朝一番の教室へ
澄んだ空気、誰もいない道、聞こえるのは川のせせらぎに鳥の声。春を越えた木々たちは煮詰めたような濃緑の葉を広げ、その先からゆらゆらとした何かを放出している。もうすぐ夏だ。傍らの田にも既に水が張られ、朝日をきらきらと反射して輝いている。
早朝の通学路は全てが新しい。草木や建物や道は人々が寝てる間に一度、全てぽろぽろと崩れ落ち、日が昇る頃にむくむくと再生して一日ごとに産まれ変わっている。そう思わせる勢いすら感じる生命感に溢れ、艶やかに輝いている。
たまに会うのは散歩や新聞配達をしている大人、それに猫や犬達だけだ。
窓際まで歩み寄り校庭を見下ろす。そこには、教室に立ち寄らずに朝練に直行した皆の姿がある。トラックにはストレッチをしている陸上部の面々。テニスコートでは同級生たちが時間を惜しむかのように試合を行っている。
国英は、しかし、朝練を行うために早く登校しているわけではない。ただ単に、決まった時間に規則正しく家を出るのが好きなだけだ。誰もいない教室で、ひとり自分の席に腰かけ背筋を伸ばす。目の前に広がるのは静寂に包まれた国英だけの秘密の空間。もっと深く味わおうと両の目を閉じて耳を澄ませると、こつ、こつ、と誰かが廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。
足音は教室を通り過ぎる事なく止まり、からりと後方のドアが開く。国英は振り返る事も目を開ける事もせずに、じっと音だけを聞く。音だけのクラスメイトは、こつ、こつ、とリズムを乱すことなく教室の右前方あたりへと歩いていくと、椅子を引いて腰を落ち着けたようだった。
そのまま国英が目を閉じていると、また、こつ、こつ、と足音が響く。一歩一歩近づいてきた足音が止まると、ひとつ前の席の椅子が引かれる気配がする。誰かが座って起きた空気の揺れと共に、顔の近くにほんのりとした熱を感じた。
「また負けた」
その言葉とはうらはらの楽しそうな声は、国英の目の前から聞こえた。ゆっくりと目を開けると、そこには両手で頬杖を突いた
「やっぱり綿貫か。こういう事に勝ち負けというのはあるのか? 僕にはどうでもいい事だけど」
国英が姿勢を崩さずに応じると、充穂は横座りに座り直して答える。
「すくなくとも、私には」
「そうか。じゃあ両方勝ちという事でいいじゃないか。今、この教室の全ては、僕と綿貫の物なのだから」
充穂は、ふうん、とつぶやいてくるりと指で輪を描いた。
「それは素敵ね渡部君。でも、やはり勝ち負けはあるものだわ。誰かが先にいて、誰かが後に入って来る。そこには明確な順番があるのだもの。順番があるものを無いことにするのは、それは嘘よ」
「確かに順番はある。だが、それを争うのは……まあいい。君がそうしたいのならばそれでいい。僕は静かな教室が味わえれば、あとはどうでもいいんだ」
「そう。でも、そんな考えの人に負け続けるのは癪ね。勝とうとしている人に対する敬意に欠けているんじゃないかしら」
充穂は楽し気に国英を睨む。しかし、何かを答える義務があるわけでもない。国英は再び目を閉じて朝の教室を味わい始めた。充穂が近くにいるせいか、先ほどとは何かが違う。案外、2-Aは華やかな人間が苦手な性質で、充穂がいるだけで妙に意識をしてしまう教室なのかもしれない。そんな事を考えていた国英の口元は思わず綻んでいた。
「何? 随分楽しそうね」
充穂はそれを目ざとく見つけたようで、国英の下の唇を指で軽くなぞってくる。不意に体に触れられた国英が思わず顔を背けて目を開けると、充穂はくすくすと笑っている。
「僕にかまうな綿貫。早起きに負けた腹いせのつもりか? だいたい、綿貫はいつもきっちりと6時45分に来ているが、僕はそれより少し前の時間に教室に来ている。その差は僅かだ。そんなに勝ちたければ、毎朝あと5分早く家を出てくる事だな」
国英が口元を軽く押さえながら言うと、充穂はひとつ頷いてため息をついた。
「勝つのにも、勝ち方ってのがあるんだけどね」
「勝ち方?」
「そう、私は勝ちたい。でもね、そのために私がいつもの行動を変えるというのは、ないの。私がいつもの事をしているのに、勝ってしまう。そういう勝ち方が私の望みなの。わかる?」
国英は充穂をしばらく見つめると、口元にあった手を顎へと移し、まるで何かを確認するかのように、ぽつぽつと話し出した。
「綿貫はいつもと同じ6時45分に来る」
「うん」
「しかし、そこには僕はいない」
「そう」
「ということは、僕がいつもより5分以上遅く来るしか方法はない」
「そうなるよね」
「つまり」
「つまり?」
国英は顎から手を放し、すっと充穂の瞳を見つめる。その色素の薄い亜麻色の瞳には、朝日を受けたかのような輝きがあった。
「綿貫は、僕にいつもの習慣を変えさせたい」
「ただ変えるだけじゃ駄目。私の為に変えるの」
「それが、『勝ち』なのか?」
「そう、それが私の欲しい『勝ち』」
充穂は無垢な赤子のように、にっこりと微笑む。その笑顔につられて、国英の口からも、ふふ……と呟きが漏れる。
「そうか。じゃあ綿貫の方が行動を変えたら?」
「そしたら渡部君の勝ち。なんでもいう事ひとつ聞いてあげるよ」
「急に勝利報酬が出てきたな」
「フェアじゃない? じゃあ、私が勝ったらなんでもいう事ひとつ聞いてもらうから。それでおあいこでしょ?」
「話に飛躍があるな」
「いいじゃない。新しいことを始める時って、そういうものでしょ」
「それじゃあ、なんでもありになるだろ。まったく綿貫はこれだから」
そう言いながらも国英は笑った。国英は、充穂のこういう所が好きだ。だが、それは国英の習慣や「勝負」とは別の話だ。
国英は考える。もし充穂に勝ったら、自分は何を望むだろうか。そして充穂は何を。その事を確かめるだけに負けてみようかとも思ったが、それは充穂にとって、そして、国英にとっても失礼な事なのだろう。
唐突に条件の変わった勝負は、果たして決する日が来るのだろうか。来るとしたらどのように。その結果を知るのは国英と充穂、そして2-Aの教室だけだった。
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