8ー2
「お前は変身と戦闘に慣れる必要があったし、わたしは本当に聡介がソルを救う力があるか見極める必要があった。だから、仲間に頼んだ」
「試したのか、俺を」
「そうよ」
急にヒトミの顔つきが変わった。不安も恐怖も悲しみも呑み込み、仮面を被る。
「何でも利用してやる、ソルを助けるためなら、人間なんていくら犠牲になってもかまわない。わたしは、自分の子さえ無事ならそれでいい」
冷たい声、残酷な言葉。だけどなんて悲しく聞こえるのだろう。
これが彼女の本心ではないことくらい、わかる。いや、それは聡介の願望かもしれないけれど、それでもいい。
もう、いいのだ。どちらでも。
「そうか……。利用、されてやるよ」
妙に頭の中は冷えていた。いつからかは自分でもわからないが、もうとっくに心は決まっていたから。
「息子を助けるんだろ。俺だって、小さな子どもが危険に曝されてるなら助けてやりたい」
ヒトミさん、あなたの子ならなおさら。それは言葉にならなかった。
聡介が幼い日に望んだ光景を、子どもに見せてやるのも悪くない。
助けてと伸ばされた手は、誰かが掴まなくてはいけないのだ。
「ちゃんと……話してくれないか」
ヒトミは唇を嚙み、しばらく目を逸らしていたが、やがて決心したように顔を上げた。
「ソルを助け出せたら、三人で何かおいしいものでも食べよう。何がいいか考えとけよ」
「聡介……」
「あ……あんま、高い物は勘弁な」
「わかってるよ」
ヒトミは泣き出しそうな顔で笑ったあと、静かな声で話し出した。
彼女はリベラの王、ラルヴァの妻だ。
二人は愛し合っていたのだが、ラルヴァはヒトミが生んだ子、ソルを強くするためだと言って奪い、引き離した。
夫に裏切られたヒトミは少数の仲間と共謀し、ソルを奪還できる戦士を探すためにこの世界へやってきた。
ヒトミは聡介を選び、変身できる身体を与えた。
リベラが侵略を企んでいるというのも、この町が狙われているというのも、聡介を追い込むための嘘だった。
聡介は長い息をつく。少し、ほっとしたのだ。
状況が好転したわけではないが、少なくとも、この世界を侵略しようと大軍が押し寄せてくるということはない。
「で、肝心の息子は今はどうなってるんだ」
「ソルは……力を蓄えるためにフェルムという獣の中に閉じ込められているの。フェルムは元は臆病で大人しい獣だけど、無理矢理体内に子どもを宿されて、とても怒っているわ。いつ暴れ出してもおかしくない」
「どうやってそこに行けばいい?」
なんといっても異世界だ。きっと遠いのだろう。店は臨時休業するしかないか。焙煎済みの豆は酸化してしまうだろうし、こんなことなら仕入れをセーブすればよかったな。
「えっと……。二丁目の緑地のあたり、かな」
「は?」
二丁目の緑地といえば、商店街を抜けて五分ほど歩いたところだ。
冗談か、何かを誤魔化そうとしているのかと思ったが、ヒトミの表情は真剣だった。
「わたしたちの世界はね、遠くにあるわけではないわ」
そろりとヒトミの手が宙を掴もうとする。そこに透明な蝶がいるみたいだ。思わず、聡介もその指先の行方を見守った。
「ここにあるの。見えないだけ。層が違うと言ったほうがいいのかな。同時に存在しているけれど、通常は干渉し合わない。景色はこことはずいぶん違うけれど、いくつかの国があって、それぞれに暮らす者がいて、日々の営みがある」
それは、ケロケロの話からなんとなく想像がついた。凶悪な魔物が蠢く世界ではないということ。
「ごく稀に歪みが生じると互いの世界に迷い込む者もいるわ。意図的にこちらにくる者もいる。わたしのように」
「干渉できないものをどうやって助けるんだ」
「こちら側へおびき出す。フェルムの好物で」
ヒトミの表情が翳る。あまり簡単にいく話ではなさそうだ。
「フェルムが成長しきらないうちに、ソルと分離しなければいけない。そうしないと、フェルムはソルを取り込んで凶暴化するか、ソルがフェルムの力を吸収して心を失うか……どちらかよ。そうなったら、この町は本当に焼き尽くされてしまうかもしれない」
イノ紳士の予言めいた言葉は、このことを指していたのか。
「で、そいつの好物ってなんだ?」
細い指先が、そろりといつもしているチョーカーをなぞる。
色っぽい仕草にドキリとしながら、ふと気づく。そういえば、彼女がこれを外しているところは見たことがない。
「ごめんね、聡介……」
後悔を滲ませながらヒトミが告げた言葉に息を呑む。
