第6話 佐々原舞

「こんにちは」


 4月下旬のある日、ひとりの女子学生が、講義室の最後列でぼんやりグラウンドを眺めていた一縷いちるたちに近づいた。


「おう、まいちゃん、元気?」


 隣に座っていた未来みらいが明るく返事を返す。髪の毛を思い切りその女性は、未来に笑いかけると、もう一度一縷に向き直った。


「霧島君、こんにちは」


 クラスの交流に関わることのない一縷にとって、わずか30名ほどのクラスメイトもまだ顔がわかる程度で、彼女のことが思い出せない。軽く会釈をすると、不思議そうな顔でその子の顔を見た。


「あ~、ごめんね、こいつ悪気はないんだけど、無愛想だから。気にしないでね」


 未来が横から口を挟む。


「いいえ。霧島クンにお願いがあったんだけど、お邪魔かしら?」


 そう言うと、彼女は豪華な革の装丁を施した分厚い本を一縷の前に置いた。本の表紙には金色に光るフランス語が鮮やかに浮かんでいる。


「これ、勉強したいの。翻訳を手伝ってくださらないかなと思って」


 屈託のない笑顔だった。あどけなくもあり、大人っぽくもある。どちらにしても穢れない綺麗な笑顔だった。薄い唇とシャープな顎のラインが禁欲的で、折れそうなほど細い身体付きと相俟って、物腰や言葉遣いとは異なり、中性的な印象を与えた。


「ボク? ボクはフランス語得意じゃないけど」


 唐突な申し出に、一縷は話しかけている相手を間違えているのではないか? と顔の前で手を横に振った。


「あんなに素敵な舟歌を歌ってらっしゃったから、お得意なんでしょ?」


 水城教室最初の授業で、一縷は自己紹介の代わりにホフマン物語の舟歌を歌った。彼女にはその時の印象が強く残っているらしい。


「あぁ、あれね。丸暗記だけど」


「あら……」


 一瞬、彼女は驚いた顔になる。


「アハハハ、誰でも勘違いするよね。こいつね、昔から外国語の反復だけは凄いの。耳がいいのかな。音を丸ごと再現する能力があって、初めて聞いた人は帰国子女? って思うみたい。全然違うんだけど、アハハハハ」


 未来が懇切丁寧に説明するので説明の手間が省けた一縷は、ちょっと恥ずかしそうな顔で俯いた。


「でも、できることは協力するよ…… 勉強になるし」


 一縷は耳たぶを赤くしながら小さな声でそう応えていた。


「えっ! ホントに! 良かったぁ〜」


 素直に良かったと思ってることが伝わる。


「ひとりだと大変だと思って、誰かフランス語の得意な方に教わろうと思ったの。霧島クンが一番かなぁ〜、と思ったから、協力してくれるとホントに助かる! よろしくお願いします」


 そう言うと、彼女は嬉しそうに前の席で頭を下げた。


佐々原ささはら まいです。よろしくね、霧島クン、それと…… 篠井しのいクン」


「名前は…… 知ってます」


「ホントかよ……」


 未来が怪訝な顔で一縷を見た。


「いいのいいの。霧島クンが手伝ってくれるなら、それでいいの」


 舞は嬉しそうだった。その笑顔に一縷も思わず頬を緩ませる。それを見ていた未来はプイと横を向いてしまった。


「私ね、バレエやってるの。レッスン受けてる先生にお借りした本なんだけど、挫折しそうだったから、霧島クンに思い切って声かけたけど、勇気出してホント良かった」


 彼女は分厚い本をパラパラとめくると、目を細めて笑った。


「オペラ座バレエの歴史? ふ〜ん、面白そうだね」


 表紙にそう書いてある。


「ねっ、そうでしょ! 私もそう思ったの! 霧島クンがホフマン物語を歌った時から、きっと霧島クンならこのご本にも関心あるんじゃないかと思ったの!」


 舞のにこやかな顔に一縷はますます嬉しそうな顔になるが、未来はどんどん無口になり、珍しく教科書を広げ始めた。


「私ね、けやき通りの教室で毎日午後からレッスンがあるんだけど、それが終わったら時間が取れるの。霧島クンは?」


「夕方はバイト」


「そうなの? 土曜日とか日曜日、お休みの日は?」


「空いてるよ」


「そう! じゃあ、お休みの日にお家の近くにいらしてくださる?」


「どこ?」


「植物園の下あたり」


「そう。近いね」


「霧島クンは?」


唐町からまち商店街のあたり」


「遠いね」


 ふたりで顔を見合わせた。何がおかしかったのか、ふたり揃って笑いだした。


「連絡先教えて」


「うん」


 こうして、一縷にもようやく未来以外の話し相手ができた。




 授業が終わり、ランチタイムは三人揃って教室を出た。未来は伊咲いさきを待つからと中庭のベンチに腰を下ろした。一縷はちょっと考える顔をしたが、先に行くと言い残し、舞と並んで学食に向かった。


 彼女は小さなランチボックスを持参していた。そのお手製ランチは、野菜と果物とチーズだけの驚くほど少量で、一縷は食後のデザートと思ったほどだった。


「たったそれだけ?」


「ええ」


「お腹空かない?」


「すく」


「ダイエット?」


「う〜ん、それとも違って、習慣? バレエ続けるための習慣」


 そう言えば、昔、肥ったバレリーナが解雇されるというニュースがあった。相手役が重みに耐えきれずリフトできない、そんな理由だった気がする。


「プロを目指してるとか?」


「夢はそう」


「へえ。夢なんだ。叶うといいね」


 実のところ、一縷はバレエに興味も関心もなかったので、これこそまさに社交辞令だったが、彼女は素直な目を輝かせて喜んだ。


「がんばります。霧島クンみたいに応援してくれる人がいるからがんばれる!」


 一縷には彼女の素直さは、やや子供っぽく映った。


「夢か……」


 一縷の口からふと言葉が漏れた。


「霧島クンの将来の夢は?」


 考えたこともなかった。


「なんだろう。特にないかも」


「そうなの? でもいつか見つかるよね、きっと」


 彼女はまた素直で穢れない笑顔になった。




 ふたりが話している傍を涼音すずねが無言ですり抜けた。


(無視?……)


 一縷の視線は涼音の後ろ姿を追いかけた。


(そんなに印象ないのかなぁ?……)


 しばらく涼音の後ろ姿から目が離せないでいると、舞が一縷の顔を覗き込んだ。


「どうかした?」


 真正面から至近距離で目が合った。恥ずかしそうな顔になる一縷に対し、彼女は平気な顔をしている。


「ううん、先輩なんだけど、黙って通り過ぎたから」


「ふ〜ん、気づかなかったんでしょ?」


「そうかな?」


 一縷は苦笑いした。


「そうだよ。だってまだ知り合ったばかりの人なんでしょ?」


「そりゃそうだけど。普通気が付かない?」


「私なら霧島クンには気づくけどね」


 舞が急に真面目な顔で言うので、一縷はまた耳たぶを赤くして俯いたが、すぐに彼女に目を戻し、迷いながらもこう告げた。


「ねえ」


「ん?」


「舞って呼んでいい?」


 耳たぶはさらに真っ赤になっている。


「うん! 仲のいい友達はみんなそう呼ぶよ」


「良かった…… イヤだと言われたら二度と口きけなかったかも、アハハ」


「じゃあ私も一縷って呼ぼうかな」


「そうとしか呼ばれない」


「な〜んだ、つまんないの! アハハハハハ」


 快活に笑う舞を微笑ましく思いながらも、一縷は涼音の去った方角から目が離せないでいた。

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