3−3

「ここで暮らすつもりなら、相応の対価を払ってもらう」

「身体で払えばいいんでしょう?」

「……そうだ」

 交渉成立。聡介はにやりと口の端を持ち上げて笑い、ヒトミの手に紙袋を押しつける。

「なっ、なに?」

 ヒトミは動揺して視線を泳がせる。慌てた表情は計算がなくて可愛く見えた。

「それに着替えて。先に言うが、着替えは人目のないところでするように」

「……コスチュームプレイというやつ?」

「違う! 制服だ!」

 紙袋に入っていたのは、白いブラウスとグレーの膝丈のスカート、それから黒いエプロンだ。

 ウエイトレス用の制服を、ネットで頼んでおいたのが昨夜届いたのだ。

「えーと、身体で払うって……」

「ここにいたければ働け。最初は簡単なことからでいいから」

「聡介……わたしに、何もしないの?」

「路頭に迷っている女に手を出すほど不自由はしていない」

 嘘だ。もう何年も彼女なんていない。プロのお世話にもなっていない。

「……そうだったな」

 ヒトミはぺたりと座り込み、制服の包みを胸に抱く。指先が震えていた。

 なんだ、強がっていただけで怖かったのか。ちょっと悪いことをしたかな……。

 少々後悔しながらも、聡介はもう一つ包みをヒトミに渡す。

「こっちは普段着用と、部屋着だ。安物だが我慢しろ」

 ヒトミは包みの中を覗き込み、つまらなそうに唇を尖らせる。

「聡介、センス悪い……」

「うるさい、文句を言うな。下着類はサイズがわからないから、後で一緒に買いに行くからな」

 寝込んでいる最中にベッドの中で注文したのだ。感謝されこそすれ文句を言われる筋合いはない。

 とにかく、隠れてさえいればいいのだ。おっぱいと尻が。

「ここで暮らす気なら、そんな下着みたいな格好でうろちょろするな。見苦しい」

 ……というよりも目のやり場に困る。さっきのは少々脅すつもりでやったが、自分も一応、健康な男子だ。こんな変な女と間違いを起こす気はないが、ないとも言い切れない。

「下着じゃないよ。特別な素材ででてきてるの、すごく丈夫よ」

 いくら丈夫でも、守っている範囲が少なすぎる。しかし反論は呑み込んだ。

 聡介はちらりと時計を見る。もう店を開けなければ。

「店に出るときは髪をまとめること。いいな? 俺は今から店開けてくるから」

 そう言い残し、聡介は先に店に出て、掃除を始めた。

 変身して戦ったせいなのか、何日も寝込んだせいなのか、動くたびに節々が軋むように痛かった。

 店はたまに混むことはあるが、一人でも充分に回せる。

 自分が生活していく分には不足はないが、居候を養うゆとりなどない。しかしヒトミを放っておくこともできない。

 簡単に帰ってはくれないだろうし、聡介が店に出ている間に好き勝手されるのも困る。

 店で働いてもらうのが一番合理的だ。そう判断したのだ。

 しばらくすると、ヒトミが階段を降りてきた。恥ずかしそうに俯いて、内股で階段を降りながらスカートの裾を気にしている。

 着る物でずいぶんと印象が違うもので、不覚にも一瞬ドキリとした。

 髪は聡介が言ったとおり、一つにまとめられ、白いうなじが露わになっている。

 こんなに地味な格好をしてもヒトミの美貌は陰をひそめたりはしない。それどころか、飾り気のない格好は彼女の美しさを引き立てていた。

「へ、変じゃないか?」

「いや、似合ってるよ。さっきまでの格好のほうがよっぽど変だ」

「そうか? こんなに肌を隠したの、初めてで……」

 どういう価値観なんだ。あっちの世界の女性は肌を露出しているのが当たり前なのか。

 それはそれで興味深い話だが……いや、そんなことはどうでもいい。

「仕事は、少しずつできそうなことを教えるから。まずは、お客さんがきたら挨拶して」

「挨拶? おはようございますでいいの」

「うん、まぁ朝のうちはいいけど。いらっしゃいませ、な。これがお客さんに対する挨拶」

「いらっしゃいませ?」

「もう少し愛想よく」

 聡介が指示すると、ヒトミは微笑みを作り、もう一度『いらっしゃいませ』と言ってみる。

 なかなかいい感じだ。

 女性がいるだけでこうも店の雰囲気が柔らかく感じるものか。

「あってる? 聡介」

「あ、ああ。悪くない」

 心配そうに首を傾げた顔が意外にも可愛くて、聡介はぶっきらぼうに答えて目を逸らす。

 半裸のような格好のヒトミよりも格段に魅力的だ。おかしい。服を着てもらったほうがドキドキしてしまう。

「聡介? まだ具体悪いんじゃないのか? 顔が赤い」

「そうか? そんなことはいいから、これ見てメニューを覚えて」

 そう言ってメニュー表を手渡し、聡介はカウンターに入った。湯を沸かし、卵を茹で始める。

 しばらくすると、カラン、と小気味よい音がなり、扉が開いた。朝一の客だ。

「おお? 聡ちゃん、アルバイト雇ったのか。えらい美人だなぁ」

「ええ、今日から。ヒトミさんです」

 紹介されると、ヒトミはペコリと頭を下げ、品よく微笑んでみせた。やればできるじゃないか。最初にこの店に現れたときのようなテンションで客に話しかけたらどうしようかと思ったが。

