6−6
「あいつは……お前のこと、仲間だって言ってたけどな」
少しは、動揺してくれ。そうしないと、怒りに我を忘れそうだ。
しかし聡介の期待をよそに、イノ紳士の反応は冷めたものだった。
「それは彼の判断でそう思っていただけだろう。わたしには関係のないことだ」
手にした武器を握り締める。赤い模様が脈打っているように見えた。まるで、隅々まで血が通っているような。
聡介は薙刀を構え直し、イノ紳士と対峙した。彼は先端が刃に変化したステッキをフェンシングのようなポーズで構える。
スマートな身のこなしで突いてくるステッキの切っ先を避けながら、聡介も応戦するが、
間合いに踏み込ませないようにするのが精一杯だった。
武器を純粋に比較すればリーチが長い分有利だろうが、武道経験など皆無の聡介が思い通りに扱える代物ではない。
苛立ちが募る。
うっとうしいステッキを叩き折って、あのバカでかい頭を斬り落としてしまいたい……。
頭の中に沸いたイメージにぞっとした。腕輪のところがキリキリと痛む。
ダメだ。冷静になれ。
聡介の刃先がぶれる。気を抜くと眼前にステッキの切っ先が迫った。
「聡介さん! 振りが大きすぎます、中段に構えるのです! 後ろの手はもっと軽く!」
堤が声を張り上げる。中段ということは、腰あたりでいいのか。
イノ紳士から距離を取ると、言われた通りに構え直す。なるほど、このほうが攻撃にも防御にも対応しやすい。後ろの手は強く握らないほうがいいのか。
ちらりと堤を見ると、自分の脛あたりをバンバン叩いている。
足を狙えということか……。卑怯な気もするが、堤が指示するなら正当なルールとして認められているのだろう。
もっとも、これは試合ではないのだからクリーンに戦う必要などないのだが。
堤が懸命に指示を出してくれているのを見て、少し頭が冷えた。
確かにこれは試合ではない。相手は刺客なのだ。
だけど、自分の中のルールは守らなくてはいけない。
合っているのかどうかわからない中段の構えを保ちながら、聡介はイノ紳士の頭部をちらりと見る。ぐるりと巻いた立派な角にも見える牙。
いつか自分自身の命を脅かすかもしれない。そんなものが常に眼前にあるから、退廃的な思考になってしまうのだろうか。
見通しが悪いと、人間だって捻くれたりマイナス思考に偏ってしまうかもしれないな。
それなら……。
「何やってるんだ! 足狙えって堤さんも言ってるだろ!」
聡介の意図を察したかのように、ヒトミが叫ぶ。
低く狙いを定め、刃を滑らせる。イノ紳士は口の端をわずかに歪ませ、軽やかなステップで躱した。
「案外、素直なんだな……!」
聡介は下げた切っ先を、思い切り上に払った。
その勢いで帽子がはらりと落ち、イノ紳士が一瞬、それに気を取られた。その隙に今度は本当に足を払う。転倒したイノ紳士の頭部にそびえる、白々とした牙目がけて刃を振り下ろした。
「貴様……っ!」
うめき声を上げステッキでガードしようとしたが、遅かった。
濡れた地面に湾曲した牙が落ちる。
しばしイノ紳士は呆然と立ち尽くしたあと、そっと自分の頭部に触れる。そこにあったはずの牙は根元から折れていた。
しばらく牙がなくなったことを認められないかのように頭上に手を彷徨わせていたが、やがてだらりと腕を下げた。
「殺せ」
落ちた牙を拾い上げ、手の中に握る。
「牙はわたしの誇りだ。生きる縁だ。己が己であるための証だ。たとえ、自分の命を脅かすものだとしても」
抑揚のない声だった。先ほどまで感情を読めなかった澱んだ目には、今は悲しみが滲んでいるようにも見える。
「多少不格好でも、生きてるほうがましだ」
荒い息とともに吐き出す。まだ、怒りで腹の奥が熱かった。強く握り締めた拳は震えて、何故殺さないのかと訴えているようだ。
「もう仲間がいないなら、せめて思い出してやれよ、お前が」
これでまた、こいつが余計なことを言いやがったら……堪える自信がない。
イノ紳士は落ちた帽子を拾い上げ、頭上にちょんと載せる。
