第1話 無言の転生者

 柔らかに頬を撫でる風を感じ、鳥達が穏やかに囁く声を聞く。意識を取り戻した男の目に映るのは果てない青の空と悠々と流れる雲。男は草の絨毯に仰向けに寝そべり、いつぶりかの安寧に身を任せていた。風に乗って運ばれる緑の匂いが一層心地よくさせる。

 できることならばそのままもうひと眠り--といきたいところだったが、男は心を決めてふらりと立ち上がった。

(ここはいったいどこだ? )

 あの少女の言葉通りであればここは第四の世界--所謂異世界ということになる。

 辺りには木々が茂り、どうやらここは森の開けた場所のようだった。一見なんの変哲もないためほんとにここが異世界である実感がなかった。

 自分の身なりを確認すると黒革のブーツに黒革のズボン。上は簡素な白い布のシャツと黒い薄手の装束を纏っていた。

(これはなかなか……)

 現世では着たことのないような個性的な格好のため若干の恥ずかしいさがある。また、持ち物は特になく少し心寂しい。

 服装ことはさておいて、身体にも異変があった。軽いのだ。10代の頃のような、全身に力が漲る感覚。間違いなく若返っていた。これもあの少女の配慮なのだろうか。

 そして何より、男が感じた一番の違和感は男自身の心の中にあった。

(なんだろう……このなんとも言えない安らいだ気持ちは)

 現世での男には感情というものが著しく欠落していた。まるで心にぽっかりと穴が開いたかのように、ここ何年かは安らぎを感じることなどなかった。しかし、今はそれを確かに感じることができる。それがひどく懐かしかった。

『一欠片の安らぎを与えよう』

 ふと、少女の言葉を思い出す。

(これが少女からの餞別なのか? )

 それは男にとって複雑なものだった。なぜなら失う辛さを知っていたからだ。

 また、一つの疑問が頭をよぎる。

『感情を取り戻す旅にでるのじゃ』

 記憶に異常がなければ、少女は転生の目的をそう話してた。しかし、彼女は自分に感情を与えた。もし旅の目的が自分自身の感情を取り戻すことなのであれば、これは大きな矛盾に違いなかった。

(感情を取り戻すのは俺ではないのか? それじゃあ、いったいだれの?)

 いくら思考を巡らせたところで答えは出なかった。情報があまりにも少な過ぎるのだ。

(とにかく、人を探そう。この世界のことを知らなくては何も始まらない。ここにいては何も解決しないな)

 男は考えることを止め、道を進む決意をする。とは言え、ここは森の中。前に進むか後ろに進むか、いきなり運命の別れ道に立たされていた。

(さて、どうしたものか)

 男がしばし悩んでいると、ふと背後の茂みから葉を揺らす音が聞こえる。

(まさか! 人か!)

 なんたる僥倖。そう期待して振り向くと、茂みは相変わらず揺れているがなかなかその主は姿を現そうとしない。

(待て待て。冷静になれ。人だとは限らないだろうが。こんな森の中にいるのは人よりむしろ動物だろ。いや、ここが本当に異世界ならばもっとヤバい何かの可能性だってあるじゃないか)

 男はその想像に冷や汗を流しながら、固唾を呑んで茂みを注視する。鬼が出るか蛇が出るか。腰を低く落とし、自ずと臨戦態勢をとっていた。

 そして、ついにそれは姿を現す。

 悪い予感が的中した。

 のそりと茂みから出てきたのは、熊--否、熊のような何かだった。

 茶色の毛で覆われた巨大な体躯は男の想像する熊そのものなのだが、大きな相違点がそれにはあった。額部分から突き出た螺旋状の鋭い一角を有していたのだ。

 少なくても男の知る限りそんな熊は存在しない。つまりそれは男にここが異世界であることを絶望とともに知らせたのだった。

(考えろ、俺!)

 熊のような化け物との距離はおおよそ10m。見るからに巨大な体長は軽く男の3倍。逃げ切れる相手なのか、はたまた戦える相手なのか。生死を分ける判断を迫られる。

(こんなの逃げるしかないだろ! 戦うなんて自ら死にいくようなものだ! 動け! 俺の足!)

 逃げ切れるかわからないが逃げるしかない。戦う術を持たない男にはそれしか選択肢がなかった。しかし、目の前に存在する絶望に身体の震えは止まらず、足はなかなか動いてはくれない。

 化け物の血のように赤く染まった瞳が男を捉える。そして、重低音の咆哮を響かせると、態勢を低くし、凄まじい速さでこちらへと向かってきた。

(ヤバい! 死ぬ--)

 衝撃音が辺りに響き、鳥達が騒がしく飛び立つ。

 男はギリギリのところで横に転げるように身を投げ出し、化け物の突進をなんとか躱した。しかし、状況は全く好転していない。

 化け物は男の背後にあった少し先の大木に突っ込み、その大木は大きな音を立てて倒れた。それほどまでに凄まじい突進を受けたらひとたまりもない。即死間違いなしだ。

 また、逃げようにもあの速度で追われれば逃げ切ることは到底不可能のように思えた。

 それならば選択はひとつ。死を覚悟して立ち向かうしかない。ないのだが……

(生きたい。死にたくない)

