1.2 ロゼ

 一度は踵を返そうとした美心を止めたのは、足の疲労と打算であった。


 何でスニーカーで来なかった私!


 ただでさえ歩きにくい道であったのに、踵の上がったパンプスでえんやこらと歩いてきた美心は、既に疲労困憊であった。

 とにかく座りたい。

 もう地べたでいいから座り込みたいという欲求が、美心の背中を幽霊屋敷へと押すのだった。

 それから、もう一つはネタ作りである。

『ちょっと遠出しちゃいました。リアル幽霊屋敷です。こわいよぉ』

 SNSにあげるには十分なネタだ。

 とりあえずスマホで何度か自撮りした。

 SNSへの投稿は少し待つ。より良い文面を考えてからアップした方が、効果的なのは自明だ。

 ん? いや、待てよ。

 ここでSNSに投稿してしまうと、テレビで紹介する人形が、つい最近買ったのだとバレてしまう。

 ふむ。やはり、アップするかどうかは少し考えよう。

 まぁ、人形が手に入らなければ、投稿を考えるか。

 とにもかくにも、中に入らなくては、さらなるネタも得られない。

 モデル業界もキャラが溢れかえっている。人と同じこと、同じ経験をしていても上にはいけない。

 ここでならば、他と違う経験ができるのは間違いない。

 でもなー。

 気が進まないのは、仕方のないことであった。

 扉は見た目ほど重くなかった。

 小気味の良い鐘の音が鳴って、お客の来訪を中の者に伝える。

 ふっとあまい香りが鼻腔を通った。外の光量に慣れていたせいか、中は暗く感じた。ネオンのあかりが怪しく店内を照らしており、異世界であることを誇張しているようであった。

「お、おじゃましまーす」

 声をかけてみたものの、中からの返答はなかった。

 だからといって、灯りが点いているのだから、閉店しているわけでもないのだろう。

 おっかないな、と思いながらも美心は扉を後ろ手で閉めた。

 と、そのとき、視線に気づき、びくりと背中が凍る。

 

 彼女と、美心の目はがっちりと合っていた。

 ちょこん、と音が聞こえるほどこじんまりと椅子に座り込んでいる彼女は、蒼白な肌にぷくりと膨らんだ唇、きれいに二つに結われた金色の髪といささか和風の髪飾り、薔薇の刺繍が編み込まれたドレスは彼女によく似合っていた。

 そして、蒼穹に沈み込むようなガラスの瞳が、美心をみつめて放さない。

 いや、放せないのか。

 身じろぐことさえできずに、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。

 額の汗が頬を伝って、喉をするりと通り過ぎたとき、美心は小さな悲鳴をあげて我に返った。

「え? これ、人形?」

 人形って、こういうこと?

 美心は、目の前にある、まさしく人を模した形の創作物に唖然としていた。

 もっと、こう、ファンシーなものを想像していた。いや、少し凝っているけれどもかわいい、みたいな。

 まさか、これほど、かわいいから程遠いものだとは。

 いや、辛うじて服はかわいい。フリルとか、刺繍とか、ミニチュアなのにすごい手が込んでいるし、かわいいといえる。

 けれども、実際の本体からは、かわいいという言葉を連想しない。そこに言葉を見出すのであれば、美しい、なんだけれども。

 なんだけれども、美心は思う。

 そこには、恐怖が同居する。

 背筋をずっと撫でてくるのだ。誰かは知らないが、おそらく彼女の無機質な瞳が、美心の背筋を冷たい指でスッと撫で下ろす。

 幽霊が現れてくれた方がまだよかった。

 ただひたすら逃げることができる。幽霊という恐怖から。

 今まさに美心は逃げ出したい気持ちでいっぱいであった。しかしながら、眼前に座る彼女が引き止める。

 どうしたの? と話しかけてくる。

 無垢な瞳で、機械的に、無感情に、美心の不安など解することもなく、動じることもなく静かな唇で語りかけてくる。

 美心は、また動けないでいた。

 これではどちらが人形かわからない。美心の方が頭の中からっぽで、小さい彼女のほうが雄弁に物語っていた。

 美心は手を伸ばした。

 その白い頬に温もりがあるのかしら?

 どこかの誰かが糸を引くかのように、美心の右腕はのっそりと持ち上がり、小さい彼女の頬へと誘われた。


「おい、汚い手で触るな」


 美心は完全に虚を突かれた。

 そこがどこであるかも忘れており、美心と小さい彼女の二人きりの空間に埋没していた。

 だからこそ、


「ぎゃあ!」


 叫ばずにはいられなかった。

 え? 何?

 身を引いて体を強張らせる美心には、何が起こったのか理解できなかった。

「幽霊? 悪魔?」

 口走ってしまったが、そんなわけがないと自分で突っ込みを入れる。

 まさか、人形が?

 いやいや、馬鹿げている。

 そうだ、冷静になれ。

 美心は深く息を吸ってから、周りを見まわした。

 右側の奥。ネオンの光に照らされ、台に肘を置いた彼は、不機嫌そうにこちらを睨みつけていた。

 人形のように蒼白な顔をした彼は、人形とは違って不均一に顔を顰めている。ぼさっとした黒髪を気にする風もない佇まいで、怒ったように見える吊目は、そもそもそういう形をしているような気もする。

 ゆったりとした白いシャツはどこかしら汚れており、決して人前に出る格好ではなかった。

 ただ、やはり彼は気にする風もなく、不機嫌そうに言うのだった。

「声まで汚いのか、嘆かわしい」

「なっ!」

 仮に幽霊だとするならば、この幽霊は口が悪すぎる。

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