あめときみ
蒼野海
第1話
私の世界には色がない。
正しくは、白黒灰以外の色が見えないのだけれど。
目の前に何があるかは大体分かるけれど、それが何色の物なのかはさっぱり分からないし、隔てのないところとガラス壁の区別もイマイチつかない。
それでも、小さい頃は見えていたらしい。「らしい」というのは、もう記憶もないほど小さな頃の話を母から聞いたから。5つになる頃にはもう私の世界からは色が無くなっていたようだと、母は言っていた。
少し大きくなったそのくらいの頃、医者にかかった朧げな記憶がある。
心因性のものだと言った声がドアの隙間から聞こえたが、その時は何のことやらさっぱりで、意味が分かるようになったのは中学生当たりだった。
5つにもならない小さな子供に何があったのか、もうこれっぽっちも覚えていないけれど、私がこれに向き合って上手く付き合っていくしか無かったのは確かだった。
雨の日は好きだった。耳で聞いて判る天気。私が唯一、窓を見ずともはっきりとわかる天気。
今日もまた、雨。
他人が差す傘の色も、路肩に咲く紫陽花の色も、知らなくていい。私が耳で聞いて、楽しければいい。
雨の下校は回り道をして帰る。それが、私の楽しみ。
いつもは曲がる道の少し手前で曲がって、雑貨屋さんを横目に帰る。でも最近はもう1つ。雑貨屋さんの隣の公園で、カイくんとお喋り。
カイくんは、先々月の雨の日に公園の東屋で本を読んでいた。ちょっと気になって話し掛けてみたら、話し相手になってくれた。カイくんも、雨の日にだけ東屋に来るらしい。
今日行ってみると、彼はまだ来ていないらしかった。ベンチに腰掛けて目を瞑り、ぼんやりとザァザァ降る雨音を聴く。東屋の屋根に当たる音。雨粒の大きさによって音が変わる。少し寒いけれど、カイくんに会うのが楽しみでそんなことどうでもよかった。暫くすると、雨音の中に人が走る足音が聞こえた。どんどん近づくその音に目を開けると、東屋の入口にはカイくんが立っていた。
「カイくん、こんにちは」
「こんにちは」
「走ってきたの?」
「うん。待ち合わせてないけど、ハルちゃんはもう来てるだろうなと思って」
私がこの時間を楽しみにしていると、カイくんは知っている。カイくんは物知りだから。
「ありがとう」
「僕も楽しみにしてたんだ、雨の日」
カイくんも東屋での時間を楽しみにしてくれている。そう教えてくれたのは、3回目に東屋に来た時だった。隣に座ったカイくんににっこりと笑うと、カイくんの眼鏡の奥の瞳が柔らかくなって口角が上がった。
「今日は何を教えてくれるの?」
そう聞くと、カイくんは隣に置いたリュックサックを開けてゴソゴソし始めた。カイくんは物知りだから、毎回私の知らないことを教えてくれる。ギリシャ神話だったり洋画の話だったり、偉人の話だったりと色んな面白い話を教えてくれるこの時間が、私は大好きだった。
あった、と言ってカイくんは1冊の本を取り出して見せた。
「今日は心理学だよ」
難しそうだね、と思ったままに返すと、カイくんは笑った。
「まあいいから、実験してみよう」
そう言ってカイくんは私に目をつぶるように命じた。今日はどんな楽しいことをするんだろう。期待して素直に目を閉じると、再びリュックを漁り、今度はビニール袋の音がした。何だろう。
「何をするの?ねぇ、ちょっと怖いなぁ」
怖いと言いつつ楽しみそうなのが隠せず、にこにこと目をつぶる私の姿に声を出さずに笑ったカイくんが、大丈夫だよ、と言った。
「絶対に、目を開けちゃだめだよ?」
「うん」
何が始まるんだろう。そう思って返事を返すとすぐに、片頬に暖かい物が触れた。きっとカイくんの手だ。男の子らしい大きな手は私の頬、顎から顎関節にかけてをすっぽりと包み、親指が閉じられた瞼を撫でた。突然触れられて、ゾクリと背が粟立つ。
「カイくん……?」
「ダメだよ」
かなり近く、耳元から発せられた声に肩が跳ねる。頬を包む手はそのままに、頭を撫でられる。
実験とは、何なのだろう。何か、おかしい。そう違和感を感じながらも、カイくんに触れられるのは嫌では無く、心地よかった。自分に触れた手から、温かさが流れてくる気がした。
「今から、僕がハルちゃんに、おまじないをかけます」
