4−3

『弱い者相手に振るう拳は正義じゃない。ただの暴力だ』

 ふいに耳元で声がした。自分の声のような気もするし、ゲンコツ・ファイヤーの中にあった台詞のような気もする。

 いや、違う。この声は、もっと親しい人の。


 その顔が浮かんだと同時に、ワニマッチョがさらに悲痛な声を上げる。

「お願い、許してっ……」

 許す? 何故? 第一、こいつは〝弱い者〟なんかではない。バカっぽいが人間にとっては充分に脅威だ。何を躊躇う必要がある。

『間違わないと思ったから。力の使い方を』

 今度は女の声がした。つい最近聞いた言葉だ。

 そうだ。間違えてはいけない。絶対に、間違えてはいけないんだ。

 止まれ……。

 理性を総動員して、聡介は自分に言い聞かせる。

 止まれっ、止まれぇっ――!

 聡介は左手で自分の腕を掴む。硬化した黒い肌に指が食い込んだ。皮膚が破れ、血が滲む。なのに痛みは感じない。

 思い出せ、物語の中で何度も見たではないか。力に溺れた奴らの無様な姿を。己さえ殺してしまう憐れな末路を。

 正義の味方になんかなりたくはないが、悪役はもっとごめんだ。

 間違わない。平和を守るなんて大きなことは言わない。だけど、自分にも守るべきものはいくつかある。泣かせてはいけない人がいる。

「……っ!」

 突然、腕に痛みが走った。銀の腕輪が食い込む。赤い石が微かに発光していた。

「な、なんだ……っ?」

 ……止まった。

 聡介の拳はワニマッチョの鼻先寸前で制止する。

 荒い息を吐き、聡介は膝をつく。まだ、自分の腕を放せなかった。また暴れ出しそうで、怖かったのだ。

「許してくれる、のか」

 声を震わせ、ワニマッチョは首を傾げて聡介の顔を覗き込んでくる。応える余力はなかった。

「ありがとう、ブレイク、優しい」

 胸の前で祈るように手を組み、ワニマッチョは頭を下げる。

「もう二度ときません」

「……本当だな」

 念を押すと、こくこくと何度も頷いたあと、ワニマッチョは床に飛び込み、そのまま深く深く潜っていった。波紋が消えると、床は元通り硬くなっていた。

 力が抜けていくのと同時に、異形の姿が卵の殻のようにパラパラと剥がれ落ちる。

 ひどく疲れて、近くの柱に寄りかかると、穂村と有馬が心配そうに駆け寄ってきた。

「君、大丈夫か。怪我をしているじゃないか。医務室へ行こう」

 さっき自分で掴んだ腕は鬱血し酷く変色していて、腕輪の部分からは出血していた。

 肩を貸そうとしてくれた穂村をやんわりと断り、聡介は立ち上がる。少し、目眩がした。

「平気です。すみません、さっきはなんか……えらそうなこと言っちゃって」

「いや、そんなことは。耳が痛かったけど、でも、嬉しかったよ」

 照れたように頭を掻きながら、くしゃっと笑う。穂村のその顔は、年齢相応の皺が刻まれてはいるが、魅力的な表情だった。

 いい人なんだな、本当に。

「それにしても災難だったな。照明器具が倒れてくるなんて」

 ――え? 

 思わず、有馬と顔を見合わせる。ステージ上では照明が倒れ、スピーカーがあらぬ方へ転がっていた。聡介が暴れたせいだ。

「子どもが巻き込まれそうになったのを、君が助けたんだよ。俺も行こうとしたんだけど、おっさんは無理すんなって、君が」

 言ってない。断じて言っていない。

「もうヒーローじゃなくていいって。子どもの頃にゲンコツ・ファイヤーにもらった勇気は今も胸の中で生きているからって」

 近いことは言った気はするが……なんだ? 

 穂村はきょとんとしている聡介の肩をぽんと叩いて、残った客の元へ駈けていった。

「皆さんもお怪我はないですか?」

 穂村は周囲にいた人たちに声をかける。店内放送では、イベントが中止になった旨を繰り返し伝えていた。バタバタと警備員やスタッフが駆けつけてくる。

「お疲れ様、聡介」

 声をかけてきたのは、ヒトミだった。Tシャツにコットンのスカート姿。聡介が普段着用にと買ってやった物だ。美人が着ると安物に見えない。

「きてたのかよ。誘ったときは行かないって言ったくせに」

「よかったの、聡介。トドメを刺さなくて」

「あんなに必死に謝ってたんだ。もうこないだろ」

「優しいな、聡介」

「そんなんじゃないよ」

 これは優しさじゃない、たぶん。上手く説明できないけれど、あのとき、謝るワニマッチョに振るいかけた拳を止めたのは、自分のためだ。

 聡介は腕を見る。自分で掴んだせいで変色した皮膚を。

「本当に大丈夫、聡ちゃん。腕、すんごい色だけど」

 有馬は聡介の腕をしげしげと見つめ、顔をしかめる。

「鬱血って冷やすんだっけ、温めるんだっけ。お店で訊いて、湿布買って帰ろう」

 有馬はショップリストを確認し、改めて聡介の顔を見た。

「聡ちゃん、今日は大丈夫? こないだは倒れちゃったけど」

「ああ……そういえば、そうだな」

 疲れてはいるが、倒れそうってわけではない。慣れたのか。こんなことに慣れていくのか。

 嫌だ。こんなこと、喫茶店経営にまったく役に立たない。

「ヒトミさん、帰らないのか。見たい物でもあるのか?」

 聡介たちから離れて辺りを見渡していたヒトミに声をかける。何か足りない日用品でもあるのだろうか。女性の生活必需品は今ひとつわからない。

「何か必要な物があるなら買って帰るか?」

「ううん、いらない。こういうところ初めてだから、珍しかっただけ」

 慌てて首を横に振り、ヒトミは肩を竦める。

 なるほど。向こうの世界にはショッピングモールはないのか。それなら、今度ゆっくり見にきてもいいな。それほど高いものでなければ、買ってやってもいい。ここなら女性の好きそうな店がたくさんあるだろう。

 いや……何を考えているんだ。この女にそこまでする義理はない。一刻も早く出て行ってもらいたいのに。身勝手なくせしてこんな控えめな表情も見せるなんて、とんでもない悪女だ。そうだ、騙されてはいけない。油断してはいけない。

 聡介はぶんぶんと頭を振り、自分の頬を軽く叩く。

 そうやって、気を引き締めたつもりだったのに。

「どうしたの。やっぱり具合が悪い?」

 ヒトミが心配そうに顔を覗き込んでくるから、不覚にもドキリとしてしまう。

「なんでもない。大丈夫だ。さぁ、早く帰るぞ」

 さっきワニマッチョに罠を仕掛けたときよりもさらに棒読みで言い、聡介は歩調を早めた。

 まったく、油断ならない女だ。


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