4−2
突如乱入した異形の者に穂村は一瞬きょとんとしていたものの、すぐにキリリとした表情を作る。
「何者だ! 名を名乗れ!」
キャラクター・ショーが始まると思ったようだ。打ち合わせもなくそんなことが起こるわけがないのだが。しかし効果音も入らないことでさすがに異常事態だと気づいたようだ。
「キャラショー……じゃないの?」
穂村はスタッフに視線を送るが、彼らも呆然としている。客も、何か始まったのかと周囲を窺うだけで逃げようとしない。
皆、事態を飲み込めていない様子だったが、ワニマッチョが床に飛び込んだのを見て、一人の女性が悲鳴を上げた。
〝床〟に、飛び込んだのだ―――。
奴の周りがまるで水のように飛沫を上げ、波打つ。ワニマッチョは悠々と頭だけを出してこちらに近づいてくる。
客席にいた者は異常事態に気づきイベント会場から逃げ出す。周囲には野次馬が集まっていた。有馬にも逃げるように促し、聡介はまだ呆然としている穂村の元へと走った。
変身……すんのか? こんな公衆の面前で。絶対嫌だ、恥ずかしい。
それに、店から多少離れているとはいえ、顔見知りがいる可能性もある。もし見られたら、この先どうやってこの町で暮らしていくんだ。
いや……そんなことを考えている場合ではない。
「穂村さん、逃げてください」
「え? あ、君はさっきの……」
「早く!」
とにかく、この場にいる人に逃げてもらわなければ。そう思い穂村を急かしていると、背後から女性の甲高い声が響いた。
「誰か……! 誰か助けて……っ!」
振り向くと、逃げ遅れたらしき子どもが床で溺れそうになっている。母親は腰を抜かして動けない様子だ。その場にいた者は遠巻きに見ているしかできない。
「ま、待ってろ……!」
隣で上ずった声が聞こえてぎょっとした。穂村が飛び込もうとしていて、慌てて襟首を掴む。
「なっ、何やってんですか!」
ステージに向かっていたワニマッチョは方向転換し、子どものほうへ近づいていく。一旦潜ると、鼻先に気を失った子どもを乗せて浮上した。人質にでもするつもりか。それとも食う気なのか。
穂村は青ざめた顔をしていたが、それでも聡介を振り払おうとした。
「お、俺が……助けないと。だって俺は……」
「バカなこと言わないでください!」
聡介は苛立ちを抑えきれず声を荒げ、穂村を突き飛ばした。聡介の剣幕に驚いた穂村は、そのままぺたりと尻餅をつく。
この人は本当にバカなのか? いくらなんでも無謀過ぎる。相手は着ぐるみじゃなくて本物の怪人なのだ。
真っ先に保身を考えた自分なんかよりも、穂村の行動はずっと正義の味方らしいのかもしれない。彼がヒーローであり続けようとする気持ちは生半可なものではないことはわかった。
だけど、気持ちじゃ戦えない。
「あんたはもうヒーローじゃないんだ! 変身もできない、超人的な力もない、普通の人間なんだよ! いい加減、目ぇ覚ませよ!」
「俺は……子どもたちの夢を壊すわけにはいかないんだ」
「壊したくないのは、過去の栄光じゃないのか」
こんなこと口にしてどうする。心の中で自分に毒づくが、止まらなかった。
「俺たちは……みんなもう大人だよ、社会人だよ! ゲンコツ・ファイヤーを観ていた子どもはもうあんたを本物のヒーローだなんて思っちゃいない! それでも……」
リアルな生活の中に、幼い日に抱いた夢や憧れは遠のき、埋もれていく。
「それでも! 俺たちが子どもの頃にゲンコツ・ファイヤーにもらった勇気は本物だ、誰にも壊すことなんてできない……っ!」
ある程度の年齢になれば、テレビの中のヒーローは誰かが演じていると知る。作られた世界なのだと理解する。
それでも、幼い頃にたたき込まれた正義、強さ、優しさ、ヒーローたちの生き様は色褪せたりはしない。たとえ遠ざかったとしても、小さくとも、胸の中で息づいている。
「下がっててください」
「……君は一体」
ぽかんとした顔で尻餅をついたまま、穂村は聡介を見上げる。