「生きることこそが大義というなら……この町から逃げることをお勧めする」
暗い声でそう呟き、イノ紳士は帽子を前へと傾げた。顔を隠すような仕草だが、帽子が小さすぎて何も隠れていない。光のない目からは感情は読み取れなかった。
ステッキで地面をこつこつと叩くと、そこに地下へ続く階段が現れた。その階段をよろけながら降りていく。イノ紳士の姿が見えなくなると、階段は元の地面へと戻っていた。
とりあえず、帰ってくれたことにほっとして、身体中から力が抜けた。それと同時に、パラパラと殻のようなものが剥がれ落ち、聡介は元の姿に戻る。変身が解けるのと同時に、薙刀も消えた。
通り雨だったのか、雨はすぐに止んだ。夕陽に染まる空を黒く棚引く雲が斑に隠している。近くで鳥が飛び立ち木の葉が揺れる音がした。
堤は子どもたちをその細腕で庇うようにして、こちらを見つめていた。あれだけうるさかった海はまだ泣いている松下たちを宥めている。
変身を解いた聡介が近づくのに気づくと、グッと親指を立てて大きく頷いて見せた。何様だよと呆れつつも、少し頬が緩んだ。
「聡介さん、大丈夫ですか。顔色が悪いようですが」
「疲れただけです。それより、すみません、お借りした薙刀が……」
「構いませんよ。まだ家に何振りかありますから」
堤はしばらく聡介を見つめたあと、何も言わずに視線を逸らした。聡介に背を向けると、堤は子どもたちを集め、それぞれの顔を見ながら優しく語りかける。
「さあ、おばあちゃんと帰りましょう。おうちはどこかしら」
怒っているのだろうか。生意気なことを言ったし、薙刀はなくなってしまったし、珈琲をおいしいって言ってもらってないなんて、押しつけもいいところだ。
「聡介さん。楽しみにしていますよ」
去り際に堤は振り向き、どこか不敵な笑みを見せた。
「珈琲、わたしを納得させてくださるんでしょう?」
難しい宿題を与えられたようで、不安とやる気が同時に湧き上がる。
もしかしたら、堤は忘れてしまうかもしれない。この間のショッピングモールのとき、あの場にいた人たちと同じように。
それでも、この宿題はちゃんと提出しよう。いつか、堤においしいと言ってもらえるように。
堤と子どもたちを見送ったあと、ヒトミと有馬と三人でカエルが消えた茂みを探してみたが、その姿はなかった。もっと遠くに逃げてしまったのかもしれない。せめて、この町で生きる場所を見つけてくれるといいのだけれど。
「……仕方ない、俺たちも帰るか」
「そうだね……。この近くでカエルが住んでいそうな池とか調べてみるよ」
見つけたところで、元に戻してやることも、話すこともできないかもしれないが。
有馬と共に歩き出したが、ヒトミはグラウンドに佇んだままだ。
「ヒトミさん、どうかしたか」
「聡介。本気、なの」
「何のことだよ」
「さっき言ってたこと。死んでもいい命なんて一つもないって」
「当たり前だろ」
「聡介を殺そうとした奴らのことも? 本当に?」
ヒトミは信じられないという顔で訊ねてくる。
もう一度『当たり前だ』と声に出そうとした。だけど、どうしても言葉にならない。喉に何か硬い物が詰まっているような感じがした。
「やめようよ、ヒトミさん。その話は」
「有馬君だって同じことを思ったでしょ。聡介のお父さんは、当然のことをしたって」
「それは……」
突然矛先を向けられ、有馬は言い淀む。
辛い記憶は心の奥底に封じた。出てこないようにと何重にも鍵をかけた。誰もそこに入れないよう、門番を立てた。
穏やかな日々を連ねていけば、その扉は二度と開かない。そう信じて。
さっき、イノ紳士に煽られても耐えた。なのに。
ヒトミはその僅かに空いた隙間に言葉をねじ込んできた。
「お父さんは、聡介を助けたんだ。まだ子どもだった聡介を殺そうとした奴らを、殺したんだから」
そう、子どもだった。あれは、小学校五年生の春休みだった。
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