3月5週の木曜日には春の下準備を
「はい、じゃあこれ会員カードね。入る時に見せて貰うから忘れないようにね」
「わかりました」
「あと、ここに私がいない場合は勝手に入ってもいいからね」
「え、はい」
駐輪場のおばさんは、ニコニコと笑っている。僕はちょっと拍子抜けした。それってセキュリティ的にどうなの? でも、この辺りじゃそれで全然問題ないのかもしれない。そう思ったけれども口には出さない。
「駅まで行ってみるのかい」
「あ、はい。実際に学校まで行ってみます」
「そうかいそうかい。最近はそういう子が多いよ。行ってらっしゃい」
「ありがとうございます。行ってきます」
通学用に新しく買った自転車を預け、駅へと向かう。一応スマホを取り出して道を確認したものの、実はすっかり頭の中に入っている。昨日からもう何回も確認しているのだ。
「あ、そうだ。時間」
僕は慌てて時刻を確認してメモした。買って日の浅いスマホで文字を入力するのには、まだ慣れていなくて割と手こずる。録音したいところだが、誰かに見られていると恥ずかしい。僕は必死に指先を動かした。
計算してみると、家から駐輪場までは15分。思ったよりも時間がかからなかった。兄が言うには、朝は少し道が混むらしいけど、20分見ておけば安全だろう。次は駐輪場から駅まで何分かかるのかを計るのだ。
しばらく駅前の商店街と思しき道路を歩き、ついでに本屋に寄って単行本を1冊買う。店を出て角を曲がると、目の前に小さなターミナルと駅舎が見えた。ここが4月から毎日乗り降りすることになる駅だ。街へと買い物に来る時に見かけた事はあるけれど、中に入ったことは数えるほどしかない。
立ち止まって眺めていたが、はっと自分の姿に気づき、駅などなんでもないという
定期を試したかったが、まだ期限前なので切符を買った。改札を抜け、
始めて入ったホームはガラガラだった。春休み期間であり、朝のラッシュ時も過ぎているためか、それとも、この田舎の駅はこんなものなのか、僕以外には2、3人しかいなかった。
その人数のせいだろうか、それとも、薄もやのかかった空や、暖かいとはいいきれない中途半端な日差しのせいだろうか、目の前の光景には、なんだかあまり現実感が無い。本当にここに電車がくるのだろうか。ひょっとして、何か間違っているから人が少ないのではと不安になったが、あまりきょろきょろと様子を見るのは、みっともない。僕は、なんでもないように上り線の方へと向かい、スマホを取り出した。
と、その時、どたどたと足音を立て、一人の少年が息を切らせて階段を下りて来た。ホームに着くや否や肩で息をしたまま上り線の方を食い入るように見つめている。あっけにとられてその様子を眺めていると、くるりとこちらに向き直り、僕と目が合った。
「来た?」
「え?」
「上り列車、もう来た?」
「いや、まだだけど」
僕が答えると、彼は大きく息をついた。
「よかったー、間に合ってたー。ありがとな」
「あ、うん」
見たところ、同い年くらいだろうか。ひょっとしたら彼も、僕と同じように通学路の下見に来たのかもしれない。尋ねてみようかと思ったが、なんだか気恥ずかしくてスマホに目を向けた。すると、彼の方から声をかけてきた。
「なあ、ひょっとしたら君も通学の下見?」
「え、うん。君も?」
「やっぱそうか! そうなんだよ。1回試しとかねーとって思ってさ」
彼は、いかにも人懐っこい満面の笑顔で嬉しそうに笑う。凄いな。こういう奴はすぐに友達出来るんだろうなと、なかば感心しつつ、距離感を測りあぐねていると、彼の方からグイグイと距離を詰めてきた。
「4月っからどこ校?」
「え? F校」
「まじで! 頭いいな。俺はM校の商業」
「そうなんだ。今年から共学になったんだっけ」
「それな。元々女子高なんだよ。今年の定員も女だらけで男子の数は少ないらしいんだわ。ヤバくない? 緊張するわー。けど、出会いもありそうで楽しみなんだわ」
そう言って彼は、にっと歯を出して笑った。本当に嬉しそうな笑顔だ。ああ、たぶんこいつモテるな。つられて笑顔を作ったとき、2両編成の電車がホームへと入ってきた。僕は彼に軽く会釈をすると、両開きのドアへと歩を進める。
車内はそれほど混んでいなかった。空いている4人掛けのボックス席を見つけて窓際の席へ腰掛け、先ほど買った単行本を取り出した。すると、当たり前のように向かいの席に先ほどの彼が腰掛け、なんの躊躇もなしに話を続行してきた。