「不本意だけど、変身できますから」
今この場で戦えるのは自分しかいない。行くしかない。
ワニマッチョは鼻先に子どもを乗せたまま、近づいてくる聡介を不思議そうに見ている。
「……あっ、お前か。あの雨の夜の」
「遅ーよ。ワニマッチョ、お前は人違いし過ぎだ」
「うるさい!」
ワニマッチョは子どもを放すと、勢いよく飛び出してきた。穂村はすかさず、子どもを抱えて走り出す。
その行動だけでも変身なんかできなくったって充分ヒーローだよ。他の大人は遠巻きに見ていることしかできなかったんだから。
心の中で呟きながら、聡介はワニマッチョに対峙する。
やはり以前見たときよりも大きくなっている。しかし頭の悪そうな仕草は変わっていない。短い手足をばたつかせ、怒っている。
「俺はそんな変な名前じゃない! ギュスターヴという立派な名前がある」
「そう呼んで欲しけりゃ最初に名乗れよ」
「人に名乗れという前にお前が名乗れ!」
「……ごもっとも」
聡介はため息をつき、やれやれと肩を竦める。少々ヤケになっているのかもしれない。
袖を捲り上げ、腕輪を露出させる。赤い石に触れると、導くように勝手に動いた。カチカチと音を立て、腕輪が開く。肌には赤い刻印。
普段は感じない熱を帯びる身体、戦いたくないと理性は叫んでいるのにも拘らず、昂ぶっていく心。
赤く光る輪が頭上から降りてきて、聡介の身体を包む。酷く緩慢に思えたけれど、実際には一瞬の出来事なのだろう。変身を阻止しようと食らいつこうととしてくるワニマッチョの歯が、腹の脇で噛み合う音がした。無意識に躱したらしい。
危ないなもう……変身中は行儀よく待っているのがお約束じゃないのか。
この間と同様に、聡介の肉体は変化していた。皮膚は硬化し、黒色に染まっている。血脈のような赤いラインが、正義の味方と呼ぶには少々禍々しい。
「変身、しちゃった! くそ!」
ワニマッチョは悔しげに短い足で地団駄を踏んでいる。
「で、名前は?」
ああ、そうか。名乗らないと。聡介は拳を口元に運び、咳払いをする。
「……ブレイクだ」
言っちゃった。名乗っちゃった。だけどまぁ、志木聡介だと名乗るよりは適切だろう。
「ブレイク! よし、覚えた。お前を倒す!」
短い手足でファイティングポーズを取るワニマッチョが、今は滑稽に見える。やはり、肉体のみではなく精神にも変化をもたらすようだ。戦う上では、重要なことなのだろう。
さて。また床に潜られたりしたら厄介だ。どうやって倒すか。こっちは武器もないし、殴ったり蹴ったりするしかないのか。もっと手っ取り早い方法は……。
ちらりとステージ上の機材を見る。マイクスタンドとスピーカーが二つ。ステージの脇には長机の上にパワーアンプが置かれていた。
聡介はスタンドからマイクを取ると、ワニマッチョを指差し、声を張り上げた。
「もう床には潜るなよ。俺は泳げないんだからな」
「泳げない!」
聡介の言葉にあからさまに嬉しそうに歯をガチガチ鳴らし、ワニマッチョは勢いよく床に飛び込んだ。
「俺泳げる。有利」
得意げに潜ったり身体を翻しているワニマッチョを見て、少々気の毒な気分になる。だが、情けをかける理由もない。
「やめろって言っただろ! 上がってこいよ!」
マイクを通した声は我ながら棒読みでちょっと恥ずかしい。だが、これで通電していることが確認できた。
「ブレイクかなづち、かっこ悪い」
ワニマッチョは上がってくる様子はない。聡介は嫌がるふりをしながら、辺りを観察した。
床が水のようになるのは、奴の半径一メートルほどだ。最初に現れた地点は普通の床に戻っている。効力は長くはないらしい。蛇行するように近づいてくるのは、水の範囲を広げるためと、それを維持するためだろう。
ワニマッチョは陸上とは比べものにならないほど優雅な泳ぎを披露する。
近づけ、もっと……。
「上がってこいって言ってるだろ!」
聡介は近くにあったスピーカーをコードごと蹴飛ばした。