正直、恐ろしいと思った。だけど逃げ出したいとは思わなかったのが自分でも意外だった。
信じるしかない。自分を。
自分を選んだヒトミのことを。
土曜日の午後、有馬がやってきた。ヒトミは有馬の顔を見ると、何も言わずにクリームソーダを作り出す。
その間、有馬はリュックからフィギュアを取り出して、どこに置こうかと店内を見渡している。
「増えすぎだろ」
「そう? いい感じになってきたと思うけど」
週末の度に増えていく。懐かしいものから新しいもの、聡介の知らないマニアックなものまで。窓際はすっかり、特撮ヒーローや怪人に占拠されている。
しかしおかしなもので、一つ二つだと違和感しかなかったが、増えるに従って調和が取れていくような気がする。
有馬の思うつぼなので口には出さないが。
他の客が引けたのを見計らって、有馬は喜々とした様子で訊ねてくる。
「で! ソル君救出作戦はいつ決行なの?」
「……なんでそんな楽しそうなんだよ」
「暗くなったってしょうがないじゃない。それに、もうすぐ子どもと会えるんでしょ。よかったね、ヒトミさん」
「まだ何もしてねーだろ」
「……ありがとう」
「なんだよ、ヒトミさんまで。まだ何もしてねーって」
「本当に、感謝しているの」
居住まいを正して、ヒトミはまっすぐに聡介を見る。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「聡介を騙して、利用してやろうとしていたのに、こんなわたしに協力してくれるなんて」
しおらしくされると調子が狂う。ヒトミも自分の言葉に少し戸惑ったように視線を彷徨わせる。
「あ、わたし洗濯物入れてくる。もうすぐ雨が降るから」
そう言ってヒトミは二階へ上がってしまった。
窓の外は明るい陽射しに満ちていて、雨など降りそうにない。だけど、彼女がそういうなら降るのだろう。
「本当に同棲しているみたいだね」
「有馬まで何言うんだよ。居候だよ、居候」
行くところがないと言う女性を放り出せるほど非情ではない。ただ、放っておけなかっただけだ。
「そこは聡ちゃんの気持ちで変わるんじゃないの?」
「なんで俺の気持ちで変わるんだよ」
「好きなんでしょ、ヒトミさんのこと」
「なっ―――」
息が止まりそうになった。なんてことを言い出すのだ。
バカらしい、バカらしい、バカらしい。
頭の中で三回唱え、大きく息を吸う。
「は? はぁああっ? なんだよそれ」
思いの外大きな声が出て、自分でも驚く。
「子持ちの人妻だぞ。しかも旦那は異世界の王様で、すごい強い怪物なんだろ。第一、ヒトミさんは身勝手で我がままで非常識で……俺のこと利用しようとして……」
有馬はにやにやして聡介を見つめ、カウンターに身を乗り出す。
「それでも、恋は止まらないでしょ」
「なんだよ、気色悪いこと言うなよ。そういうの、柄じゃないって有馬が一番よくわかってるだろ」
「今までの自分じゃなくなっちゃうのが、本当の恋でしょ!」
「だから、やめろよ、そういうの。第一、もうそんな年じゃねぇって」
恋愛に夢中になるような時期はとうに過ぎた。ある程度冷静に将来を見据えるのが大人の恋愛というものだ。
「年齢は関係ないよ! というか、大人になってからハマるほうがヤバいんだって!」
「楽しそうだな有馬……」
この調子じゃ、何を言っても同じような返しをされそうだ。ちょっとうんざりして黙り込むと、有馬は急に真剣な顔になる。
「ヒトミさんはいい女だよ」
「そんなこと、わかって――」
言い終わらないうちにカランとドアベルが鳴り、外の生ぬるい空気が流れ混んでくる。
急に空模様が変わったようで、ヒトミの言うとおり今にも雨が降り出しそうなにおいがした。
とりあえず、有馬との会話が中断されてほっとした。
しかし、客の姿を見て聡介の表情は再び強張る。
「いらっしゃいませ……」
入ってきたのは中年の女性で、髪を一つにまとめ、綿のシャツにグレーのパンツを履いている。どこかのオフィスにいそうなキリリとした雰囲気だ。
大きめのバッグを肩にかけ、紙袋を一つ提げている。見覚えのある和菓子店のものだ。
聡介は、ここの大福が好物だった。
彼女はカウンターに紙袋を置き、少し怒ったような顔で聡介を見る。
「久しぶりね、聡介。全然帰ってきてくれないから、きちゃった。はい、おみやげ」
「母さん……」
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