決意と失望の狭間にあるもの

「絶対に途中で俺の手を離さないでくださいね」


 クロックは隣に座ったトーマスに何度も念を押した。

 彼はしきりに頷いて深呼吸を繰り返した。


「大丈夫。これからちょっとだけアンジェラの過去を覗くだけです。彼女がどうして〝時間〟をつなぎ止める鎖を切り落としてしまったのか。それを見に行きましょう」


 トーマスは一度頷いたものの、すぐに尋ねた。


「娘の意識は戻るだろうか……」


 するとクロックは言った。


「事と次第によっては、トーマスさんが彼女の〝時間〟を取り戻すんですよ」



 ***



 真っ暗な空間。


 心が蝕まれるような気持ち悪さが胸を埋める。

 違和感がどんどん大きくなり始めたところで、トーマスはクロックの声を聞いた。


「さあ、そろそろですよ」


 ややあって、ぼんやりと何かの光景が見え始めた。

 まるで闇夜に浮かぶ幻灯のようだった。


『彼はそんな人じゃないわ!』

『お前はまだ若いから騙されているだけだ! いいか! お前の結婚相手は私が見つけてやる!』

『お父さんが騙されるかもしれないじゃない!』

『馬鹿を言うな! ちゃんとした男を見つけてやる! 少なくともお前が連れてきたような貧民街の男ではないぞ!』

『身分が何よ! お父さんなんてもう知らない!』

『アンジェラ! まだ話は終わってないぞ! あの男は有名な不良グループのリーダーだったらしいじゃないか! そんなやつが今更更生できるものか!』

『まさかわざわざ調べたの!? お父さんはどうしてそうやって人を決めつけるの!? なんで今の彼を見てくれないの!? 彼は頑張ってるわ! 一生懸命、一人前になろうと頑張ってるじゃない! なんで認めてくれないの!?』


 それは三年前の記憶。

 しかし、映っているのはトーマスだけだ。場所はこの屋敷のどこかのようだ。


「覚えていますか?」


 ふとクロックの声が聞こえて、トーマスは「ああ」と呟いてしばらく沈黙したが、思い出したように答える。


「君が言っていたのはこういうことだったのか」

「ええ。わかりやすいでしょう?」


 そうだな、と彼は頷いたが、体の動きまではクロックに伝わらなかった。


「これはアンジェラの記憶、ということなのだな」

「ええ。そうです。人それぞれが持つ過去とは、つまり〝記憶〟なんですよ」

「……恥ずかしい話だ」


 トーマスはアンジェラの耳から聞いた自分の声と、彼女の目から見た自分の顔を見て、自分自身に失望する思いだった。

 今ならわかる。

 目の前に浮かぶ幻灯とともに、そのときに感じたアンジェラの悲しさや悔しさが、嫌と言うほど胸を埋め尽くす。


「私はなんと馬鹿な親なのだろうな。せめて、せめてもう少しだけでも、娘の言い分を聞いてやるべきだった」

「果たして本当にそうでしょうか?」


 クロックは疑問を呈した。

 トーマスは自嘲気味に鼻を鳴らして言う。


「自分の言ったことが間違っているとは思わんがね。それでも、もう少し歩み寄ることができただろうと思ったのだよ」


 クロックはそれに答えず言った。


「次の過去を覗いてみましょうか」


 やがて幻灯は移り変わる。

 次に浮かび上がった幻灯の中には、トーマスの若いときの姿が映っていた。

 隣にいるのは彼の妻だろうか。


 二人とも優しい眼差しでこちらを見下ろしている。

 それはつまり、アンジェラを見つめる視線でもあった。


『アンジェラは将来何になりたいんだい?』

『しょうらい?』

『今よりずっと大きくなって、お父さんたちみたいに大人になったら、どんなお仕事をしたいんだい?』

『あなた、さすがにアンジェラには早すぎる質問じゃないかしら』

『いいじゃないか』

『そんなこといって、お父さんのお嫁さんって言って欲しいだけでしょう?』

『あはは、かなわないな、まったく』


 トーマスは懐かしい家族の温かみに触れて、知らず涙を流していた。


「忘れていたよ。この頃の私は通信局で働いていてね。給料は少なくて、妻と娘を養わなければと必死だったんだ」

「そんな時代もあったんですね」

「ははっ、当たり前さ。かれこれ十年以上も前の話だよ。この頃は、毎日が大変だったし、辛いと感じない日はなかった。けれど、嗚呼――こんなにも幸せな顔をしていたのだな、私たちは」


