「やりたい事」は誰が望むか? その1

 筆者は今の所無職である。日に日に減っていく残高に恐怖しながら再就職活動に勤しんでいるわけだがここいらでふと思ったことを。

 こう書いている以上「やりたい事なんていらないんじゃね派」なのだが、逆説的に「なぜ『やりたい事』が必要な空気があるのか」という所が気になった。これは歴史的に見てものすごく変だ。だって職業選択の自由なんて日本なら戦後になって初めて法律に載った概念だ。100年も経ってない。

 大体こんな法律ができる以上、それ以前は選ぶ余地がなかった訳で。まだまだ新しい概念だと考えていい。ということは「やりたい事」というのは常識と言うには歴史が少ないと見ていい。

 じゃあなんでこんな概念がこんなに一般化しているように語られているかと言うと、「楽」だからなんじゃなかろうか。何が楽かというと他者がその人の「やりたい事」を耳にした時に、どのような人間か判断しやすくなるから、と。あるいはその逆に自分を見せるための二つ名のようなものと使っている人もいるのかも知れない。

 もう一つ考えられる。「やりたい事」を語るのはある意味で書きかけの契約書を示すようなものではないかと。その「やりたい事」を他者が知った時、それを理由に何かを依頼しやすくなるという仕組みの可能性も考えられる。

 どちらにせよ一言で表されるメッセージであり、俗な言い方をすれば「属性」を呈示する、実務に沿ったシステムだろう。過去に比べれば遥かに増えた人口から望みの人物を探したいと考えれば、この「やりたい事」というタグは非常に便利なものである。

 ただ一つこれには大きな問題がある。それは「全ての人間にやりたい事があるわけではない」と言う事だ。実際本当にやりたい事のある人間というのは、それ程いないのではなかろうか。でなければ「やりたい事」で検索する時に一緒に出てくる言葉は並ばないのではなかろうか。

 大体、仕事で求められると思われている「やりたい事」なんてストレスを前提とした仕事なんだからやりたくないに決まっているじゃないか。ヒトも生き物なんだから本当に普遍的にやりたい事があるとするなら飯食ってエロい事して寝るくらいなもんだろう。つまりそこらの動物とさして変わらないって話である。

 それでもそこらの動物でさえも狩りやら採集やらの仕事をしなけりゃ生きていけない。つまり基本的に仕事というのは「生存して次世代に繋ぐため」に仕方なくやるものなのである。

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