四角い塊がドボンと水没した、と同時にバチバチッと生理的に嫌悪感を感じる音が響いて、火花が散る。
「ふぁっ?」
水に電気は厳禁。知識として知っていても、感電している生き物を目の当たりにするとぞっとした。
「わっ、うわわわわわぁぁぁぁあっ!」
ワニマッチョの身体が細かく痙攣し、水面が波打つ。
勢いよく飛び出したワニマッチョは、慌てて水から離れた。意外に元気だ。だけどこれで水の中に飛び込もうとはしないだろう。まだ、機材はいくつかある。
「酷い、ずるい。ビリビリするなんて」
「悪いな、こっちも必死なんだ」
聡介は肩を竦め、顎をしゃくる。
「怒った。もう怒った!」
また悔しそうに地団駄を踏んだあと、身体を急旋回させた。
目の前を太い尻尾が掠めていく。聡介の首を狙った尻尾は床に勢いよく打ちつけられた。人間の首なんて簡単に吹っ飛びそうだ。
だが、攻撃パターンは単純だ。尻尾でビターンか、噛みつき。この間もそうだった。筋肉隆々の腕は、短すぎて役には立たないだろう。
聡介は軽々と攻撃を躱しながら考える。
水から上がらせたはいいのもの、どうやって倒したらいいのだろう。
倒すって……殺すのか?
それは……嫌だな。いくら敵とはいえ。なんとか諦めて帰ってくれる方法はないのか。
「またずるいこと企んでるのか!」
至近距離で声がする。考えていて躱すのが遅れた。肩口にワニマッチョの歯が食い込む。
「――ってぇな!」
カッと頭に血が上る。何がずるいだ。殺さない方法を考えていたのに。
ヤバい。あのときと同じだ。腹の底が熱い。攻撃を受けて恐怖しなければならないところなのに、気持ちは高揚する。
やっぱ、ブレイクなんて名前はまずかったんじゃないか。
頭の隅で思いながら、聡介はワニマッチョの顎を膝で蹴り上げ、よろけたところを今度は肘で打った。ガードしようとした短い腕を捻り上げ、腹を殴る。鼻先を掴んで、体重をかけて思い切り床に打ちつけた。
かっこ悪い。スタイルもくそもない、めちゃくちゃだ。そう思いながらも止まらない。
「ま、待っ……」
聡介の豹変に驚いたのだろう。ワニマッチョは動揺した声を漏らす。だが、構わず殴り続けた。ワニマッチョが立っていられず膝をつくと、腹を蹴飛ばした。巨体が浮き上がり、水しぶきで濡れた床の上を滑っていく。
聡介もそれを追い、走った。さらに攻撃を加えるために。手加減する必要はない。敵なんだ。他の人も巻き添えになるところだったのだ。幼い子どもまで。
今日こそ、トドメを刺さなくては。
怒りと思考は反駁することなく、聡介を突き動かす。
しかし。
突如、ワニマッチョは床に這いつくばるようにして頭を下げた。
「ごっ……ごめんなさい……っ!」
―――え? なんだ?
「本当にっ、今度こそ本当に帰るからっ、だから許してください……っ!」
顔を上げたワニマッチョは涙目で懇願している。もうしませんと繰り返して、何度も、何度も頭を下げている。
信じていいのか? 相手は得体の知れない怪物だ。
改心したと見せかけて反撃してくるのは、常套手段だ。だけど、それはもっと小狡いタイプのやることだ。こいつはそんなに頭の回るタイプじゃない。
いや、そうだとしても情をかける必要はない。敵なんだ。この世界を侵略しようとする者の手先だ。躊躇する必要はない。
殺してしまえ。生かしておいたらあとで面倒なことになるかもしれない。
頭の隅で声がする。
無抵抗のワニマッチョの顔面に狙いを定め、聡介は拳をねじ込む。
捩れた肉の硬い感触。生々しい温度。
家で寝込んでいたときは思い出して気持ち悪いと思った。
だけど今は……悪い気分じゃない。
『弱い者相手に振るう拳は正義じゃない。ただの暴力だ』
ふいに耳元で声がした。自分の声のような気もするし、ゲンコツ・ファイヤーの中にあった台詞のような気もする。
いや、違う。この声は、もっと親しい人の。
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