「おまじない?」
「そう。そうしたらきっと、ハルちゃんはまた、色が見えるようになる」
「……嘘」
「嘘じゃないよ」
病院で検査してしばらく経った頃、色々と治療法を試した時期があった。けれど、どれも効果を発揮せず今日まで来たのだから、きっといくら物知りのカイくんでも私の目は治せないと思う。黙りこんでしまった私の頭が再び撫でられる。
「僕が嘘ついたことある?」
「無い……けど、」
「騙されたと思って、信じてみて」
いつも通りの優しい声で諭され、少しくらいなら信じてみてもいいかもしれないと思った。今までカイくんの言ったことに嘘なんてひとつも無かった。今回も、もしかしたらさっきの本がすごい本でカイくんのやることが正しく効果を発揮するかもしれない。そう、思うことにした。
「今からハルちゃんに魔法のメガネをプレゼントします」
「魔法?」
唐突に魔法と言われて、拍子抜けした。まさかカイくんの口から「魔法」なんて言葉が出るとは思わなかった。くすくすと笑う私の頬をムニムニと親指で押しながら、カイくんは続ける。
「そう、魔法。掛けると世界に色がつく魔法のメガネだよ」
さっきまでの優しい雰囲気とは一転して、真面目な声色にドキリとする。なんと返していいかわからず曖昧に返事をすると、瞼に親指ではない柔らかいものが触れた。
唇だった。わざとらしく音を立てて離れる唇は、反対の瞼にも触れた。
「カイ、くん?」
「魔法がよく効くおまじない」
動揺のあまり目を開けないという言いつけをきちんと守ったまま名前を呼ぶと、頭に置かれた手が2度ばかり軽く弾んだ。
頬を包んだ手の指先が、耳を捉える。再び跳ねる肩はお構い無しに、カイくんが私の髪をかき分けると、新たに冷たく固い感触が耳に伝わる。それまで無かった違和感を感じながらも、手が止まるのを待つ。
「いいよ、ゆっくり目を開けて」
間もなく告げられたお許しの声は優しさの中に少し緊張が混ざっている気がした。
「大丈夫」
そう言われて、怖々と目を開けると、目の前にカイくんの顔があって驚いた。
「びっくりした」
「……どう?」
真っ直ぐに見つめる彼は真剣そのもので、目を逸らせなかった。真っ黒な瞳に黒縁のようで違う深い色のメガネ。
違う
カイくんのメガネに、目を丸くして口をあの形に開けた自分が映る。
違う、違う色だ。いつも見ていた黒では無い色。よく見れば、心配そうにこちらを見る、白かった彼の肌は色づき、頬もほんのりと色が差している。周囲を見ると、東屋はと今座っているベンチは彼のメガネの縁と似たような色をしていた。制服のスカートは、黒ではなかった。セーラーのタイは赤だと母が言っていた。
これが、赤。
これが、色。
「カイくん、」
「うん?」
「カイくんのメガネは、何色ですか」
一呼吸置いてから、カイくんは大きく目を開けて嬉しそうに笑った。
「焦げ茶色だよ」
「……そっか」
「うん」
「焦げ茶色なんだ」
「うん」
どんどん視界が歪んでいく。滲んでいく世界はもうモノクロじゃなかった。
子どものように声を上げて泣く私を、カイくんはずっと抱き締めてくれた。私が泣き止む頃にはすっかり雨は上がって、雲が晴れていた。
「もう夕方だね」
「うん」
「夕方は、何色?」
「オレンジ色だよ」
「……オレンジ色」
「うん」
世界は太陽の光に照らされて、暖かい色をしていた。
「何で、ここまでしてくれたの」
「きっと、ハルちゃんが僕を信じてくれた理由と一緒だよ」
やっぱり、カイくんは物知りだった。けれど、私と同じ気持ちだったとは、知らなかった。
「そっか……」
「ハルちゃん」
「ん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、唇が重なる。
カチャリとメガネの縁がぶつかる音がして、カイくんが少し笑うのがわかった。
額をくっつけて見つめられる。
「好きだよ」
「うん」
そう言ってほんのりと染まるカイくんの頬の色は、恋の色だろうと思った。
あめときみ 蒼野海 @paleblue_sea
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