第34話 涼音の部屋

「起きなさい! ほら! 一縷いちる! 起きて!」


 気が付くと目の前に涼音すずねの顔があり、だらしなく頬を緩めた一縷は、彼女に向けて手を伸ばした。


「……っもぉ~ だらしないんだからぁ~!」

 怒っているのだろうか、笑っているのだろうか…… 一縷には判別がつかない。


 やがて仕方がない、というふうに涼音が差し出された手を思い切り引っ張ると、ようやく一縷はふらふらと立ち上がり、そのままの勢いで彼女に抱きついた。だが、まだ正体はなくしたままだ。


「もぉ~~~、なんなの、この人ぉ……!」

 呆れ果てながらも一縷を抱え上げる涼音。そんなふたりの一部始終を見て、休憩中の道路作業員たちが大声で冷やかし始める。何を勘違いしたか、一縷は調子よく左手を挙げて彼らに応え、一方の涼音はニコリともせず、必死に彼を支えて歩き始めた。


「ねぇ~~ どこまで歩くの~~? 」

 長々と続く工事現場を過ぎ、数百メートル進んだところで、もうこれ以上歩きたくないとでも言いたげに、一縷が気怠く抵抗を始めた。体重を涼音に預け、わざと歩みを止めようとするのだ。


「もぉいやだ! 知らないっ!」

 その重みに耐えかね、涼音が一縷を突き放す。はずみでころころと転がってしまった一縷は、偶然差し掛かったお宮の玉垣に頭を打ち付け、イテテテテとだらしなく頭をさすっている。


「アハハハハ、あなたホントだらしないわ」

 そんな一縷のマヌケな姿を見て、涼音は深夜訪ねてきた男、というより、駄々っ子を見つめる目になり笑いを零す。その柔らかな笑い声は、一縷には女神の赦罪しゃざいに聞こえ、ぼんやりした視界の中で彼女を探し求め両手を広げた。


「なに? ボク…… 何が言いたいの?」

 涼音は腰を屈めて一縷と同じ目線に立ち、彼の顔を覗き込んだ。くしゃくしゃの髪の毛に半分隠れた横顔は、まだまだ子供にしか見えない。だがその両手は、微かに触れた彼女を意外なほどの強さで抱き寄せた。


「会いたかったんだよぉ~~ 」

 その声に芝居がかったあざとさはなく、涼音はもう諦めた、とでもいうように、抱かれるままに身を任せた。

「バカみたい…… 遅いよ……」

 一縷にはその声がはっきりとは届いていない。しかし、涼音に受け入れられた充足感が、酔った頭と胸に広がる。同時に、立ちのぼる湯上りの甘い香りが、彼女から手を放すことを躊躇わせる。

「このままでもいい?」

「イヤだよ…… こんな道路際で……」

 そういうと涼音は一縷を突き放そうと軽い抵抗を示す。だが、言葉とは裏腹に、彼女には抗う様子がない。

 そのことに満足したのか、ようやくのことで一縷はよろよろと立ち上がった。



 ふたりは海に続く参道の途中にいた。背後には暗闇にやしろの気配があり、目の前には海に向かって大きな鳥居がいくつか闇に浮かんでいる。


「ねえ、海まで行かない?」

「え〜〜っ?…… 涼音の部屋じゃなくて〜?」

「あなた…… まさかと思うけど、アパートに入れてもらえると思ってる?」

「…… うん」

「アハハハハ、なんでこんな酔っ払いを部屋に入れなきゃいけないの? あのね、私の部屋は隣も下も女子学生なの! 真夜中に酔っ払いを連れ込んだら、何を言われるかわかんないでしょ!」

「うそ〜〜…… 」

 この期に及んでそりゃないだろ、と思うのは当然の男心。

「とにかく、散歩! 夜歩いたことないんだよね、この参道。ひとりじゃ怖くてさ」

「う〜〜ん、いいよ…… じゃあ散歩しよっ」

 そりゃ怖いだろ。じゃあ行ってみる? そう思うのも男心。

「ダメだこりゃ、アハハハハ」

 この言葉の意味に、未だ何の経験もない一縷が気づくはずもない。

「ん?…… じゃあ、手〜!」

 そうして差し出された左手を、涼音はちょっと笑いながらもしっかり握り返し、ふたり手を繋いで参道を海に向けて歩き出した。


 海を越えてやってくる冷たい季節風が、彼の昂ぶりをなんとか正気に押し戻す。ふたりは波打ち際に押し寄せる潮の気配を感じる場所で立ち止まった。


「風…… 冷たいね」

「うん…… まだ歩く?」

「…… ううん もういいかも」

「寒くない?」

「うん、少し寒い」

 涼音がそう応えると、一縷は彼女をコートにすっぽりと包み込み、北風に背を向けた。

「温かい?」

「うん…… 少し焼き鳥の匂いがするけど」

 そう言いながらも、涼音は一縷の胸にそっと顔を埋めた。


 城址公園の夜より、さらに間近に涼音の白い顔があり、今はそれに触れることを許されている気がしてくる。一縷はおずおずと右手を彼女の頬に伸ばす。大講義室で初めて彼女を見かけた日から望んできたことが、今叶うことの不思議を思わずにはいられない。