「F校だと
「あ、うん。ここからだと15分くらいらしい」
「毎朝15分かあ。往復だと30分だな。話し相手でもいればいいけど、結構退屈かもな。本とかスマホとか持ちこんだほうが良さげだな。おっ、用意いいじゃん」
「うん。でも、時間帯によっては座れないことの方が多いらしいよ」
「マジか。そっかあ、混むのか。じゃあ本よりスマホだな」
そう言って彼はスマホを取り出す。
「実は買い立てなんだよ。持ってる? LINEとか交換しない? 本当のところ言うと、練習したいんだわ」
「あー、あるけどLINEまだ入れてない。こっちも買ったばっかで」
僕はスマホを取り出して彼に見せる。入学祝で買ってもらったばかりのスマホには、まだロクにアプリは入っていない。
「そっか。残念。でもスマホって自分で使うだけかと思ってたら、話すきっかけにもなっていいな。俺、人見知りする性格でさー」
とてもそうは思えない。ひょっとして冗談だろうか。僕は返答に困っていたが、彼はまったく意に介していないようだ。
「高校行ったらこれで女子とお近づきになって仲良くなろうと思ってんだ。なんかお勧めアプリとか知ってる……ってあんまこういう話題乗り気でない?」
「いや、別にそういうわけでもないけど」
どちらかと言うと、戸惑っているのは話題の内容でなく、彼そのものだ。
「やっぱF校行くような奴は勉強が一番って感じ? そうかもなあ。でもさ、せっかく高校生になるんだから彼女ってものを作ってみたいじゃん。そっちも頑張っていこうぜ!」
「いや、いるけど」
「は?」
「彼女」
僕がポツリと呟くと、彼は手で顔をぺちん、と音を立てて覆い、嬉しそうに天を仰いだ。
「マジか。いいなあ。もう付き合ってんのかよ。なんだよやる事やってんじゃねーか。同級生? どこ校?」
「同い年で、学校はそっち。普通科だけど」
彼の方を指さすと、彼も不思議そうな顔で自身の顔を指さした。そして、すぐにまたあの人懐っこい笑顔になった。
「M校かよ! 俺と一緒ってことか。それじゃあ離れ離れって事じゃん。大変かもなあ。あ、でも路線は同じだから一緒に通学できんじゃないの。今日も一緒に来ればよかったのに、なんでいないんだ? 予定会わなかったとか?」
「いや、それは明日また」
「は? 明日?」
彼は一瞬キョトンとしたが、すぐに大笑いした。
「明日また2人で乗るのか。じゃあ今日は下見の下見ってわけか。すげー慎重じゃん。やっぱF校行くやつはそれくらいやんだな。いやー、尽くすねえ」
僕は少しムッとして、思わずポロっと言ってしまった。
「いや、別にそういうんじゃ。付き合ってるかどうかも曖昧だし」
「ん? どういうこと」
しまった、と思ったがもう遅い。彼は心底不思議そうにこちらを覗きこんでいる。僕がその理由を話すのが当然で、その事に何の疑いも持っていないような顔だった。なぜ、初対面の名前も知らない奴にそんなことを話さなくちゃならないのか。僕は呆れつつも、なぜか彼になら言ってもいいだろうという気になっていた。なんだか不思議な奴だ。
「卒業式の時に告られてさ。まだ手探りっていうか」
「あー。そういうパターンもあるのか。でもいいじゃん。好きなんだろ?」
僕は曖昧に頷く。彼女は3年間同じクラスで、仲も良かった。皆が言うような、たまらなく好き、という気持ちとは違う気がするが、僕にとって彼女は、もし、付き合うとしたら、彼女以外は考えられないだろうなあ、という存在だった。僕は、その事を正直に彼に話した。
「そうなのか。じゃあ俺が学校で見張ってようか?」
彼は冗談っぽく話したが、僕は首を振った。
「いいよそういうのは。このまま自然消滅するかもだし。春休み中も何回か会ったけど、どうしていいのかあんまわかんなくてさ。楽しいには楽しいけど、手探りで凄いフワフワした感じっていうか。『好き』ってのは何だろうとかさ」
「なんか贅沢な悩みじゃねーのかそれ。でも、そういう事もあんのかもな」
腕を組んで彼は頷く。なんだろう。本当に不思議な奴だ。深刻に聞いているという様子ではないけど、少なくとも真剣には聞いてくれているのだろう。嫌味が無いというか、本当な感じというか、何かこう、すっきりとした奴だ。そのすっきりさに釣られたのか、言わなくてもいい事まで口に出してしまった。
