贋作・ブラウン神父のお伽噺
積読荘の住人
第1話 犬と鬼退治
青緑色の山と群青の水彩絵具を徐々に薄めたような色合いだった空を区切る尾根の端は、午後も遅くなって傾いた陽に染め直され橙色に輝き始め、お爺さんが柴を刈っている山腹は暗く影に入った。お婆さんが洗濯をしている川の水面も輝きは銀色と白から黒と橙に変わり、お婆さんが着物をゆすぐ手のうごきにつれて、煌めく水面が揺らいでいた。
お爺さんが今柴刈りに入っている山に発する川は、岩の多い谷筋を急に流れ下り、お婆さんが洗濯に使うこのあたりでしばらくのあいだゆるい流れになったあと、また急に流れ下ってすぐに海にそそぐのである。
お婆さんはこの近在の出ではなく、別の海に面した国の出で、仔細あってこちらに縁付いた、と嫁入り当初は口さがない噂もあったが、お爺さんとは折り合いがよかった。実子に恵まれなかったのは心残りであったが、思いがけず元気な男の子を養育することになり、その子は強く育ち、つい先日鬼退治へ送り出したのだった。
山の影が落ちて薄暗くなった集落へ続く道の奥の方から、黒っぽい塊がふたつ、お婆さんの働く川辺に近づいてきていた。
よくみると片方の塊はずんぐりしており、手足があるのが見てとれ、右手にはやはり黒くて膨れた棒をもっていた。頭もまた黒くて、左右に角のように突起が出ているように見えた。もう片方の影は、ずんぐりした影よりひょろりと背が高く軽快に動きまわっていて、二つの影はだんだんとこちらに近づいてきた。
お婆さんは傾いた陽のあたる川辺で相変わらず洗濯を続けていた。流れの音と手元の水仕事の音で、山の方の道からくる二つの影には気づいていなかった。お婆さんが気づいていないように見えるものはもうひとつあった。
川の上流の岩間から、白っぽい塊が浮き沈みしながらお婆さんのいるほうを目指すように流れ下ってきていた。いったん陽のあたるところに出た塊は、大きな黄桃のようにも見えた。
「桃ですかな」
声をかけられて振り返ったお婆さんは身を固くした。黒くずんぐりして、頭の両端に角を思わせる突起を持った影が声を発したのだ。
「大きな桃のように見えます。こちらに流れてきますな」
黒いずんぐりした影の正体をみてお婆さんは気をゆるめた。声の主は先だってこの教区に赴任したばかりのカトリックの坊さんだった。黒い僧服と、暗いところではあたかも角のように見えた、つばの広い黒い帽子をかぶった、小柄な坊さんが川辺まで歩いてきた。そばには大柄な浅黒い顔の敏捷そうな男がついている。坊さんの丸い眼鏡がきらきらと西日を照り返している。
「おどろかせてしまいましたかな。これは失敬」
以前ブラウン神父は次の教会バザーでお婆さんが得意な黍団子をふるまいにできないか、相談をしに訪れたことがあった。
「黍団子のことでございますね、バザーに出したいのはやまやまですが、ちょうどあの子に持たせて出したばかりですから」
「桃太郎君、でしたな」
ブラウン神父は僧服の裾をまくってじゃぶじゃぶと瀬に踏み込んだ。お婆さんは岸辺で当惑気味に洗濯の手を止めていた。
「犬、猿、雉をお供につれていったのでしたな、桃太郎君は」
ブラウン神父は手にしたこうもり傘の先で、上流から流れてきた桃のような塊を引き寄せた。
「犬と子供、双方が慣れていなければなかなか一緒にでかけることにはならないのが普通です。ですから、あたかも黍団子でつった犬を連れたようにおもわれていますが、桃太郎君は、あなたがたと一緒に飼っていた犬を連れていった」
「でも、あの子には黍団子が渡してありますから……」
「猿や雉というのはつけたりです。犬の存在が、いや不在が、ですかな、うすめられますからな」
「神父様……」
「犬を家から出すとはどういうことだろう、と考えると、こういう結論が出るのです。フランボウ君、手伝ってくれるかな」
ブラウン神父は浮き沈みする籠を浅いところに引き寄せた。籠は丸く大きな桃であるようにも見える。背の高いフランボウが器用に籠を切り開き、残念そうにかぶりをふった。
「事切れてまもないようです。魚のにおいがしますね。ああ、この糸のにおいですね、神父様。これは釣糸かな」
籠の中には、事切れて胎児のような姿勢にくくられたお爺さんの姿があった。
「あなたとお爺さんと桃太郎君、そして犬が、一緒に暮らしていました。犬が急にお爺さんになつかなくなったら、犬がおかしくなったと思うでしょう。誰も、お爺さんのほうが別人になったとは思わない。けれどもあなたは、そのわずかな可能性も気取られたくなかった。だから、成長した子供の鬼退治を理由にして犬と子供をいっぺんに外に出すことにした。子供は大きくなればどこかへ出るのも不自然なことではありませんからな」
お婆さんは洗濯物から手を離した。着物が西日のあたるところまで流れていって、きらきらと橙色の光を照り返した。
「あの人が……帰って来たんです。もう帰って来ないとおもっていたのに」
「さよう。わたしの前任の教区は、あなたの生まれた在でした。わたしは海のある教区に赴任することがおおかったのです。前任の教区もそうでした。海に面して、まれに南国から来る動物が流れ着く。
あなたの待ち人は帰ってきてからすぐ、行方がまた知れなくなりました。あなたを追ったのだと知るには時間がかかりました」
山へ続く道から老人が降りてきた。柴刈りをしていた筈であるのに、腰には魚籠が結ばれていた。
ブラウン神父は、近づいてくる白髪の老人に声をかけた。
「やあ、お久し振りですな、浦島さん」
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