 凍えるような寒気が男を襲う。心臓は張り裂けそうな程に脈打つ。

 生きることに絶望し、死ぬことに恐怖などなかった。しかし、この気持ちは何だ。

 新しい生を得たからだろうか。現世ではないどこかにきたからだろうか。思い出した感情のせいだろうか。

 確かな理由はわからない。わからないが死にたくないと思う気持ちは確かだった。

 そして、皮肉にもその気持ちが判断を鈍らせる。

 熊の化物はゆっくりと男の方に向き直ると再び突進する体勢に入った。

(来る! 怖い。 誰か。誰か! 助けてくれ! 救ってくれ!)

 必死の祈り。

 迫る化け物の巨体。

 男とは一瞬の距離。

 男は尻もちをついたままただ震えるだけで動くことはできない。

 もう、お終いだ。

 そう思い諦めて目を閉じようとしたその時、空気がぶつかるような衝撃音とともに見えない力で化け物が薙ぎ倒された。

 化け物は苦しそうに呻き声をあげている。

「オルカ! どうですか?」

 何が起こったのか全く理解できていない男の耳に凛とした女の声が聞こえる。辺りを見回すと前方右手少し先に金髪の女性が見えた。

「待って。今確認する。お前、生きてるか? 答えて」

 そして、目の前にはいつの間にか白髪ショートカットの少女がいた。紫水晶のような瞳が男を覗き込む。

 少女の言葉でハッと我に帰り、男は自分が助けられたことを悟ると、少女の質問に答えようと口を開いた。

(あ、ありがとう)

 しかし、それは言葉になることはなく消えていく。

『一つ.深い霧の如くぬしを隠す言葉は失われる』

 永遠の闇での約束を思い出す。言葉は失われているのだ。ならば当然、

『一つ.靭やかな絹の如くぬしを護る表情は失われる』

 表情も失われているのだろう。

「ダメ……。表情障害、言語障害ともに確認。生きてはいるが【失い人】で間違いない」

 オルカと呼ばれた白髪の少女は抑揚のない声で金髪の女性へと報告する。

(【失い人】ってなんだ? 俺みたいな人間が他にもいるのか?)

 男の疑問をよそに状況は転じていく。

「そう……」

 白髪の少女から報告を受けた彼女の表情は一瞬曇ったように見えたが、直ぐに凛々しいものへと変わる。

「でも、だからって見捨てるわけにはいかない」

「リノは相変わらずお人好し」

 薙ぎ倒されていた熊の化物がのそりと起き上がる。

 リノと呼ばれた金髪の女性は右手に持つ翠の宝石が頭に埋め込まれた杖を化け物に向ける。

 白髪の少女オルカはどこから取り出したのかはわからないが、右手に身の丈の倍以上ある紅の大剣を携えていた。

「すぐに楽にしてあげるから。少しだけ大人しくして」

 リノの杖が光りを纏うと同時に化け物が突然呻き声を上げてよろめく。それを確認したオルカは地面を強く蹴り上げ跳躍すると、両手に持った紅の大剣を化け物めがけて振り下ろす。

 一撃必殺、まさに刹那の出来事。

 化け物の巨大な体は縦に両断され、激しく血飛沫を撒き散らしながら果てる。

「片付いた」

 オルカはまるで些末な仕事をこなした後(オルカにとっては本当に些末な仕事たったのかもしれないが)のように息ひとつ切らすことなくポツリと呟く。先ほどまで確かに両の手に納まっていた紅の大剣はどこにも見当たらない。

(マジかよ)

 男は目の前で繰り広げられた光景に我が目を疑う。

(あのリノって娘の光は何だったんだ? 魔法? あの紅の大剣は? あんなの華奢な少女が振り回せるわけないだろ。大剣はどこにいったんだよ。というか、あの化け物があっさり殺られすぎだろ)

 現世では考えられないような出来事の連続に思考が追いつかない。ここが今までいた日常でないことだけは確かだった。

 混乱する男に金髪の女性--リノが歩み寄る。

「大丈夫ですか? お怪我ないですか? ああ! 大変! 膝を擦り剥いてます。すぐに治しますから」

 腰を落として男の前で屈むと、男の怪我を心底心配する。そして、

「安心して下さいね」

 そう言ってリノは天使のような笑顔を男に向けた。

(--っ!)

 そのあまりにも可愛らしい笑顔に男の心臓は高鳴る。澄み切った紺碧の瞳も、風に靡く絹のような金色の髪も、鼻腔をつく甘い香りも、そのすべてが心を奪った。

 男の膝に手を当てて治療を始めるリノ。何をしているのかはわからないが、暖かな感覚が怪我を癒していくのを感じる。

「リノ……私、もよおした。ちょっと、してくる」

 突然、リノの後ろでもぞもぞしていたオルカが衝撃の発言をした。

(ええっ! この子、突然何言い出すんだ!)