 予想通り、彼女は抗ことなくじっと見つめ返してくる。一縷は彼女の頬の柔らかさを確かめ、そこに近い唇の端にそっと自分の唇を重ねた。


 唇が触れるだけの…… でも長いキス…… 


 涼音はちょっとはにかんで俯いた。そのあと、ふたりは海を背に、来た道を無言で歩き始めた。いつしか彼女は、一縷の左腕にそっと自分の右腕を自ら絡ませた。




◇ ◇ ◇


「静かに歩いてねっ!」


 アパートの前に来ると、涼音は声を潜めて注意を促した。一縷はそれに頷いて応える。

 まだ真新しい三階建ての建物は、外廊下の蛍光灯が煌々と灯されているが、人の気配はなく静まり返っている。それはあたかも、中の住人が外から近づく者を固唾をのんで待っているふうでもあった。

 ふたりは足音を潜め、できるだけ気配を消して階段を上ると、二階の右端からふたつ目の部屋に入った。



 殺風景な部屋だった。女性らしいカラフルな色合いのものはまるで存在せず、可愛らしい装飾品やぬいぐるみの類もまったく見当たらない。ドレッサーがなければ男の部屋? と見間違えそうなくらい、無駄のない部屋だった。


「何飲む? 紅茶? コーヒー?」

「コーラ」

「アハハ、お子ちゃまだなぁ、ないよ、そんなの」


 暖色灯の下で、部屋着姿の彼女は幼く見えた。化粧を落とした顔は無防備で、ジャーナルで議論するいつもの彼女は、アイシャドウなどで武装した結果の、意識的なものなのだとわかる。


「一縷…… イヤらし〜い顔になってるよ、鏡で見てみ」

 そう言われて気になった一縷がドレッサーの前に座ると、後ろから涼音が彼の首に両手を回し頬を寄せる。そのまま鏡の中でお互いの瞳を探り合った。


「カワイイ坊や」

「ふたりで並んでると、こんなふうに見えるんだね」

「そうだね。どう見ても姉と弟だね」


 涼音はあくまで彼を年下扱いしたがったが、一縷には素顔の彼女は背伸びしているだけの生意気な少女に思えて可笑しかった。


「なに? 何が可笑しいの?」

「ううん。涼音の部屋にいるんだなぁと思っただけだよ」

「イヤらしい顔。一縷ってホントはエッチでしょ」

「嫌い?」


 それには応えず、涼音は鏡の中の一縷をじっと見つめたまま、さらに頬を寄せた。


「強引だよね…… ホントに来るなんて思わなかった」

「迎えに来たくせに」

「だって、ここどこ? とか言い出すしさ、放っておけなかっただけだよ。カワイイ後輩を」

「そんなこと言った?」

「言ったよ。どこかわかんな〜い、迎えに来て〜、って泣くから、可哀想になったんだよ」

「フン、嬉しかったくせに」

「生意気言ってんなぁ〜」

「嬉しくなかったのかよ」


 一縷が涼音を抱き寄せると、彼女は何の抵抗もなく一縷に身体を預けた。それだけで涼音が拒否していないことが一縷に正しく伝わる。


 抱きかかえられる形になった涼音が両手を伸ばして一縷の頬を手のひらに包み込む。


「あなたの顔にこんなふうに触るなんて…… 変なの。なんであなたなんだろう」

 その問に意味などなかった。一縷が彼女を抱え上げ顔を引き寄せるが、彼女は目を閉じることなくじっと彼の瞳を見つめ返す。


「私が好き?」

「うん……」

「何処が好き?」

「…… 全部」

「嘘っぽい」

「顔が好き」

「だけ?」

「肌が白いのが好き」

「ふふふ」

「体温が低いとこも」


「手だけかもよ」


 一縷は左手を涼音の部屋着の下に忍び込ませた。暖かく柔らかな彼女の脇腹の辺りに手が触れる。


「ホントだ……」

 涼音は一縷をじっと見つめたまま目を閉じることも視線を逸らすこともしない。


「ここは?」

 一縷は彼女の柔らかな胸を手のひらに包み込んだ。


「エッチ……」


 それでも彼女は一縷を見つめ続ける。一縷は指先でその柔らかな丘の頂点をツンと刺激する。


「もお! ダメ!」


 そう言いながら、涼音は一縷の首に巻いた腕でグイと彼の顔を引き寄せると、深く唇を重ねた。そのまま長い長いキスのあと、唇を離した彼女は無言でベッドに潜り込んだ。

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