの生活に興味も関心もない。すべてをここから始めてもなんの後悔もない」

 一縷は涼音を安心させるために、あえて断定的に言い切った。

 目の前の一縷は、これまでの彼とは違うのだろうか? 涼音はじっと彼を見つめて、彼の本心に辿り着こうとした。


「…… あの人たちはそんな感じじゃなかった…… 

 あなたを戻せ、って言われたんだよ……」


 涼音は彼の瞳をじっと見つめて自分が言われた言葉をそのまま一縷に投げかけてみた。だが、メッセージを読む限り、連絡を待っている、くらいの内容しか読み取れなかった一縷は、すっかり割り切った気持ちになっている。


「変なスイッチが入っただけだよ。喧嘩別れみたいな形になってるから、あいつらも気が咎めて、連絡が取れないことにイラついただけだろ」


 一縷はあっさりそう応えた。本気でそう思っているようにも見えたが、涼音はなぜかまるで安心できなかった。むしろ、この先にある絶望が頭を過った。何度打ち消しても、繰り返し繰り返し、悪い結果を予感するのだ。


「一縷…… 私ね、あなたが傍にいて欲しいだけ。それだけ」


 どこか楽観的な一縷に対して、彼女の言葉は哀しく懇願するように響いた。


「大丈夫。ボクが決めたことだから、誰にも邪魔させない。」


 徐々に一縷には自信が漲るようだった。なんの保証も確証もない。だが、自分が決めた自分自身のことを誰が邪魔だてできるだろう。一縷は、問題の全てが既に解決したかのような錯覚に陥っていた。


「私はどうしたらいい?」

「ん? 黙って待っててくれればいいよ」

「待つ、って? いつまで?」

「いつまで? アハハハハ、ボクがあいつらと話す一時間かそこら」

「本当にそれだけでいいの?」

「それ以外、何かすることある?」

「待てるかな…… 」

「えっ、一時間が無理? 参ったな…… じゃあ三十分で……」

「ついて行っちゃダメだよね……」

「それは…… 多分、涼音が嫌な思いをするだけだと思うけどな」

「…… そう」

「そうだよ。心配しないで。終わったらボクは真っ直ぐ涼音のアパートに帰るから」

「…… 」

「で、こうする」

 一縷は彼女の唇に乱暴に唇を合わせ、彼女のスカートに手をかけた。


「一縷…… 待ってるから」

 涼音は何の抵抗も示さず、彼のなすがままに身体を預けた。




◇ ◇ ◇


 涼音を腕に抱きながら、一縷は彼女の目の前で三人にメッセージを送信した。


『明日、十時に美術館のカフェで会えるかな?』


 すぐさま舞からの返信が届く。


『うん! 良かった、連絡があって。本当に心配した……』


 何も考えず、一縷はそれに応えた。


『じゃあ、明日』


 そう送信すると、心配そうに液晶を覗き込んでいた涼音に向き直り、ほらもう終わりだよ、とでもいうようにスマホをポイとベッドから放り投げた。


「じゃあ明日。お昼前には涼音のアパートに戻るから」

「…… うん。絶対に…… すぐ戻って……」

「バカだなぁ、涼音は。心配のし過ぎだから、アハハハハ」

「…… 」


 一縷は快活に笑った。涼音は…… 笑顔を取り戻せず、硬い表情のままだった。

 その表情に、一縷はマリエルが言いかけた涼音の悩みを思い出したが、それも明日になれば二度と思い出さない過去になるはずと思い、あえて訊くこともしなかった。

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