「ていうか、付き合うとか以前に、僕自身がどうなるのかわからないというか、何をすればいいんだろうとか。何のために学校行って勉強してんだろうとか、しまいには何のために生きてるんだろうとか、そんな事考えたりしちゃってさ」
自分の言葉に驚いて、ハッとして彼を見る。だが、彼は特に驚いた様子も、構えたり引いている様子も見せていない。先ほどと変わらず、愛嬌のあるしかめっ面でこちらをまっすぐに見て頷いてる。
「それな。みんな考えてんだろうな、そういうの。周りの
僕は彼の言葉にとても驚いた。皆そういう事を考えている。そんな事、思いもしなかった。こんなことを真剣に考えているのは自分だけで、周りは全然気にしていないと思っていたのだ。皆も考えているけど口に出さないのではなく、皆は考えてないから口に出ないと思ったいたのだ。言ってみれば、僕だけが変な奴なのだと。だが、そうではなかったのかもしれない。
妙な気付きを胸にして、まじまじと見つめていると、彼も流石に気が付いた。
「なんだよ、そんな驚いたみたいな顔して。どうかしたか? てか、そろそろ竪岡駅なんじゃないか。ほら、次」
彼は窓の外を流れる景色を顎でしゃくって見せる。はっと我に返ってみてみると、確かにそのようだ。ドアの上の路線図のランプも竪岡駅を示している。
「そうみたいだ。ありがとう。乗り過ごすところだったよ」
「ハハハ。確認に来て乗り過ごすのは流石にまずいもんな。今日はありがとな。話に付き合ってくれて」
「いや、こっちこそ。楽しかったよ」
「だな。路線一緒だからまた会うこともあるだろ。そんときゃまた声かけてくれ」
そう言って彼は笑顔で右手を差し出してきた。大袈裟な奴だ。だが、僕も戸惑うことなく右手を差し出してがっちりと握手した。
「またな、F校の、ええと……そういや名前聞いてないな」
「ああ、僕は……」
「あー、いいいい」
「え」
名乗ろうとした僕を、彼は両手をぶんぶん振って止めた。そして、今度は悪戯っぽく、にっと笑う。
「こういうくらいが丁度いいんじゃねーの。名前知らんけど、たまに電車で話す程度の知り合い、みたいなのが」
「そうかな」
「ああ。そのくらいの方がさ、さっきみたいにちょっとクサい話もしやすいだろ。俺と君は、そういう友達でいようぜ」
「何だそれ」
口ではそう言ったが、僕は笑って頷いた。変な奴だ。電車は竪岡駅に到着し、僕は、席を立って軽く彼に手を上げホームへと降りる。窓の外から車内を見ると、彼が軽く手を上げている。その口は「またな」と動いているようだった。
僕も「またな」と口を動かす。ドアが閉まり、電車が動き出すと軽く手を上げて階段へと向かった。電車に乗る時間は15分間のはずだったが、全然そんな長くは感じなかった。変な奴というのもまた、時間の流れを歪めるのかもしれない。
そんなことを考えていると、右手に持ちっぱなしだった単行本に気が付いた。結局、あいつにかかりっきりで、1ページも読めなかった。
「はんぶんこの、おぼろくん」という本。本屋で新刊コーナーにあった単行本。表紙に描かれている、学生服の男女の絵がなんとなく気になって、そのまま買ってきたものだ。おぼろくん、というのはたぶんこの表紙の子なんだろうな。さっきまで話してた彼の名前は知らないのに、この本に書かれている子の名前は知っている。変な話だ。
「おぼろくん、か」
名前を知らない彼も、
「あ、そうだ。時間」
僕はスマホで時刻を確認してメモする。これから学校まで歩き、時間を計るのだ。どれくらいかかるだろうか。道を確認しておこう。
電車に乗る前までのような、不安な気持ちは消え失せていた。その代わりに、なにか浮き浮きするような、妙なざわめいた気持ちがこころの中に満ちている。なんだろうな、これ。考えてみたけれども、よくわからなかった。だけど、悪い気持ではない。
きっとそのうち、なるようになるし、わかるようになるさ。毎朝15分ずつ本を読み進めるように、少しずつ。そんな楽天的な考えが、すっと胸に広がった。僕はそんな自分がちょっと可笑しかった。
「よし。行くか」
そう声に出し、僕は一歩目を踏み出した。
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