 クロックは何も言わなかった。

 幻灯からはアンジェラの幼い声が響いた。


『ねえ、お母さんはお父さんと結婚してしあわせ?』

『ええ、もちろん! お母さんはお父さんと一緒にいれて、それにアンジェラ――あなたと家族になれて最高に幸せよ』

『お父さんはあ?』

『ハッハッハッ、もちろん幸せさ。家族三人、こうして一緒にいられること以上に幸せなことなんてないさ!』

『そうなんだ……ねえ、お母さんとお父さんはどうして結婚したの?』

『そうねえ。うふふ。やっぱりお父さんの優しいところが大好きだったから、かしらね』

『なんだかこそばゆいな』

『お父さんはあ?』

『わ、私か。私は……そうだな。まずエレナは美人で気立てもよくて、心根が優しくて、物腰も柔らかくて、それでいて案外負けん気が強いんだ。そういうところがお父さんは大好きだったんだ』

『もう、あなた、それ以上はおよしになって』

『あはは、いいじゃないか。減るもんじゃないんだ。私は本心を述べただけさ』


 トーマスは軽い笑みをこぼして幻灯の中に広がる光景に目を奪われていた。

 しかし、その微笑みは過去の自分が言った言葉に凍り付いた。


『だから、アンジェラ。お前もこの人だと思う大好きな人を見つけるんだよ。誰が反対しようと絶対にこの人しかいないと思える人を見つけるんだ。お父さんとお母さんのように、ね』


 かつての自分が言った言葉は、トーマスの心に深く突き刺さった。

 やがて出てきた言葉は変わってしまった自分への嘆きに他ならなかった。


「ままならないものだな。私は家族の反対を押し切ってエレナと結婚したというのに。アンジェラには身分が違うからという理由で結婚を反対して……」


 クロックは「そうかもしれませんね」と一言告げた。

 するとトーマスは言った。


「かもしれないではない。そうに決まっているさ。私が地位を得て変わってしまったんだ」

「本当にそう思いますか? 過去の感傷に浸るのは後でもできますよ」


 トーマスの返事を待たず、幻灯は移り変わる。

 新たな幻灯の中にはアンジェラが一度だけトーマスに紹介した男が映っていた。


『ごめんなさい。父が話を聞いてくれなくて……』

『アンジェラ。それはもう言いっこなしだと言ったじゃないか。それにこうして俺と一緒に来ることを選んでくれた』

『リカルド……』

『でも、アンジェラ。本当にいいのかい? 俺は天涯孤独の身だから何も気にする必要なんてないけど、君にはご両親がいるだろう?』

『それは言わないで。わたしね、もうあなたと一緒にいくって決めたのよ?』

『アンジェラ、すまない。もう言わないよ』


 トーマスは目を疑った。

 幻灯の中に広がる光景は、間違いなくアンジェラが男とともに駆け落ちをしようとしているところだった。


「だが、どうして。それならなぜアンジェラは――」

「トーマスさん、落ち着いてください」


 光景は移り変わる。

 狭い室内のようだが、雑音の種類からするに汽車の中なのだろう。

 一等客室のようにも見える。


『リカルドったら、まさかこんなに良い席を取っているだなんて』

『二人の新たな門出なんだ。奮発しないわけにもいかないだろう?』

『それにしたってずいぶんとお金がかかったでしょう?』

『あはは、心配には及ばないさ。新しい仕事を始めたらすぐに稼げるからね』

『新しい仕事?』


 リカルドという男はげんなりした顔を浮かべていた。


『もうあんな仕事はこりごりだよ。どれだけ働いたってちっとも給料は上がらない。酒瓶一本買うのに三日も働かなきゃいけないんだ』

『リカルド、あなたお酒はやめたって――』

『やめたも何も買う金がないだけさ。いいから聞いてくれ。実は先月、昔の連れが訪ねて来たんだ。ブルード市は知ってるかい?』

『え、ええ、知ってはいるけど、ブルード市と言えば治安が悪いところで有名じゃないかしら』

『まあ、治安が悪いのはその通り。けれど、俺たちみたいなはみ出しものには理想郷みたいなものさ』

『……リカルド?』

『驚くぞ。なんせ港湾警察と結託して密輸品を売りさばこうってんだから。サツとグルなら捕まる心配もない。元手はかかるけど、なあに、大したことはないさ。あっちにいる連れなんて、すでに俺の毎月の給料の五倍はもらってるって話なんだ。これに乗らない手はない。なあ、アンジェラもそう思うだろ?』


 アンジェラは何も答えなかったが、代わりに失望の感情、虚無感、罪悪感が伝わってきたことだけは確かだ。

 トーマスは沈黙したまま幻灯を見つめていた。

 いつの間にか、幻灯の中の時間は過ぎていた。


『ねえ、リカルド。わたしお手洗いに行ってくるわね』

『ああ、行っておいで』

『ごめんなさいね』

『気にすることはないさ。君が戻ったら俺も行こうかな』


 アンジェラは客席を出て、そのまま汽車の最後尾まで歩いて行った。

 数分もすると、汽車は途中の駅に止まった。


 彼女は、汽車を降りた。

 残した荷物も気にせず、反対のホームに停車した汽車に飛び乗った。

 光景が歪む。聞こえてくるのは汽笛と嗚咽だった。

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