「こちらは田所さん。近くの工場の社長さんで、いつも朝一できてくれる常連さん」

「いやぁ、社長はよしてくれよ、聡ちゃん」

 照れたように薄くなった頭をかき、だらしなく笑う。

 田所はヒトミを遠慮なく上から下まで眺めたあと、肘で聡介を突いてくる。

「聡ちゃんの彼女か」

「いえ。ご主人もお子さんもいるそうです」

「子持ちの人妻と不倫かぁ。聡ちゃんもやるなぁ」

「そんな、不倫なんてとんでもない」

「わかってるよ、聡ちゃんが軽い気持ちで人妻に手を出すなんて思っちゃいない。本気なんだろ?」

 違う……。反論しようとしたが、田所は自分の弁に納得し、一人頷いている。どう誤解を解くべきかと思案する聡介の渋面を、不思議そうにヒトミが覗き込んでくる。

「フリンってなんだ?」

「余計なことを言わずに、これ運んで」

 モーニングサービスのトーストとゆで卵をトレイに載せ、ヒトミに持たせた。聡介は淹れ立ての珈琲を田所のテーブルに置く。

「そういや、国道沿いのでっかいショッピングモールに、俳優がくるらしいよ。なんてったっけなぁ、名前。昔、正義の味方だった兄ちゃんだよ。ゲンコツなんとかって」

「穂村拳ですね。何をするんだろう」

「歌って書いてたかな。ポスター貼ってあるよ、駅に。聡ちゃん、子供の頃好きだったろ、ゲンコツなんとか」

 聡介は小学校五年生まではこの近くに住んでいた。ブレイクにもよく顔を出したから、常連たちはたいてい、聡介の子供の頃を知っている。今でも聡ちゃん聡ちゃんと可愛がってくれるのはありがたいが、少々照れくさい。

「時間があったら行ってみますよ」

 当たり障りなく微笑み、聡介はカウンターに戻った。それから、ヒトミに細々とした仕事を教える。ゴミの出し方、ペーパーナプキンや砂糖の補充、明日からは朝の掃除もしてもらおう。それから、注文を取るためにはメニューを覚えてもらわなくては。

「メニューは覚えた」

「嘘つけ。ろくに見てないだろ」

 聡介が呆れてため息をつくと、ヒトミはメニューを上から諳んじ始めた。

「一度見たものは覚えている。わたしは目がいいから」

 ヒトミは自慢げに胸を張る。彼女の言う〝目がいい〟は何か特殊な能力のことなのかもしれない。

「……わかった。実物と一致するよう、おいおい教えていくから」

 田所は新聞の影からチラチラとこちらを窺っている。彼の中では、道ならぬ恋を育む二人と映っているのだろうか。想像するとうんざりする。やはり、面倒がらずに訂正しておくべきだったか。

 一通り新聞に目を通すと、田所は立ち上がり珈琲代をテーブルに置く。

「美人のウエイトレスが入ったって宣伝しとくよ。ヒトミちゃんだっけ? 頑張ってな」

 訳知り顔で聡介の肩を叩き、ヒトミに向かって深く頷く。それから、いつものように左手を振りながら店を出て行った。

「で、聡介。フリンってなんだ? 想像するに、あまりいいことではないようだが」

「……道に外れた行い、かな」

 説明するのが面倒で適当に答えたら、さらに面倒な質問が返ってきた。

「外道と何が違う?」

 余計な言葉は知ってるな……。そう思いながらも、真剣な表情のヒトミを前にすると無下にはできず、昔使っていた電子辞書でも貸してやるかと考える。

「まずいな……」

「えっ、何がおいしくない? 何も食べてないのに、おかしなことを言う」

 不可解そうに眉を寄せるヒトミを見て、くすりと笑みが漏れる。そんな聡介の反応に、ヒトミはさらに眉間の皺を深くした。

「なんだよ、言葉が変だった? 間違ってたのなら教えてよ」

「まずいは紛らわしいか。じゃあ、やばい、かな」

「それは知ってる。おいしいときに言うやつだ」

 得意げに胸を張るヒトミを見て、たまらず吹き出した。本当に余計なことは知っている。

「え、どうして。なんでそんなに笑うの?」

 ヒトミはひどく動揺して、聡介の腕を揺さぶってくる。表情豊かで、見ていて飽きない。

 まずい。やばい。情が移り始めているのかもしれない。

 行くところがないというから、一時的に家に置いてやるだけだ。変身はもうしたくないし、できるだけ早く別の適任者を探し出してもらいたいところなのに。

 そうしたら、この人は出て行くんだな。

 そう思うと、少し……ほんの少しだけ、寂しいような気がした。

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