「もー! リノ! 女の子はそんなことは言わないの! ……ちゃんと隠れてして来るのですよ」

「……わかった。隠れる」

(いや、隠れてもちょっとあれだろ)

 そんな男のつっこみは届くはずもなく、オルカは急ぎ足で茂みに消えて行く。

「本当困った子なんだから」

 リノは少し呆れながらも愛情を感じる声色で言う。

「よし! 治りました! これでもう痛くないはずです」

 そして、どうやら治療も終わったようだった。男は擦りむいたはずの膝を見ると、見事に傷が塞がっていた。

(すげぇ! ありがとう! 助けてもらったお礼もまだだったよな。本当にありがとう!)

 伝えたい気持ちがあった。感謝の言葉があった。しかし、

「【失い人】のあなたにはもしかしたら余計なお世話だったかもしれないですね……だとしたらごめんなさい。私、よくおせっかいって言われてしまうんです」

 男の言葉は届かない。男の気持ちは声にはならない。ならばせめて笑顔で……。

(そうか、俺には自分の気持ちを伝える術がないのか)

 現世ではあれだけ煩わしかった言葉が、表情が、欲しい。自分を救ってくれた女性にそんな哀しい顔をさせたくなかった。

 どうにもならない沈黙がしばし流れる。

 ふと、下を向いていた男が目線を上げるとリノの肩越しにありえないものが見えた。

 それは、先ほど無惨に両断されたはずの熊の化物だった。

 いや、そうではない。先ほどのそれは確かに肉塊となって横たわっている。化け物は二体いたのだ。

 男の目線を追って振り返ったリノもその存在に気付きすぐさま杖を構える。

(クソッ! 状況はかなり悪い)

 あろうことか“もよおして”茂みに消えたオルカはまだ戻ってきていない。彼女の無慈悲な暴力があってこそあの化け物を屠れたに違いない。リノは見る限り明らかなサポートタイプだ。そして男はなんの戦力にもならない。

(でも、死なせたくない。この女性だけは何としてでも守りたい)

 男は立ち上がり、本能のままにリノの前に歩を進めると、拳を前に構える。

(こんな優しい気持ちになれたのはいつぶりだろうか。もしかしたら初めてかもしれない)

「えっ? あなた! 【失い人】のはずでしょ! 何で……」

 だからこそ強く思う。

(あなたに死んでほしくないからですよ)

 こんなキザな台詞でも、言葉にならないとわかっていれば言える。そう思ったらそれも悪くない。

 化け物は重心を低く落とし突進の体勢に入る。

「死にたいのですか! そこをどいて下さい!」

 男はリノの言葉に聞く耳をもたない。

 もちろん、死にたくなどなかった。リノを守り、自分も生きて、そしてちゃんと「ありがとう」と伝えたい。いや、言葉で伝えることはきっとずっとできないのだろう。ならばせめて--

(ならばせめて、力をくれよ! 守ることで伝えさせてくれ!)

 化け物が動き出す。退路はない。

『心優しいわしから餞別として【一振りの剣】と【一欠片の安らぎ】を与えよう』

 男は命のきわで神の少女の言葉を思い出す。

 彼女は確かに言った『一振りの剣』を与えると。

(そうだ。剣だ! どこにある? 背中? 腰? いや、そんなものはなかった。じゃあどこに! いや、待てよ……あの白髪の少女は身の丈の倍もある大剣をどこから出した?)

 男にはこの世界の理はわからない。ましてや確証などない。しかし、今はその考えに賭けるしかない。

(信じてるぜ神様)

 男は覚悟を決めて地面を蹴り、化け物に一直線で向かって行く。

(行くぞおおぉぉ!クソがああぁぁ!)

 お互いの距離はどんどんと縮まる。

(来い! 来い!力を貸してくれ! 守る力をこの手にっ!)

 それは祈りにも似た願い。現世での男からは想像できない程の必死の願い。

 そして、それは遂に形となる。

 男の右手にはいつしか剣が握られていた。剣身に僅かな雷を帯びた神秘的な長剣。剣が帯びていた雷は次第に男の全身に拡がっていき、身体能力を向上させた。

 男はそのまま剣先を化け物へと向けて走り続ける。

「そんな……あれは【雷纏い】。それにあの剣は【神の八剣】の一つ--」

 リノは驚愕し、その場にへたり込む。

「【神鳴きカラドボルグ】」

 快晴だったはずの空にはいつまにか雷雲が立ち込ていた。

 そして、イカヅチの閃光と轟音とともに化け物の脳天へと剣が振り降ろされる。

(くたばれ! 化け物が!)

 神の雷に触れた化け物は跡形もなく消え去り、そこに残ったのは一塵の灰だけだった。

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