困った時の破滅スイッチ
@ossr
第1話
激しく雨の降る夜が嫌いだった。雷なんてもってのほかだった。夜は静かであるべきだった。ただ変わらない平坦な日々を送れればそれで十分だった。
#1 困った時の破滅スイッチ
「幸せになりたいな」
食器が立てる音や申し訳程度にかかるラジオに呑まれそうな音で彼女は呟いた。
彼としては聞き返してもよかったが、目の前の皿に注がれた泣きそうな視線や前よりも少し落ちた肩の位置から話しかけてほしい訳ではないのだろうと察した。また面倒なこと考えてるなコイツ。
「また面倒なこと考えてるのか」
いちいち思いやるのが面倒だったので問いかけた。親兄弟や体の関係があるならともかく、もう二度と会わないかもしれない人間を慮るほど彼に優しさの蓄えはなかった。
今の関係がそろそろ三年目になるという事実には蓋をした。
「え、口に出てた?」
少し驚いたような顔で彼女は問い返した。
「アホみたいな顔でな」
実力も才能もあるのになんでコイツたまにとんでもなく馬鹿なんだろうと割と失礼なことを考えながら彼は自分の分の食事を終えた。タバコが吸いたくなる。
「もっと気楽に、というか何も考えず反射だけで生きていければ幸せなんだろうなーって」
「止まったら死ぬみたいな生き方してるくせに何言ってんだこの陸型回遊魚が」
食器を下げながらコーヒーメーカーをセットする。換気扇の下でかつ相手から2m離れていればタバコを吸ってもオッケーというのは自分なりのルールだった。
「あなたは反対派かと思ってた」
「あ? なんの話?」
「【困った時の破滅スイッチ反対派】。家電でもなんでも、得体の知れないスイッチが付いたものなんか絶対買わないぞー、って主義の人たち」
いつからだったかは覚えていないが、子供の頃にはすでに身の回りには【困った時の破滅スイッチ】が当たり前にあった。
普通に買う場合、スイッチのある無しで値段が40%も違うのなら安い方に流れるだろう。あいにく物持ちがいいせいか骨董品並の生活家電にスイッチはついてなかったが。
「別にどっちでもいいよ。必要がないからつけてないだけで」
「……ラジオ」
「は?」
「ラジオにスイッチをつけた」
「あー……」
骨董品並の家電の中でも祖父の代から現役のラジオは本物の骨董品で、ネットオークションにでも出せばそこそこの値がつくだろう。
何度直してもノイズ混じりにしか音を流さない筐体が彼女は大層お気に入りらしく、2m離れたところから流れる電波と合成コーヒーがあれば何時間でも過ごせると豪語していた。
それ故に彼がラジオに困った時の破滅スイッチをつけたことが彼女はいたく気に入らなかったのだろう。無骨な筐体も、ノイズ混じりの音調もスイッチひとつで変わるものではなかったが彼女にとっては別物で、しかし所有権は彼のものであるため直接は言いづらく、かと言って自分の感情にも折り合いがつけられずあんなひとり言がはみ出したという所だろうか。面倒くさい。
「賛成でも反対でもないけど」
半分まで吸ったタバコの火を消してふたり分のコーヒーをリビングに運びながら彼は呟いた。
「誰かにとられたくなかったから」
吐き出した言葉の代わりに飲み込んだコーヒーが存外苦く感じた。
スイッチの普及率が99%を超えてしばらく、最近ではスイッチのついていない家電は当局に回収される、なんて噂が流れている。
どうでもいいものならばむしろ喜んで手放しただろうが(処理費用も馬鹿にならないので)、彼だけの問題で済まないものに関しては先手を打った。ただ変わらない平坦な日々を送れればそれで十分だが、日常を守るためなら主義主張なんていくらでも捨てられた。スイッチ単体を付けるだけで天然コーヒー何杯分かの交換費用がかかったのは痛手ではあったが。
言外に込めた感情に気づいたのか、彼女もそれ以上は言及してこなかった。妙なところで頭がいいのが逆に厄介だった。
「あれ、これまさか天然のコーヒー?」
「合成の切らしててな。賞味期限切れる前に使っとこうと思って。どーよお味の方は?」
頭のいい彼女のことだ、ここまでの道筋が見えた上で最初のひと言をこぼした可能性だってあるだろう。
「砂糖とミルク3つずつちょうだい」
「白湯でも飲んどけ」
まったくとんだ道化だ、と天井を仰いだ。
ラジオは次の番組に変わっていた。
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